バパのカルマ論/下
ベネット(John G. Bennett)さんはグルジェフの高弟としてグルジェフの体系での修練にいそしんでおられました。<--リンク
そうしてそこにラティハンがもたらされました。<--リンク
当初はベネットさん、ラティハンに満足されていた様子でしたが、次第に飽き足らなくなり、グルジェフの体系とラティハンとを共用する事を始めます。
要するに「グルジェフの体系を能動的に用いることによりラティハンの進歩を加速することができる」と考えた訳であります。
しかしながら結果はベネットさんの予想に反して「グルジェフの体系はラティハンの進歩に寄与しなかった」模様であります。
そうして、バパによれば「ラティハンの進歩を早めることができるような、いかなる訓練体系も存在しない」のであります。
そのような状況下で我々にできる当面の事は「ラティハンが浄化したものを極力元に戻さない」という「受動的な立場の協力」しかありえません。<--リンク
そうしてプアサ(断食)であれプリハティンであれ、「ラティハンが許容する限度までしか」行えないのであります。
その限度を超えた場合は「ミックスmix」といわれている「ラティハンと他の修練体系を一緒に用いる事の間違い」として指摘される事になります。
ちなみにベネットさんの立場は「アダムが人間の完成形である」というものではなく、「宇宙を作り出した意思の下で霊的にも人間は順次進化していく存在である」というものの様でした。
それゆえにベネットさんの立場というのは上記のようなバパのスタンスとは方向が反対のものであったことになります。(そうしてそれは多分グルジェフからの影響もあったと思われます。)
PS
以下ご参考までに。
・獲得形質は遺伝する?<--リンク
・ミーム(人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報)<--リンク
PS
文明が発生し、社会が発展するのに従って我々の性格、個性、気質もまた変化してきたものと思われる。
たとえば農耕が主な社会では農耕にあった性格、気質を持つものが「すぐれたもの」として認められたでしょう。
そうなるとそのような気質、性格がその社会の中では選択圧となり、最終的にはDNAレベルまでの変化として固定されます。
同様に遊牧を生業とする社会ではその社会に適応した性格、個性が生き残ります。
こうして社会の在り方が人の性格や気質に影響をあたえ、そのなかのある部分はDNAによって固定されます。
そうやって社会が進んでいき、工業化、商業化、情報化、そうしてマネー化した現代社会では、人の持つ性格や気質が前の時代とは異なったものにになっているのは、ある意味「歴史の必然」でありましょう。
人類全体がそのようにして受けてきた影響、変化と言うものは明らかに我々が持っている「内部感覚」にもそれなりの影響を与えてきた事は明らかであります。
そういう部分まで含めての「内部感覚にたまった間違いのすべて」がラティハンでの浄化対象になっているものと思われます。
しかしながらそのような負債、「社会の変化に従って必然的に生じてくるような誤り」というものの責任を単に「両親の行動の誤りの結果である」としてしまう見方というのは、少々人間にとっては厳しすぎる判断基準の様に思われるのであります。
追伸
社会の進展に伴って生じる内部感覚の変化については6月6日1963年のリオデジャネイロ トークにも記述があります。
PS
さて仏教、あるいはヒンドゥー教、そうしてジャイナ教でもカルマによる輪廻(サンサーラ)、それも終わる事のない輪廻を説きます。
そうして、カルマによる輪廻という考え方の本質はなんでありましょうか?
それは「行動の選択ができる主体がいる。」ということであります。
そうでなければ、すべては事前に決定された、単なるお話の再現にしかなりません。
そうではなくて、「舞台の上の主人公の主体的な選択が可能である」、という世界構造でなければ「カルマによる輪廻」という構造は意味を持たないものになります。
さて、人はとりあえず主体的な選択はできそうです。
ところで動物は主体的な選択が可能なのでありましょうか?
動物に輪廻転生することもある、というカルマ論であるならば「YES」と答えるほかに選択はありません。
さて、本当に人間以外の動物に主体的な選択ができるのでしょうか?
このことは動物界を含んだ輪廻を想定している、カルマー輪廻論がもつ、大きな疑問点の一つであります。
ところでバパによりますれば「我々には自分自身の間違いによって動物力の世界に落ち込む可能性もある」とされています。
しかしながら、「動物力の世界に落ち込んだ我々の意識はその世界に適応したものになり、人間であった時の様な認識力や判断力を持たないであろう」とされています。
つまり「自主的に判断を行えるような自由意思は持たなくなる」というように理解されます。
このことをカルマー輪廻論に当てはめると、「動物はカルマを積まない、積めない」ということになります。
つまりそこで固定されていることになり、何らかの外部からの働きかけがない限りその状況はいつまでも継続されていくもの思われます。
さて、その外部からの働きかけというのはなんでありましょうか?
それが実のところ、このラティハンになるのでありました。
PS
バパによる「人の誕生の説明から見たカルマ論」
夫婦が子作りの行為によって子供をさずかる場合にいわゆる受精卵に魂(Jiwa)がやどると説明されています。
さてその場合に、その魂(Jiwa )はどこから来るのでしょうか?
一つの可能性は「転生すべき魂である」というものです。
バパは特定の条件下での魂(Jiwa)の転生を認めておられます。
もう一つの可能性は、「いまだ人と言う存在になったことがない魂(Jiwa)が供給される」というものです。
バパによれば、いずれにせよ「魂(Jiwa)というものは神の手作りのものであって、それは永遠のものである。」ということになります。
さて、人の形になる為には肉体とその人の魂(Jiwa)だけでは不足であります。
そこに追加される必要のあるものは、内部感覚と物質力から人間力に至る4つの諸力のパッケージです。
そうしてこの2種類のパッケージはどうやら両親から伝えられるものの様です。
両親から贈られる内部感覚がなければ人間としての存在になりえませんから、それは必要なのでありますが、その時に両親が犯したであろう間違い、さらにはその先の先祖が犯したであろう間違いの痕跡も引き継ぐ事になります。
こうしてバパがカルマと呼ぶものが親から子供に代々引き継がれてゆくことになる、そのように説明するのが「バパのカルマ論」となります。
ちなみに両親に供給される子供の魂(Jiwa)のレベルは通常は子供が持つ事になる内部感覚のレベルに適合したものになっている模様です。
それから両親から伝えられた4つの諸力のパッケージが内部感覚の中を還流することで、その子供の人生に必要となる4つのナフスが生まれる事になります。<--リンク
PS
個人が背負っているカルマ(間違い)の総量について
バパは7代までの先祖とはリンクがある、という主張をされます。
(何故に7世代なのか、バパは根拠を提示されませんが、俗に日本仏教では「7代たたる」とかいいますね)
両親からはじまってその先祖7世代、7世代目には128人(64夫婦)になります。
それを全て合計しますと両親までで254名となります。
さてそうしますと我々は254名が犯した間違いをすべて背負わないといけないのでしょうか?
(間違いの相続率が100%ですとそうなります。)
いやいや、そいつは少しむごすぎますね。
両親が犯した間違いの総量を2として、そのうちの半分の1が子供に引き継がれるとします。
(間違いの相続率を50%と仮定していることになります。)
そうしますと7世代合計でその間違いの総量は254、、、ではなく7になると思われます。
つまり各世代ごとの間違いの総量は2でそのうちの半分の1が子供に引き継がれるという事になります。
この考え方での計算結果詳細はまた後日にでも追記しておきます。
間違いの相続率を50%にしてもラティハンを始めるまでに我々が犯したであろう間違いの総量1に対して、身に覚えのない間違いが7はある、、、ということになりますので、さて恐るべきはカルマの蓄積であります。
追記
解けない謎!6代でも8代でもなく、なぜ7代なのか?
そうして、本州のみならず沖縄でも、加えてインドネシアのバパまでが「7代」という理由は何?
答え1<--リンク
人間が一度に感知することの出来る数の限界が七つだからです。
つまりその場合の七には「最たるもの」という意味があります。
ちなみにこの七を超えた数である八には「数えきれないほど多い」
という意味があります。
八百万の神、大江戸八百八町、八百屋、嘘八百に
使われている八はそういう意味です。
大辞林 第三版の解説<--リンク
ねこをころせばしちだいたたる【猫を殺せば七代祟る】
猫は執念深い動物なので、殺すと子孫七代までも祟るという俗説。
祖霊<--リンク
家系と祖霊[編集]
祖先の霊から共同体の神へ
沖縄地方では7代で神になるとされていた
PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク
そうしてそこにラティハンがもたらされました。<--リンク
当初はベネットさん、ラティハンに満足されていた様子でしたが、次第に飽き足らなくなり、グルジェフの体系とラティハンとを共用する事を始めます。
要するに「グルジェフの体系を能動的に用いることによりラティハンの進歩を加速することができる」と考えた訳であります。
しかしながら結果はベネットさんの予想に反して「グルジェフの体系はラティハンの進歩に寄与しなかった」模様であります。
そうして、バパによれば「ラティハンの進歩を早めることができるような、いかなる訓練体系も存在しない」のであります。
そのような状況下で我々にできる当面の事は「ラティハンが浄化したものを極力元に戻さない」という「受動的な立場の協力」しかありえません。<--リンク
そうしてプアサ(断食)であれプリハティンであれ、「ラティハンが許容する限度までしか」行えないのであります。
その限度を超えた場合は「ミックスmix」といわれている「ラティハンと他の修練体系を一緒に用いる事の間違い」として指摘される事になります。
ちなみにベネットさんの立場は「アダムが人間の完成形である」というものではなく、「宇宙を作り出した意思の下で霊的にも人間は順次進化していく存在である」というものの様でした。
それゆえにベネットさんの立場というのは上記のようなバパのスタンスとは方向が反対のものであったことになります。(そうしてそれは多分グルジェフからの影響もあったと思われます。)
PS
以下ご参考までに。
・獲得形質は遺伝する?<--リンク
・ミーム(人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報)<--リンク
PS
文明が発生し、社会が発展するのに従って我々の性格、個性、気質もまた変化してきたものと思われる。
たとえば農耕が主な社会では農耕にあった性格、気質を持つものが「すぐれたもの」として認められたでしょう。
そうなるとそのような気質、性格がその社会の中では選択圧となり、最終的にはDNAレベルまでの変化として固定されます。
同様に遊牧を生業とする社会ではその社会に適応した性格、個性が生き残ります。
こうして社会の在り方が人の性格や気質に影響をあたえ、そのなかのある部分はDNAによって固定されます。
そうやって社会が進んでいき、工業化、商業化、情報化、そうしてマネー化した現代社会では、人の持つ性格や気質が前の時代とは異なったものにになっているのは、ある意味「歴史の必然」でありましょう。
人類全体がそのようにして受けてきた影響、変化と言うものは明らかに我々が持っている「内部感覚」にもそれなりの影響を与えてきた事は明らかであります。
そういう部分まで含めての「内部感覚にたまった間違いのすべて」がラティハンでの浄化対象になっているものと思われます。
しかしながらそのような負債、「社会の変化に従って必然的に生じてくるような誤り」というものの責任を単に「両親の行動の誤りの結果である」としてしまう見方というのは、少々人間にとっては厳しすぎる判断基準の様に思われるのであります。
追伸
社会の進展に伴って生じる内部感覚の変化については6月6日1963年のリオデジャネイロ トークにも記述があります。
PS
さて仏教、あるいはヒンドゥー教、そうしてジャイナ教でもカルマによる輪廻(サンサーラ)、それも終わる事のない輪廻を説きます。
そうして、カルマによる輪廻という考え方の本質はなんでありましょうか?
それは「行動の選択ができる主体がいる。」ということであります。
そうでなければ、すべては事前に決定された、単なるお話の再現にしかなりません。
そうではなくて、「舞台の上の主人公の主体的な選択が可能である」、という世界構造でなければ「カルマによる輪廻」という構造は意味を持たないものになります。
さて、人はとりあえず主体的な選択はできそうです。
ところで動物は主体的な選択が可能なのでありましょうか?
動物に輪廻転生することもある、というカルマ論であるならば「YES」と答えるほかに選択はありません。
さて、本当に人間以外の動物に主体的な選択ができるのでしょうか?
このことは動物界を含んだ輪廻を想定している、カルマー輪廻論がもつ、大きな疑問点の一つであります。
ところでバパによりますれば「我々には自分自身の間違いによって動物力の世界に落ち込む可能性もある」とされています。
しかしながら、「動物力の世界に落ち込んだ我々の意識はその世界に適応したものになり、人間であった時の様な認識力や判断力を持たないであろう」とされています。
つまり「自主的に判断を行えるような自由意思は持たなくなる」というように理解されます。
このことをカルマー輪廻論に当てはめると、「動物はカルマを積まない、積めない」ということになります。
つまりそこで固定されていることになり、何らかの外部からの働きかけがない限りその状況はいつまでも継続されていくもの思われます。
さて、その外部からの働きかけというのはなんでありましょうか?
それが実のところ、このラティハンになるのでありました。
PS
バパによる「人の誕生の説明から見たカルマ論」
夫婦が子作りの行為によって子供をさずかる場合にいわゆる受精卵に魂(Jiwa)がやどると説明されています。
さてその場合に、その魂(Jiwa )はどこから来るのでしょうか?
一つの可能性は「転生すべき魂である」というものです。
バパは特定の条件下での魂(Jiwa)の転生を認めておられます。
もう一つの可能性は、「いまだ人と言う存在になったことがない魂(Jiwa)が供給される」というものです。
バパによれば、いずれにせよ「魂(Jiwa)というものは神の手作りのものであって、それは永遠のものである。」ということになります。
さて、人の形になる為には肉体とその人の魂(Jiwa)だけでは不足であります。
そこに追加される必要のあるものは、内部感覚と物質力から人間力に至る4つの諸力のパッケージです。
そうしてこの2種類のパッケージはどうやら両親から伝えられるものの様です。
両親から贈られる内部感覚がなければ人間としての存在になりえませんから、それは必要なのでありますが、その時に両親が犯したであろう間違い、さらにはその先の先祖が犯したであろう間違いの痕跡も引き継ぐ事になります。
こうしてバパがカルマと呼ぶものが親から子供に代々引き継がれてゆくことになる、そのように説明するのが「バパのカルマ論」となります。
ちなみに両親に供給される子供の魂(Jiwa)のレベルは通常は子供が持つ事になる内部感覚のレベルに適合したものになっている模様です。
それから両親から伝えられた4つの諸力のパッケージが内部感覚の中を還流することで、その子供の人生に必要となる4つのナフスが生まれる事になります。<--リンク
PS
個人が背負っているカルマ(間違い)の総量について
バパは7代までの先祖とはリンクがある、という主張をされます。
(何故に7世代なのか、バパは根拠を提示されませんが、俗に日本仏教では「7代たたる」とかいいますね)
両親からはじまってその先祖7世代、7世代目には128人(64夫婦)になります。
それを全て合計しますと両親までで254名となります。
さてそうしますと我々は254名が犯した間違いをすべて背負わないといけないのでしょうか?
(間違いの相続率が100%ですとそうなります。)
いやいや、そいつは少しむごすぎますね。
両親が犯した間違いの総量を2として、そのうちの半分の1が子供に引き継がれるとします。
(間違いの相続率を50%と仮定していることになります。)
そうしますと7世代合計でその間違いの総量は254、、、ではなく7になると思われます。
つまり各世代ごとの間違いの総量は2でそのうちの半分の1が子供に引き継がれるという事になります。
この考え方での計算結果詳細はまた後日にでも追記しておきます。
間違いの相続率を50%にしてもラティハンを始めるまでに我々が犯したであろう間違いの総量1に対して、身に覚えのない間違いが7はある、、、ということになりますので、さて恐るべきはカルマの蓄積であります。
追記
解けない謎!6代でも8代でもなく、なぜ7代なのか?
そうして、本州のみならず沖縄でも、加えてインドネシアのバパまでが「7代」という理由は何?
答え1<--リンク
人間が一度に感知することの出来る数の限界が七つだからです。
つまりその場合の七には「最たるもの」という意味があります。
ちなみにこの七を超えた数である八には「数えきれないほど多い」
という意味があります。
八百万の神、大江戸八百八町、八百屋、嘘八百に
使われている八はそういう意味です。
大辞林 第三版の解説<--リンク
ねこをころせばしちだいたたる【猫を殺せば七代祟る】
猫は執念深い動物なので、殺すと子孫七代までも祟るという俗説。
祖霊<--リンク
家系と祖霊[編集]
祖先の霊から共同体の神へ
沖縄地方では7代で神になるとされていた
PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク