ラティハン日記・掲示板

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雑記帳13・クバティナン事情(2011年)

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 2011年10月現在のインドネシアのクバティナン事情

・ジャワの宗教、信仰、呪術<--リンク

いろいろと変化があるようです。

『・・・インドネシアでは宗教と信仰は別とされていて、前者は宗教省の、後者は観光文化省(認定された時点では教育文化省)の管轄下にある。
普段は略して「信仰」と言っているけれど、正式には「唯一神への信仰」と言う
・・・・・
信仰は各地に土着的なものがたくさんある。
以前は、信仰を表す語はクバティナン(内面的なるものの意)だったけれど、前・信仰局長の話によれば、信仰を表す語はクプルチャヤアンに統一されたので、クバティナンは今は使われていないとのこと。
・・・・・
そういう信仰を実践している人たちは、自分たちのことをプングハヤット・クプルチャヤアン(信仰実践者)と称する。
インドネシアには、似たようなカテゴリの人を指す言葉として、パラノルマル、ドゥクンという語があるが、信仰実践者を自称する人達は、彼らと一緒にされることを喜ばないので、注意が必要だ。

パラノルマル(英語のparanormal)とドゥクンはどちらも超常能力を見につけた人のことを指し、特に、失せ物・失せ人探し、事業の予言、病気治療などを得意とする。
ただし、インドネシアでは、どちらもネガティブな響きを持つ単語だ。
特に、少なくともジャワでは、ドゥクンという語を耳にすることはない。
そこには、呪術師のようないかがわしい感じの響きがある。・・・』

さて、バパの協会も今や観光文化省に登録されている模様です。
そうして他の団体と同様に「唯一神への信仰」を実践する団体と見なされている様です。

注:「唯一神への信仰」(Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)
クプルチャヤアン(Kepercayaan)信仰
トウハン ヤン マハ エサ(Tuhan Yang Maha Esa)唯一神<--リンク
関連記事「唯一神への信仰」へはこちらから入れます。<--リンク

PS
つまり「インドネシア仏教徒は「唯一神を信仰」している事になっている」のです。

さてこう書きましたが、これは「日本人から見た感想」です。

インドネシア仏教徒は「Tuhan Yang Maha Esa」を本気で信仰している可能性があります。
(「唯一神」はインドネシア語では「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれます。)

その「唯一神への信仰」と言うのは、とても古くからあるものでその上にまずは仏教とヒンドゥー教が伝来し、そしてのちにイスラム教とキリスト教が入ってきた、というのが歴史です。
(仏教とヒンドゥー教は端の方に押しやられました。)

そして、インドネシアの人たちは「それらの外来の神はすべてTuhan Yang Maha Esaが形を変えたものであり、本質は同じだ」ととらえている所があります。

そうでありますから、我々の目には一見無謀な、無理筋に見えるパンチャシラ Pancasilaが成立するのでありましょう。<--リンク

その一番目に
1、唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa
と言う事が決められています。

インドネシアの人はこれを認めそうして『インドネシアではイスラム教、プロテスタントカトリックヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが・・・』
これらの宗教は全て「唯一神を信仰するもの」と認めているのであります。

そして当然、オープンの時の宣誓も「Tuhan Yang Maha Esa」を信仰しますね、と聞かれるのですから「NO」と言う人はいないのです。

「唯一全能の神」などとは聞かれないのですよ。
これがインドネシアでの状況です。


さて日本ではどうなったか?
まずは「Tuhan Yang Maha Esa」が英訳されます。
クリスチャン文化圏の英訳者はそれを God Almighty とかThe only almighty godと英訳し、日本人はそうやって英訳された文章から「唯一全能の神」と訳します。

そうしてこう聞かれるのです。
「唯一全能の神」を信じますね?と。
おまけに伝わってくるバパのトークは全て「スブドの神はアブラハムの宗教の神」のように書かれています。
それじゃ「唯一全能の神」とはあれの事か、となりますよね、普通は。

さてそれで困ってしまうのは仏教徒でした。
・・・・・
世界中の翻訳者はこうしてインドネシア語から英語に翻訳されたものを第二原典として、そこから自国語に翻訳していきました。
従って、世界中でオープンの時の宣誓は「唯一全能の神」を信仰します、と言わねばならなくなったと、そういう事の次第であります。

全ての呼び名を超える存在としての「Tuhan Yang Maha Esa」と言う概念はインドネシアにしか存在しない様です。
そのためにこうした誤解、あるいは混乱が発生し、世界中に広まっていったのであります。
2019/1/19

PS
・クバティナン関連の目次です。<--リンク

「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

スシラ ブディ ダルマ・7章の1 人の世界から物の世界に落ち込む事

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第3章 キナンティ 19節~20節、39節~51節(物質力の章:一部要約あり)
『19、あなたが自分にとっての正しい仕事をすることで、自動的にあなたの神への礼拝、これは人間としてのあなたの内部自我Diri Pribadiが要求している事ではあるが、それが減ずるということは無くなるであろう。
まことにこれは最善の道である。
なぜならその時人は世的な目的の為に働くことのみならず、神への礼拝もまた捨てられなくなるからである。

20、ここに述べた事を行う事により、あなたはこの世での生活のみならず、死後においても真の平和と幸福とを味わうであろう。
・・・・・
39、物質的関心が実際に大きな利益を生み出すとなれば、なおさらのことである。
さらに大きな利益を求めて、彼らは身を粉にしてでも働くであろう。

40、すること、なすこと全てがもうけを生むという喜びの為に、財産に対する愛は彼らの中で際限なく深まってゆき、ついには家族や親しい友人を愛する以上に財産を愛するに至る。
・・・・・
42、とりわけそれが当てはまるのは、常に成功し、何をやっても儲かる人たちである。
もしも彼らが自分の内部自我Diri Pribadiを顧みないと、物の世界の深淵に落ち込むであろう。(注:後述 第5章 メガトルフ 29節~45節 参照)
・・・・・
44、物体の内部にある力の作用というものは、このようなものである。
これらの物質力は人をしてもはや死後の生活、死後も続く事になる人間の存在様式を信じさせなくなる程に強い影響を与える。
だからそのことに気が付いていなさい。
(注:リンカネーションをみとめるバパでありますから、死後も続くことになる人間の存在は大前提となります。)

45、別の言い方では、注意していないと物質力の作用によって(この世で生活している間に)、その人の性格が変化してしまうということである。
そのようなってしまうと、自分のジワJiwaの事を認識する事が一段と難しくなってしまう。
・・・・・
48、そのようになってしまうと(この世で生活している時にすでに)人間というレベルから物質というレベルにまでその存在レベルが落ちてしまう事になる。
そうなった人は、(財産を持っていない、というだけで)豊かでない人達を物同然に扱う様になる。
・・・・・
51、しかしながら、ある人達が、物質力を理解していない、統御していない、という事で貧しい生活をしいられているとしたならば、それもまた間違いである。
そのような人たちはこの世の生活でも不幸であり、そうしてまた死後の生活でも不幸である。
(注:だからラティハンをやって自分の運命、天命をしり、人間としての生活が出来るようにしなさい、とバパいうのです。)』


第5章 メガトルフ 25節~28節、物質力の章:仕事に取りつかれる事(雇主に雇われて働く人の例)
『25、そして雇い主に目をかけられている為に、自分が働いている部署では権力者になった様に感じ、同僚に対して横柄にふるまう者も出てくる。

26、こうした状況の中で、彼はいとも簡単に仕事にのめりこみ、ハート(Hati)や頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。(注1

27、昼夜、彼等は自分の仕事のこと以外は考えない。
そしてついには彼らの内部生命(inner life)も同様に影響を受けて、仕事以外の事は何も意識しなくなるのである。

28、それゆえ、外面的にも内面的にも自分の仕事に専念するのだが、その結果、人生の最後になって死を迎えた時に、彼らが引き寄せられるのはその方向に向かってである。
(注:つまり地球上の特定の場所に引き寄せられる。
つまり、生前に彼がこだわりを持って意識していた、常に考えていた場所に引きつけられる、ということです。
そして、それを通常は地縛霊と言います。
あるいは浮遊霊という場合もあります。
そしてバパの言い方ではそれは「物質力の世界に引きこまれたジワJiwa」という事になります。)』


第5章 メガトルフ 29節~45節、物質力の章:物の世界の深淵に落ち込むこと
物には物質力という一番低いレベルではありますが、生命力を認めるのがバパの世界観になります。
そうして、そのような物質力レベルのジワJiwaが集い、生活している世界としてスシラ ブディ ダルマでは以下の様な「物の世界」を記述しています。
しかしながらそのような世界を我々は通常は認識できません。
そうしてスシラ ブディ ダルマからその記述部分を引用してもただ単に我々は空想を刺激されるだけです。
くわえて、そのような世界の事を認識できなくてもラティハンを続けていく上では何の支障もない様です。
それで以下、その部分の記述は概要のみにとどめて、興味のある読者には原典にあたっていただく事にしたいと思います。

以下、第5章 メガトルフ 29節~45節の要約
『29、・・・物の世界の有様は我々の世界の様であり・・・

30、・・・この現世での我々の生活から見れば、そのような物質というものには生命がある様にはみえない。
それは我々が自分たちの生活の為に加工し便利な道具として使用する物としかみえない。・・・

31~32、・・・物のレベルで神との関連をもつ、それを礼拝といってもいいかもしれない・・・

33、このような訳で物は自分の地位を自分と比べてより高い段階である人間のレベルに引き上げてもらおうとして、人の思考に結び付く事を切望している。
(注:このような訳で人は自然を理解でき、それを自分たちの生活に役立てる事が可能となっている、というのがバパの主張です。)

34~35、37・・・このようにして物は人の世界に入り込み、人が生きている間、その人の望みに従い続ける。

36、それが物に定められた生き方である。
人はそのことを理解し、物質力の影響を理解し、それを統御できるようになる必要がある。

38~43、しかし実際には反対の事が起こっている。
つまり人間が物に仕えるのである。
そのために物の段階を引き上げるのではなく、人間が(死後に)物の世界に沈み込んでしまう。

39~42、死後、物の世界に落ち込んだ人はこの世にいた時に持っていた人としての記憶と感覚(Rasa)をもはや維持できない。
そして、物の世界を「当然の事」として受け入れる。

(このような状態は人の本来あるべき死後の生活の状態ではない。
しかし人間自身の行動の間違いによって物の世界に落ち込むならば、そうなってしまう、というバパの主張、警告であります。
そうして、そうであるとすればこの世の生活というのは人間にとっては本当にテストになっている、自分のレベルを改善し向上させるも、低次の諸力の欲望のままに降下させるもその人次第である、という事になります。)

44、(それまでその人に仕えてきた)物にとってみれば、この事(人を物の世界に連れ込む事)は正当な代償に見える。
なぜならば、これらの人々は(彼らが使っていた物に対して)借りがあるからである。・・・

45、しかしながら、その人にとって見ればそのような状況というものは、単に「悪い」というもの以上の事である。
それは人間にとっては「大いなる過ち」である。
人間は物に対して秩序を与えることが出来る存在であるのに、その事に完全に失敗しているからである。』

注1:ハート(Hati)や頭脳
ハートやマインド、あるいは感情心と思考心の様に訳される事もあります。
それで、現代の我々の考え方では「感情も思考も頭脳が作り出すもの」という様に理解しています。
ですから、この部分の訳は我々からすれば、
「ハート(Hati)や頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。」というのは単に
「頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。」とすればよい事になります。
しかしながら、バパの時代では「感情、想像、白日夢を抱く場所というものは肝臓(Hati)である」とされていました。
従って「心、感情、ハートと思考心が具体的に生み出される所」としては「頭脳」というだけでは足らず、「Hati(肝臓)と頭脳」と言わなくてはならなかったのです。
(Hatiについての、このような理解は、1959年5月3日のトークの注釈からの引用となります。)

PS
物の世界に落ち込んだジワJiwaのその後の運命、成り行きに関してはスシラ ブディ ダルマの中では何も記述されていません。

但し、関連する記事(63BCL7.8(ブライアクリフ))地球に定められし時にはこちらから入れます。<--リンク

連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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雑記帳6・ラティハンからの照明(イルミネーション)

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「ラティハンとは何であるのか?」

そういう質問に対して「ラティハンと言うものはこういうものだ」という説明がなされる。

その説明の元になっているものは、コトバは、ボキャブラリーは、情報は、知識は、今まで地球上に存在してきたものである。

まあ当然ですね。

従来のものを、既知の物を使うしか説明、あるいは証明と言う行為はできませんからね。

そうしてそれが説明の限界、証明の限界なのであります。

そういうものを超えてしまったらもはや説明は不可能、証明は不可能になります。

そういうわけで、本当は「ラティハンは説明不可能」なのです。

しかしそうはいっても、それでは「身もふたもない話」になってしまいますので、そういう訳にもいきません。

それでラティハンに対していろいろとバパは説明してくれたのであります。

ジャワ語をつかって、インドネシア伝統の文化をつかって、イスラムを使って、アブラハムの宗教をつかっての説明でありました。

しいて言うならばそれはラティハンのバパバージョンの説明であります。

その意味は「ラティハンはバパの説明を超えている」という事であります。

しかしながらそれは誰が説明してもその人の使うコトバ、その人の暮らす文化、宗教、思想によってしか説明はできないのですから、どのような説明が展開されようとも、その説明をラティハンは超えているのです。

さて、そのような事を前書きとして、逆にラティハンからの照明を、光を、見えてくるものを少々書いておきます。

ラティハンを説明するために使われた宗教的な説明、あるいは宗教そのもの、それに対して今度は逆にラティハンからの照明があたります。

ラティハンによって見えてくる宗教の意味、本体、実体がありそうです。

そのような話をすると既存の宗教権威からは反発がきそうです。

「我々が宗教の実体を知っている者だ。」という訳ですね。

しかしながら我々庶民にしてみればそのような「えらいさん」がどのような実体をつかんでいるのか、などという事はどうでもよい話であります。

要は、生まれてきて、いずれはこの世を離れるであろうこの身に起こる事を知りたい、という話でありますら、それがわかればいいのであります。

そうしてどうやらラティハンはそういう希望に答えてくれそうな、人から人に手渡すことができる、技術、テクニック、方法、礼拝、啓示、天啓、恩沢、ワヒューなのであります。

それは日常生活では人の内省と自覚と努力を要求し、その結果は変容、覚醒、救い、解脱をもたらす可能性があります。


注:「可能性がある」という意味。

上記の「結果」に書かれている内容は、いままではいわゆる「宗教的天才」によってしか達成された事がなかったものです。

したがって、それらの事を達成するのは、どのような道をめぐるにせよ難しい、と言うのが実情です。

しかしながらラティハンの道はそれに比べれば比較的にたやすい道ではありますが、そうかといって無条件にラティハンさえ実習していればそのようなところにたどり着ける、という訳でもなさそうです。

バパがカルマと呼ぶ、先祖から引き継いできた内部感覚にため込んでいる浄化対象のごたごたの多い少ないという違い、会員がどれだけ忍耐と誠実さをもってラティハンに従っていけるのか、という時間軸上の試練、そうして同時に日常生活ではラティハンの注意にどの程度従っていけるのか、という問題、そういう個人個人に帰属する問題があります。

そういう問題がクリアできれば、バパが主張している様なロハニと言われるような状態に達することが出来るかと思われます。

そういうわけで、ラティハンの道はある種の宗教とは異なり、~すれば天国は(あるいは極楽は)保証される、というような道とは違います。

(最終的にはラティハンの道に従う事でどの程度まで内部感覚の浄化が進んだのか、という事がポイントであって、そうならない状況では、そのようにできない状況では、多くを望むことは難しいと思われます。)

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。

追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。

バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。

そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。

そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。

したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。

しかし、本質はごまかす事はできません。

そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。


PS
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雑記帳34・バパの堕落論とベネットの進化論

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さてバパは「人類はアダムに始まってそこからは堕落の歴史が今日まで続いている」と論じます。

他方でベネットさんは「人類の精神は進化の途上にある」と論じます。

この話、一見すると「まるで方向が逆ではないか」と見えるのですが、いずれにせよ今いる場所から出発して上に登らなくてはならない、という意味では、目指す所、やる事は同じ事の様です。


バパの説明はアブラハムの宗教の伝統に沿ったものであります。

他方でベネットさんの説明は、今という時代の精神に沿ったもの、いわゆる「科学的なものの見方、歴史観」に従ったものの様に見えます。

そうしてベネットさんは、まずはグルジェフの体系で人の精神は次のステップに行けるのではないかと試されました。

それで、うまくいかずに次にラティハンを試された、という訳です。


しかしながらラティハンそのものは容易なのですが、ラティハンで進歩し続ける、ということは、変化し続けるということは、実はとても難しい事なのでありました。

それゆえその事に耐え切れなくなって、ベネットさんはグルジェフの体系とラティハンとを融合させようとした模様です。

しかしながらハート、マインドとジワとの融合というのはラティハンによってのみ可能になるものでしたから、結局はその試みはうまくいかなかった模様です。


もし人がラティハンを継続する事によって疑問を持たなくなり、自分を顧みなくなって、「ああこれで安心だ」という状態になったとしたら、現状に満足し、その先を見据えないとしたら、それはあきらかにマンネリに落ち込んでいる事になります。

ラティハンを続ける事で精神的な創造性がなくなるとしたら、それはラティハンのせいではなく、その人のラティハンに対する態度のせいであります。

ラティハンは人をして愚鈍にするようなものではありません。

まさにその反対のものであります。

そうでありますから、「ああ、これで楽になった」ということで満足し、そこに安住するならばそれはバパが目指したもの、そうしてまたベネットさんが希求したものとは全く別のものになる訳であります。


PS
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ラティハン日記 目次

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目次

第0章・スシラ ブディ ダルマ<--リンク

第1章・ウエルカム トゥ ラティハン (ラティハンにようこそ<--リンク

第2章・ラティハンとは何か<--リンク

第3章・バパの語りしトークなど<--リンク

第4章・道を求めて<--リンク

第5章・特集記事一覧<--リンク

第6章・レビューポイント<--リンク

第7章・2代目のことなど<--リンク

第8章・協会の来し方行く末<--リンク

第9章・インドネシアの宗教とクバティナン<--リンク

第10章・バパトークの索引<--リンク

第11章・Latihan Stories and Susila Budhi Dharma<--リンク

終章・参考文献<--リンク

付録・雑記帳<--リンク

日本人の魂(jiwa)の極楽(天国)

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以下 「日本人の魂の極楽」より全文引用<--リンク

そして分かりやすくまとめられている「mansonge のニッポン民俗学」に感謝します。<--リンク

▼序

 「知らぬが仏」とはよく言ったものだ。

安眠をむさぼっていた日本思想は、仏教思想によってたたき起こされて以来、長らく自信を失っていた。

しかしその後、日本思想は当の仏教思想を摂取し続けることによって、ついに日本人の魂の極楽を見つけたのである。

(本小論では触れないが、この続きを言えば、今度はキリスト教=西欧近代思想が日本人の魂の極楽に闖入し、日本思想は現在またも自信喪失の病床にある。)


 この小論は、日本人の魂についての覚え書きである。

▼太古、魂は幸せであった

 太古は人間の魂にとって平安な時代であったようだ。

エリアーデが語る「死と再生」の永遠回帰を倦まず繰り返していたことだろう。

この時代には個人はなかった。

死者はただあの世に逝くだけだ。

横死した場合も、カミがあの世に連れていってくれた。


 あの世に天国も地獄もない。

死ねば行く所であり、生まれるまでいる所があの世である。

つまり身体がない魂の国なのだ。

それに対して、この世では魂は身体の中にある。


 魂に前世の記憶はない。

魂は、年をとるようなものではないのだ。

このころ、魂とは生気エネルギーだ。

生きるとは息をすることであり、空気を呼吸することである。

赤子は息をして生まれる。

すなわち、気こそが生命なのである。

これが弱まることが、気涸れ(けがれ)あるいは気離れであり、後の穢れや汚れではない。


 カミは様々いたが、蛇について触れておく。

蛇は「死と再生」のカミだ。

この世とあの世の往還が死と再生だが、この擬制が祭りである。

死と再生は、一年の中にも一月の中にも一日の中にもあった。

人々はこれら小サイクルの中の祭りで、死と再生を繰り返していた。

気涸れとはそういう「死」であった。

蛇が脱皮して成長していくように、人や世界も、神聖なる時空間を脱皮していくのだ。

再生(新生)するために死なねばならない。


 そういう気涸れには、後のような祓ったり清めたりすることでは意味をなさない。

死に場所を与えること、あるいは死にゆく魂を救うことでなければならない。

死に場所とは、子宮のような冥い穴ぐらである。

後のこもる所である。

では、どうやって死にゆく魂を救うのか。

魂は生気であったから、これを活気づければよい。

すなわち、魂振りである。

鈴を振るように魂を振ること(これが物部の仕事であった)。

引用注(魂振り:Wikiより抜粋<--リンク)神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが「たましずめ」である。「たまふり」は魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。


 モノと言えば、大物主を思い出すが、そう言えばこの神は蛇であった。

魂はカミにもなりモノにもなった。

カミとモノに共通するのは霊威の強さだ。

カミは人々に信認された霊威であり、モノは信認されなかった霊威である。


 魂はしばしば浮遊した。

夢を見ている間、魂は浮遊している。

夢では、あの世との交渉も自由だ。

カミやモノとも出会う。

夢から覚める時、魂が浮遊したままでいると、死んでしまう。

死んだ魂は鳥となってあの世へ飛んでいった。


 個人がない時代、すなわち内面のないこの時代では、吉凶や善悪はカミがなせる業であった。

だから、死もカミの定めたものであった。

カミが定めた罪人は、カミの加護を失った者として、カミの世界(共同体の範囲、村コスモス)から遠ざけられた。

つまり、異界に流されたわけだ。これは穢れとモノの起源である。


 しかしカミの霊威は強く、まだたたりのない時代であった。

人は死ねばあの世に行くことができた。


▼古代国家の生成と仏教の流入(引用注:奈良時代ー>平安時代にかけて)

 仏教は、内面の罪と地獄をもたらした。

この世に個人を目覚めさせ、極楽と地獄という二つのあの世をもたらした。

平安な時代は終わったのだ。


 神帝は人帝となり、国家が立ち上がる。

刑罰は、神の名のもと人が下すものとなった。

紀記神話にはすでに「古代」が忍び込んでいる。


 気涸れは穢れとなった。

集合的な魂は個別化されつつあった。

そこここに漂っていた魂=生エネルギー=生命が、個人的な魂=心になろうとしていた。


 穢れは祓わねばならない。

祓いとは、穢れをぬぐい浄めることだ。

古来、穢れは水に流された。

これを水にすすぐことが、禊ぎである。

ところでこの水はどこに流れてゆくのだろうか。

異界である。

他界であるあの世ではない。

異界とは共同体=国、コスモスの域外のことである。

タマやカミではないモノの棲む世界を言う。

長らく、この世=世界は(実はあの世も)限られた自分たちだけの世界=コスモスであったのだ。


 仏教の如来や菩薩は新しい外来のカミとして、新しい人たちに迎えられた。

どのようなカミであり、また新しい人たちとはどのような人たちか。

新しい人たちとは、日本の神には祓えない罪、神意ではない罪に穢れた、つまり内面に目覚めた個人の罪を自覚する人たちである。

この罪に穢れた魂はあの世には行けない。

死後に地獄が待ち受けているのだ。

この罪を祓うカミが如来や菩薩であった。


 皇族や貴族たちがすでに内面の罪に目覚めていた。

彼らには死後に平安なあの世に行けないかも知れないという不安があったのだ。

日本の神は霊威を失いつつあった。


 しかし、大部分の日本人は個人の罪なぞ知らなかった。

日々を神意を伺うことで過ごし、累積した穢れは定期的に祓い流していた。

祭りが自分たちのコスモスの再生儀式であることにも変わりはなかった。

また、稲作が盛んになり、蛇のカミは雨をもたらす恵みの神となっていた。


▼祓えない穢れ、たたる死者たち(引用注:平安時代

 仏教思想は徐々に全国に浸透していった。

皇族や貴族たちに続き、個人に目覚めたのは全国の豪族たちである。

彼らも外来のカミを熱烈に求めた。

彼らには、日本の神自身が気涸れてきているように思えた。

律令国家以降の社会進展の担い手である彼らには、それほどまでに日本の神の霊威は衰えて見えた。


 そこで神の境内に神宮寺が誕生する。

主として密教系のパワーあるカミが祭られた。

密教のカミは呪術のカミだ。

個人の頼みごとを聴くカミだ。

豪族たちは、現実変革を求めていたのだ。

律令国家の「紀記神話」体制による社会や土地制度は崩れつつあった。

空海が請来した密教はこの流れを国家的にも完成させた。

天皇から庶民まで、日本全国が密教化することになる。


 このような社会変化は、それまで疑いもせず日本の神にすがってきた人々にも、逃れがたい葛藤をもたらすこととなった。

神が力を弱めたため、あの世に行けない魂が出現し始めたのだ。

そうして、モノ化した魂がこの世にさまよい出す。


 また、穢れが、神の霊力では簡単に流せなくなった。

社会の進展は人々の生活コスモスを一気に広げ、神がこれまでカバーしてきたエリアをはるかに越えてしまった。

地理的にも異界ははるか遠のいてしまっていた。

死ぬこともあの世に行くことにすぎなかったのに、選ばれた者しか極楽というあの世へは行けないということになった。

さらに、死は穢れたものとなった。

穢れが流せない以上、一時遠ざけるほかない。

これが物忌みである。


 横死した魂、特に怨みを含んた死者はあの世に行けず、モノと化し、堂々とこの世に現れ、たたるようになる。

このころ、蛇のカミは忿怒する雷となる。


 たたる死者=魂を慰撫する手段はもちろん密教である。

魂を慰撫することを鎮めるという。

鎮魂仏教による魂鎮めである。

魂を活気づけるためになされたのが魂振りであったが、いまや魂は鎮めるものとなった。


 たたる魂の方も密教的な背景で出現する。

菅原道真大日如来の化身である帝釈天の弟子、観自在天神となっている。

ご存知の通り、この魂鎮めは見事成功し(現世的な贈位によってだが)、後にたたるモノから天神というカミに転身するのだが。


▼成仏への道(引用注:平安後期)

 もはや日本人の魂は、仏教思想抜きには立ち行かなくなった。

こうして浄土思想が本格的な威力を発揮し始める。

罪人である個人は地獄へ堕ちる。

しかし阿弥陀仏にすがれば、極楽往生できるかも知れない。

密教は現世的生活呪術であったが、浄土教は来世的生活呪術である。


 始め極楽往生の願いは寺や僧をかかえることができる裕福な支配層にしか許されないものであったが、やがて法然が専修念仏を説く。

すなわち、誰でもができるやり方(呪術)で極楽往生の願いが叶うことになったのだ。

ようやく日本人の魂はあの世への方途を再び見つける。


 いつしか、極楽に行けることを「成仏」すると言うようになった。

これは日本的な言い方ではないか。

仏に成ること=悟りを開くことと、極楽に行くこととは本来違うはずだ。

極楽に行くことだけで仏になれる。

あたかも、あの世に行くだけでカミになれるように。

「極楽」とはあの世のことであり、「仏」とはホトケというカミではないか。


 葬式とは、日本人の魂をあの世に送る鎮魂呪術儀式にほかならない。

たたることなく、つまりモノとなってこの世をさまよい歩くことなく、あの世に再生するための。


 ついには、死者をただちに「ホトケ」と呼ぶようになる。

死ぬことを「成仏」と言い、死んだだけでホトケ=カミとなれるようになる。

もはや鎮魂呪術すら不要なのだ。

ここに、すべての日本人の魂はあの世という極楽へ行けることとなった。


▼結び

 しかし、現在でも死者の祟りは信じられている。

横死者はもちろんのこと、実験解剖されたカエル、飼い犬や猫、使い古された針までも、供養を受ける。

無事にあの世に行けるように葬式呪術が施され、成仏する(カミとして再生する)よう弔われるのである。


 因みに、現代の幽霊も弔いによって成仏するわけだが、これを最初にパターンした劇が能である。

能では、主人公があの世に行けずさまよう魂(モノ)と出会い、供養を施して魂が成仏することで終わる。

このときまでに、日本人が現在に至る鎮魂形式を完成させたことを示す証左である。


(補足としての自注)

1、大陸からの流入思想を「仏教」に一括している。

儒教道教の独自の影響についてはここでは無視しているが、日本に流れ込んだ仏教にはすでに儒教道教の影響が含まれ、古神道と相俟って日本仏教を育んだものと考える。

2、仏教での他界を「極楽と地獄」に限定している。

六道輪廻、また輪廻転生そのものについては触れていない。

日本には古来、この世とあの世の往還というごくフラットな生まれ変わり思想があり、また人間以外の生物も同様な往還を繰り返していた、と考える。

[主な典拠文献]-->原典を参照ねがいます。<--リンク

ここまで引用でした。
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PS
仏教の伝来が日本にとっての失楽園の始まりでありました。

つまりは仏教が「リンゴ」であったと。

なかなか興味深い言説であります。

なお ジワ、生まれ変わり等に関連したページにはここから入れます。<--リンク


PS
インドネシアに海を越えて外部から宗教が入ってくる前は、そこには自然発生的なアニミズムの時代がありました。

この辺りの事も日本と相似的な事であります。

それについてはたとえば以下の様な記事があります。<--リンク

アニミズムの時代にもすでに信仰の徒(Penghayat)はいたわけだし、その時代にすでにパンチャシラの基礎はあったのだ。

ただ石などの呪物に対する崇拝というのは、そうしたアニミズムの時代固有のものであり、我々の基礎はあくまでも「唯一なる神」(Tuhan Yang Maha Esa)である。』

あるいは、このような記事も参考になります。<--リンク

『この「唯一神」という概念はインドネシアでは古くからの伝統のあるものの様であります。

たとえば「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa (39 Page)」

有史以前のインドネシアの祖先たちが、完成したク・トゥハン・アン(絶対的神格)に対する理念と概念を持っていたことは、すでにたびたび確認してきた。・・・・・』

こうして当時のインドネシアではアニミズムと共にすでに「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa」というものが存在し、それらが共存していた事が分かります。


そうして次の時代が海外からの宗教の伝来という事になります。

インドネシアでは最初に来たのがヒンドゥー教で遅れて仏教がインドから伝来しました。

そうしてそれらの宗教を国教として国を治めたのでありました。

243.サイレンドラ王国<--リンク

244.古マタラム王国<--リンク
・・・・・
インド文化の影響のもとにサイレンドラ王国は《仏教》を、古マタラム王国は《ヒンドゥー教》を国教としていた。

ボロブドゥール(→126)やプランバナン(→128)の世界に誇るこれらの遺跡はこれら両王国が残した輝かしいモニュメントである。
・・・・・

ここまでは日本の奈良時代平安時代と同じようなものでありました。

しかしながら、その当時のジャワの一般の人々がどのように魂の救済をとらえていたのかはよくわかりません。

これは今後の検討課題であります。


さてその後日本にはキリスト教がジャワにはイスラム教が伝来します。

日本のキリスト教はこの国の王である支配者が出した「禁教令」によって禁止され、それと相まって出された「寺受け制度」と相まって、日本の仏教化が完成します。<--リンク

キリスト教伝来までに日本国内が武士によって統一されていた為にそのようになりました。

でも支配者層が自分たちの魂の救済をキリスト教に求めていたら話は大きく変わってきますが、そのようなことは起こらなかったのであります。


一方ジャワではイスラム教が広がり始めます。

249.ドゥマック王国の勃興<--リンク
・・・・・
マジャパヒト王国の衰退は内紛もあるが、東南アジアを取り巻く状況の変化である。

交易の中心はイスラム教を奉じるマラッカ王国に移り、イスラム教の影響がジャワ島に及んだ。

ヒンドゥー教を奉じる大帝国マジャパヒトの覇権は次第に色褪せ、領土はイスラム勢力によって蚕食(さんしょく)された。
・・・・・

インドネシアには常に西方から海を渡って宗教が伝わってきた様です。

それも宣教師が先行したわけではなく、海洋貿易にたずさわっている商人たちが最初に伝えたのでありましょう。

そういう訳で、今回のイスラム教も前回のヒンドゥー教や仏教と同じような経路でインドネシアに伝来してきたものと思われます。

そうして、このあと紆余曲折をたどりながらもイスラム教は広まり続け、インドネシア列島のイスラム化が完成するのでありました。

こうしてインドネシアの人々はイスラムによる魂の救済を受け入れる様になったのであります。

PS
インドネシアの宗教の歴史一覧(リンク集)です。<--リンク(修正済)

それぞれの項目をクリックすると詳細が見れます。

ジャワ宗教にはこちらから入れます。<--リンク(修正済)

世界宗教の概要<--リンク

PS
人類というものは大差ないものだ、という、ちょっとした追加のお話です。

スティーブン・ケイヴ: 死について私達が信じる4つの物語<--リンク

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

唯一神への信仰

 Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

 

唯一神への信仰。

バパが「大切ですよ」と強調するものです。

さて、それはそれでいいのですが、この「唯一神」が何を指しているのかはどこにも明示されていません。

(ちなみに「唯一神」はトークでは「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれています。)

もちろんバパはイスラム教徒ですからバパにとっての「唯一神」は「アッラー」であります。

さてそうであれば「唯一神への信仰」などと言わずに「アッラーへの信仰」といえばいいのであります。

でもそうは言えないのですね。

そう言ってしまっては「ラティハンはイスラム教徒専用」ということになってしまいます。

それでパンチャシラの表現にならって「唯一神への信仰」と言われたのでありました。


さて、このあたりの事情は先行していたパンチャシラでも同じでありました。<--リンク

そうして選ばれた言葉が「Tuhan 神」でしたね。(KeTuhanan yang Berkebudayaan)

それでインドネシアでは「パンチャシラのもと、全ての宗教は唯一神への信仰をしているもの」とされています。<--リンク

そしてwikiによればインドネシアではイスラム教、プロテスタントカトリックヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが、無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性がある」とのこと。<--リンク

ですからインドネシアでは「ラティハンはイスラム教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒仏教徒儒教徒御用達」ということになります。


一方インドネシア人でない我々にとってみれば「唯一神」とは一般的には「アブラハムの宗教の神のこと」でありますね。<--リンク

そういう風に理解すると「ラティハンはユダヤ教徒キリスト教徒、そうしてイスラム教徒御用達」ということになります。


さあそれではバパはいったいどの意味合いで「唯一神への信仰」を語ったのでしょうか?

バパが言った「唯一神」というコトバの正体は何でありましょうか?

いずれにしても「ラティハンは全ての人類のものである」と言うバパでありますから、すくなくとも「パンチャシラ程度の包容力」は必要でありましょう。


そうしてパンチャシラが言う「唯一神への信仰」。

実はこの「唯一神」という概念はインドネシアでは古くからの伝統のあるものの様であります。

そのあたり、試訳(中辻 正)「スマルとは何者か?」を参照してみていきましょう。<--リンク


たとえば「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa (39 Page)」

有史以前のインドネシアの祖先たちが、完成したク・トゥハン・アン(絶対的神格)に対する理念と概念を持っていたことは、すでにたびたび確認してきた

それゆえ、パンチャシラ Pancasila の第一原則、『唯一神への信仰は真に有史以前からの独自の個性を打ち立てたものである。』にも明記されている。

この唯一神への信仰の原則ゆえに、インドネシアに存在するすべての宗教と信仰は束ねられ得るのである

それは『ビネカ・トゥンガル・イカ・タン・オノ・ダルモ・マングルウォ BHINEKA TUNGGAL IKA TAN HANA DHARMA MANGRWA 、すなわち、様々な色は、二つとわけることの出来ない『真実』(神)があって、ひとつにすることができる』ということである。

・・・・・とか


あるいは「神聖と神聖なるもの (43 Page)」

 これまでの解説にさらに加えるものはもう無いと著者には思えるが、我々の祖先の才は賞賛に値するといえる。

その時、彼らは既に完全なる神性の理念と概念を持っていたのである


そしてこの意見には同意が得られると思うが、パンチャシラ(第一原則、唯一神への信仰)は、国とインドネシア民族の人生哲学の基礎とされるものであり、個人各々の人格の上に堅固なそびえ立つ『神聖・超越的』理念である。

・・・・・などであります。


インドネシアに限らず「聖なるもの」はそうやって世界各地でいろいろな民族によりいろいろなコトバで言い表わされてきました。

それゆえに、そういうものを全て包括できる「唯一神」でなければバパが主張する「ラティハンは全ての人類のものである」というような状況は決して生まれることはないのでありました。


PS
本来は名前など持つ必要がないのが「唯一」にして「超越しているもの」であります。

でもそれでは困るのが人間でありました。

そうやって世界各地でいろいろな名前で呼ばれる様になったのです。

そうして、そうであればどのような名前で呼ばれようとも「超越しているもの」には本来は関わり合いのないこと、少しも困らない事なのでありました。


PS
インドネシアでは憲法のもとで全ての国民は何らかの宗教を持ち、そうしてそれらの宗教は全て「唯一の神を信仰している」のでありました。

従ってインドネシア国民はバパが設立した協会に入る時に「自分の宗教が障害になる」というようなことは決して無いのであります。

そうしてそのような状況が成立している為、「バパが作った協会は宗教フリーである(どのような宗教をお持ちでも問題なく入会できますよ、、、という意味)」と主張することがインドネシアでは可能になるのでありました。


でもこれはインドネシアでのみ通用する話であります。

憲法で本当の「宗教の自由(信教の自由)」を規定している国々では「宗教ではない」と言いつつ「唯一神を信仰せよ」という協会のルールでは「憲法違反のおそれ」があるようにも見えますね。

それでも「信仰の踏み絵」を要求するならば、まずは自分たちを「宗教団体」と表明してからにするべきでありましょうか。

そうするのが「フェア(公平)」というものであります。


事実我々は「何を信仰し何を信仰しないか(どのような圧力であれ受ける事なく)決める自由」があります。

そうして「宗教団体ではない」と公言しているバパが作った協会に入るにあたって「信仰の踏み絵」を踏む必要はないのです。

但しバパの説明を聞いていただく事は必要でありますが、その上で「入ります」と表明すれば「拒否される理由」はどこにもありません。


以上が入会にあたって「確認が必要な事のすべて」なのでありました。

そうして実際に会則条項のどこにも「入会するには信仰の踏み絵が必要」とは書いてありません。

それどころか「宗教はいっさい問わない」とあります。

「何を信じ何を信じないか自由である」と。

そうして「問わない」のでありますから、「信仰の踏み絵」などはもってのほかであります。

これは自分たちで作ったルールですから守るのは当然のこと、当たり前でありますね。


さて「そのような協会の意向に反対するような事を考えているとラティハンが止まってしまうぞ」というような声が聞こえてきそうです。

いいえそんな心配は不要ですね。

スシラブディダルマにこう書かれてあります。

「欲望や願い、そうして感情や思考、そういうものを自分から離して正しく全託できればラティハンを受けられます」とね。

そうしてどこにも「あれを信じなさい。これを信じなさい。」

「そうしないとラティハンにはなりません」とは書いてないのでありました。

PS
インドネシアで宗教とはパンチャシラ(→365)の"最高神への信仰"で唯一神への信仰とされている。

仏教もヒンドゥー教唯一神に体系化されている。

クバティナンはスハルト大統領になってから宗教ではなく信仰、即ちジャワ固有の文化として認められた。

管轄も宗教省でなく、教育文化省である。

以上、インドネシア専科よりの引用でした。

詳細は707.クバティナンを参照ねがいます。 <--リンク

(引用注:もちろんバパが作った協会もクバティナン登録なのでありました。<--リンク
     そうしてインドネシアでは「宗教と信仰は別物」の様でありますね。)

PS
こちらでは付論にて「(インドネシアでの)信仰の誕生」が語られています。<--リンク
(うまくリンクできない時はhttp://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAJ/ZAJ200306_021.pdfにて。)

PS
1997年に出版されたAntoonさんの本でも83ページで「信仰の誕生」が語られていました。

Santri Roh Antoon でググってみて下さい。

Antoonさんの本にGoogleぶっく検索結果としてヒットしますので、ご確認をお願います。


PS
On The Subud Way4ページはスシラブディダルマからの引用になっています。

さてスシラブディダルマでは「全能なる神(アッラー)」と記述されていますが、On The Subud Wayでは「全能の神」とだけ記述されています。

さて質問です。

バパはどのように語られたのでしょうか?

答えは「アッラー」でしょうね。

でも我々はそれでは都合が悪くなったので「アッラー」を表示しなくなったと。

まあそういう訳であります。

そうしてそれが「時代の流れに合わせてバパのコトバを変える」ということなのでありました。


PS
日本で「唯一神への信仰」という教義を広めたいのなら宗教団体を名乗るのがまっとうなあり方でありましょう。

一般社団法人を名乗りながら教義を広める」、、、というのでは「団体としての誠実さ」が疑われても言い訳ができませんね。

ちなみに「唯一神への信仰」で「魂がサルベーション(救済)される」とするのはアブラハムの宗教では「基本中の基本」となる話であります。


PS
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク