ラティハン日記・掲示板

ラティハンに関係したいろいろな事の掲示板です。There are many varieties of bulletin boards related to Latihan.

スシラ ブディ ダルマ・はじめに

バパの数少ない直接の著作物の一つである「スシラ ブディ ダルマ Susila Budhi Dharma」はラティハンの道しるべであります。<--リンク

そうしてその本はまた「層をなして存在している生命世界についてのバパのとらえ方」を表したものでもあります。

ちなみにバパが使った「スシラ ブディ ダルマ」というコトバはサンスクリット語であり、Gonda,Jは次のように訳しております。


The language used is often based on Sanskrit words: Susila = chaste,ethical; Budhi = Buddhi = intelligence; Dharma = norm, customary observance (J.Gonda).<--リンク

訳)使用される言語は、多くの場合、サンスクリット語の単語に基づいています:Susila =貞淑、倫理、; Budhi =菩提=知性、ダルマ=規範、慣習遵守(J.Gonda)注1

Gonda,J.:"Sanskrit in Indonesia" (New Delhi 1973)


さて、バパによれば「生命世界は7つの層からなっている」ということになります。

人間を超えた上の3つは通常の3次元世界を超えており、目には見えません。

人間を含んで下の4つは通常の3次元宇宙に存在し、目に見えます。

この4つとは物質(Rewani)にはじまり、植物(nabati,)、動物(hewani,)を経て人間(jasmani,)のレベルまでのことです。

そうして、この4つの世界について詳細に記述したものが「スシラ ブディ ダルマ」であります。


さて生命世界を多重の層の重なりとしてとらえるのは神秘主義あるいは宗教では一般的です。<--リンク

仏教しかり。

キリスト教イスラム教でもそうであります。


そうして15~16世紀にワリ達がジャワに伝えた神秘的なイスラムの教えでもそうでありました。<--リンク

そこではすでに植物、( nabati,) 動物、 (hewani,) 肉体、人体的、(jasmani,)  霊的、(rohani )というレベル分けが出てきます。<--リンク


それを引き継ぐ形で発展してきたインドネシア独自の「伝統的イスラム」の世界では9つのロホを想定している様です。<--リンク

そこでは上記4つの層に相当するものが、Roh Rohani、Roh Jasmani、Roh Nabati、Roh Rewani (物質精霊、物質力)になっています。<--リンク

数は同じ4つですが動物、(hewani,)がRoh Rewani (物質精霊、物質力)に置き換わっていますね。

それでは動物はどこにいったかといいますと、どうやらJasmani(人間)の管轄下に統合されている様です。


それに対してバパの分類では動物と物質をそれぞれ一つのレベルとして認めています。

それで分類はRoh Rohani(霊的)、Roh Jasmani(人間)、Roh hewani(動物)、Roh Nabati(植物)、Roh Rewani(物質、素材) ということになりますね。


さあこれでようやく準備が終わりました。

次からはもう少し具体的に物質力(Roh Rewani)の章から見ていきましょうか。

注1:susila 道徳的教え Dharma 清浄、正直、愛情があり堅固である心 「ジャワの宗教と社会」福島真人著P331,P334より引用


PS
バパのビデオクリップです。<--リンク
お楽しみください。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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1 名前:ラティハン :2016/07/26(火)

ジャカルタ エンサイクロペディアによれば<--リンク

susila berarti "budi pekerti baik";
道徳「良い道徳」を意味し;
budhi berarti "daya kekuatan pribadi yang ada pada setiap manusia';
Budhiは「個人的な強さがすべての人にあり」という意味。
dharma berarti "penyerahan, ketawakalan dan keiklasan terhadap Tuhan Yang Maha Esa".
だるまは「全能の神の提出、ketawakalanとkeiklasan」を意味します。
・・・となります。

さてジャカルタ エンサイクロペディアでは7層の生命世界についても少々ふれています。

roh rewani, daya hidup kebendaan;
rewani精神、素材の生命力;
roh nabati, daya hidup tumbuh-tumbuhan;
野菜精神、植物の生命力。
roh hewani, daya hidup binatang;
動物精神、動物の生命力;
roh jasmani, daya hidup manusia;
肉体の精神、人間の生命;
roh rohani, daya hidup pendeta;
精神的な魂、聖職者の生命力。
roh rahmani, daya hidup rasul-rasul;
Rahmaniスピリット、使徒たちの生命力。
roh robani, daya hidup Yang Mahakuasa.
Robaniスピリット、全能の生命力。
Ketujuh daya hidup ini ada di dalam diri manusia dan merupakan kesatuan "daya hidup besar".
第七の活力は人とユニオン「偉大な生命力」にあります。
Tiga daya hidup (rewani; nabati, hewani) berada di bawah daya hidup manusia sehingga dapat dikuasai manusia, artinya dapat dicapai hati dan akal pikiran manusia.
人間の心の中、その心と心を意味し、人間の生命力の下で、三つの生存期間(植物、動物、rewani)。
Tetapi tiga daya hidup lainnya (rohani; rahmani, robani) berada di luar jangkauan hati dan akal pikiran.
しかし、人生の他の3つの力(Robani、Rahmani、rohani)心の心と心の届く範囲外にある。

・・・となります。

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Susila Budhi Dharma ・Chapter of beginning

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

One of the few direct Bapak's works, "Susila Budhi Dharma" is a signpost of the Latihan. <--link

Then it is a representation of the "perception of Bapak about the life world that exists a layer forms " .

By the way the words "Susila Budhi Dharma" Bapak has used is a Sanskrit, Gonda, J says as follows.


The language used is often based on Sanskrit words:. Susila = chaste, ethical; Budhi = Buddhi = intelligence; Dharma = norm, customary observance (J.Gonda) <--link

Gonda, J:. "Sanskrit in Indonesia" (New Delhi 1973)


Well, According to Bapak, we say "life world is made up of seven layers," .<--link

The top three that is beyond the human is beyond the 3-dimensional world of the ordinary, it is not visible to the eye.

In the 3-dimensional space of the normal, the bottom four include a human are visible .

Beginning in substance (Rewani) , it is up to the level of human (jasmani,) through the plant (nabati,), animals (hewani,).

Then, what Bapak had written in detail about the world of these four is the "Susila Budhi Dharma".


Well catch as overlap of multiple layers of the life world , it is common in religion or mysticism.

In Buddhism.

It is also said in Islam and Christianity.


Then it was also true teachings of Islam mysterious 9Walis told to Javanese in the 15-16 century. <--link

Plant, (nabati), animal, (hewani), physical, human body basis, (jasmani),and spiritual, (rohani) will come out already there.

It assumes a nine Roh of Indonesia-specific have been developed in the form of take it over in the "traditional Islam". <--link

Which corresponds to a layer of the above four is Roh Rohani, Roh Jasmani, Roh Nabati, Roh Rewani (spiritual substance, material force) there.

The number is the same four but animal, (hewani,) has been replaced to Roh Rewani (spiritual substance, material force).

So when you say where is animals ,it has been integrated under the jurisdiction of Jasmani (human) apparently.


We are recognized as one level of each substance and animals in the classification of Bapak against it.

So classification will be Roh Rohani, Roh Jasmani, Roh Hewani, Roh Nabati, and Roh Rewani.

By the way Roh from Ruh, Nafsu from the Nafs is a diversion originally.

Both Ruh and Nafs is the words that appear in the Qur'an. <--link

And it seems to have changed in Indonesian when the teachings of Islam is introduced into the Jawa.


PS
It is the literature written about mysterious movement (kebatinan) in Java of 1970s.<--link
Same four Nafsu Bapak is common use will also appeared among this.
As we can be seen, Nafsu of four has been commonly used in the mysticism of Jawa.

PS
Protagonist of history that showed the explosive spread of only thus early Latihan was the JG Bennett's.
This is a his recognition of the Susila Budhi Dharma .<--link
(Concerning Subud  JG Bennett)

PS
Subud Britain said like this.<--link

PS
List of articles<--Link

二代目が語らない事。

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

二代目が黙して語らない事が二つあります。

一つ目は会員数の推移です。<--リンク

二つ目はエンタプライズですね。<--リンク

特にエンタプライズはバパの立てたグランドプランの中核をなすものでありました。

しかしながら、この二つに関してはまるでダルマさんの様に二代目は「黙して語りません」。


さて、実はこの二つには共通項があります。

それはいずれの項目も「生の世間と直接的な関係を持たなくてはならない」ということでありますね。

そうして、両方とも「世間に物事(メリット)を提案し、そうしてその見返りを得る」という行為であります。

見返りというのは、一つは時間、もう一つは金銭ではありますが、いずれも提案を受けた側にとってはとても大切なものであります。

しかしながら、このいずれの組織的活動、世間に対する提案行動も協会はあまり得意とは言えない様です。

そうして、それに輪をかけているのが「二代目が語らない」という状況であります。


バパは「世間との関わり合い」を「協会にとってとても大事なもの」と認識しておられた様です。

それゆえに会員数のことも、エンタプライズのことも、そうして協会が行うべき社会的事業のことも熱心に語られました。

しかし今、二代目はそれらの事はほとんど語りません。

語られることは二代目が言う「リアリティー」、そうしてそれは「霊的なリアリティー」であって、残念ながら「現実世界のリアリティー」ではありません。


こうして二代目はある意味、「現実的な問題から目をそむけている」ように見えてしまうのでありました。

二代目は今現在、協会に所属している人たちの霊的な進歩のみを注目しているかの様であります。

言い方を変えますと「とても内向きに」、「協会の内側のみ」が「関心の対象」であるかの様です。


バパが立てたグランドプランでは、二番目の計画(エンタプライズ)が最初の計画(会員数の増加)を推し進めるという構造になっていました。

「宣伝はしない」がその代わりに「エンタプライズをやって目に見える結果を見てもらう」というのがバパのプランでした。

従いまして、二番目がうまくいかないと当初の目的である「会員数の増加」ということが難しくなります。

このことに対して二代目はあまりにも楽観的すぎるように見えるのですね。

そうして、「協会そのものの継続性」については、なぜかほとんど心配されていない様です。<--リンク


さて、「それぞれの国の協会がそれぞれの国の中で継続的な発展をしていく」ということがバパの願いでありましょう。

しかしながら、現実と正面から向き合う事なしにこの課題をクリアする方法はないものと思われます。

そのような観点から見ますと、残念ながら「二代目が黙して語らない事」がそのまま見事に「今の協会のウイークポイント」になっている事に気が付いてしまうのでありました。

PS

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1 名前:ラティハン :2016/07/07(木)

霊的な進歩のみを語る二代目に率いられた協会は、外見上は普通の宗教団体となんの変りも見出せません。

おまけにこの団体は「勧誘のための宣伝をしない」ということにこだわりをお持ちの様です。

そうして、「勧誘をしない」ということは「組織的な新人の育成システムがない」ということでもあります。

ですので新入会員にとっては「あまり親切な組織構成ではない」という事になりますね。

さて、そのような「宣伝をしない団体の未来の姿」が「大いに発展している」とは通常の感覚ではなかなか想像できない事なのであります。

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  名前:メロンパン :2016/10/19(水)

二代目は本来の4つの諸力の事はあまり語りません。

そのかわり4つのナフスを「低次の諸力」として語っています。

多分その方が理解しやすいだろう、、、というおつもりかもしれませんが、それではバパの言われた事とは別物の説明になってしまいます。

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iPad and the"miracle book".

It was 1925 when Bapak has received the Latihan at the first time.

And after seven years Bapak has received a book in 1932.

In the book Bapak can ask a question by voice,and the book answered Bapak in the video and audio, and sometimes text statement.

Well, it is actually 2010 when Apple has released the iPad .

First Bapak had received the iPad at 78 years ago,next Apple has released the iPad.

This shows that Bapak was very good for the "receiving" .

Then at the same time, also the progress of era was caught up with the received advances of Bapak.

Once when Bapak has received the book, such a thing was not anywhere in the world.

So, such a "great thing" is looked very mysterious.

And, such a mysterious event has been recorded as a "miracle".

But, it does not stop human progress.

You can use the iPad when you want to use now.

Then iPad offers to us the same experience as the most that Bapak has experience .

But no longer anyone does not say it is as "mysterious " or as "a miracle".

Mystical experience of Bapak and the emergence of the iPad, which ends up in everyday things ,
Progress of the era thus it is going subsequently without rest.

PS
List of articles<--Link

バパの世界観

バパの説明の背景にはバパの世界観、バパ独自の世界のとらえ方、理解の仕方がある。

そうして、その世界観に基づいた説明をされる。

それゆえ、聴衆がその世界観を受け入れることができれば、バパの説明は一貫性のある、理路整然としたものとして聞き手に理解されることになる。


しかしながら、他方で世界にはありとあらゆる世界観が存在している。

そのうちの或るものはバパの世界観に近いであろうし、あるものは遠く離れている。

そうであるのが実情であり、その為にバパの世界観を受け入れられる人たちにしか現状はラティハンが広まっていない。

そうして、その人たちは本当に世界のほんの一部分にしかすぎないのである。


しかるにラティハンというものは、その人がどのような思想、信条、宗教をもっていようとも、その人が本当に希望するならば、受ける事を意図するならば、受け取ることが可能なものである。

そうして、このことはすでに何度も何度も確認されている事実でもある。

さてそうすると本質的にラティハンの方がバパの世界観よりも広い、、、ということになりそうである。


バパの世界観は世界のごく一部の人たちにのみ受け入れられている、、、というのが現状であり、世界のすべての人々に受け入れられる、ということは今までも起きていないし、今後も起こりそうもないことである。

まあこれは、ある一つの特定の世界観が人類すべてに受け入れられる、、、などということは今までもなかったことからも想像できることではある。

全ての人類に受け入れられるだだ一つの世界観などというものは、しょせん夢物語、あり得ないものであるからである。


さてそれゆえにバパの世界観を大事にしたいという思いと、しかしながらその事が引き起こす結果というものを我々は理解しておく必要がある。

そうでないとバパの世界観に固執するあまり、ラティハンの持つ包容力を結果的に限定するような事、阻害するような事が起こりうるからである。

そうしてそのような状況は本末転倒であり、バパの意向にかなうものでない事は明らかなことなのであります。

 

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1 名前:ウーサー :2016/05/26(木)

ラティハンの目的はバパの世界観を我々会員が自分のものとして内在化する、、、という事ではありませんね。

世界にはバパは一人だけで十分であります。

そうして、我々もそれぞれが一人だけで十分なのであります。

バパはバパのユニークさがあり、そうして同じように我々も一人一人がユニークでなければなりません。

バパの真似なぞ到底できるものでもありませんが、いずれにせよ「人まね」というのは本質的にラティハンとは相いれないものでありましょう。

ラティハンというものは我々が他人ではなく自分自身に戻る道であるからです。

そうして世界観のことをいうならば、我々は一人一人がラティハンと自分の人生から作り上げる、それぞれに独自な世界観を持てばそれで十分なのであります。

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2 名前:メロンパン :2016/06/11(金)

我々ラティハンの道を歩くものは、バパの説明を聞く必要はあります。

但し、聞いたうえで何を信頼して自分の道としてラティハンを実習していくのかは、個々人が決めなくてはいけません。

人から聞かれたときに「私はバパを信頼してラティハンを受けます。」というのは一つの答えではあります。

「バパ」という替わりに「唯一神」と答える方がいるかもしれません。

しかしながら、「だからあなたもそうしなさい。」というのは言い過ぎでありましょう。

あなたはあなたが信頼できるものを信頼すればいいのであります。

人は自分が信頼できるものを選んで、そうしてラティハンの道を歩く事が出来るのです。

そういう意味において、ラティハンの道というのは従来の道と比較するならば、とても自由度が高い道なのであります。

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 3 名前:メロンパン :2016/06/19(日)

 地球上に多くの宗教が存在するようになりました。

そうしてそれらの多様な宗教を信仰している多様な人類が現に存在しています。

従って、ただ一つの概念、世界観、アイデア、超越しているものの設定でそれらすべての人々が同時に満足するという事はもはやありえません。

これが現状であり、言い方を変えるならば、「これがコトバによる説明の限界」になっています。

 

他方でラティハンを継続していけるならば、それぞれの人がその多様な世界観に合った形での、それぞれの回答を受け取ることができる様です。

それがどのような形でそれぞれの人に与えられるかは、一概にはいえませんが、そのような体験を得ることができます。

つまりは、それぞれの人にマッチした、オーダーメイドの納得が得られるのであります。

このようにしてラティハンは「コトバによる説明の限界」を超えていきます。

 

ラティハンの性質がそのようでありますので、「ただ一つの世界観で全ての人が納得できるようにラティハンを説明できる」とか、あるいは「このラティハンの説明の仕方のみが唯一正しい」、というような考え方には賛同することはできません。

たとえそれがバパのトークから導き出されたように見える説明であっても、その説明は尊重され傾聴に値するものではありましょうが、それがラティハンを説明できる唯一のものではないのであります。

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バパのカリスマ性

まずはWikiより「カリスマ」についての引用<--リンク

1、語源

カリスマ は古代ギリシア語において (恵み)、もしくは(好意)、(喜び)から派生した語とされる。

2、社会学用語としてのカリスマ

カリスマはヴェーバーが科学概念として持ち出し普遍化した語であり、情動的帰依によって成り立つ支配の根拠である。

3、カリスマ的支配

ヴェーバーは何ゆえに支配は正当化されうるのかという観点から、カリスマ的支配を合法的および伝統的支配とともに支配の三類型として構想した。

カリスマ的支配とは「特定の人物の非日常的な能力に対する信仰」によって成立している支配で、その正当性は、カリスマ的な人物の「呪術力に対する信仰、あるいは啓示力や英雄性に対する崇拝」に基づく。

そして「これらの信仰の源は、奇跡あるいは勝利および他の成功によって、すなわち、信従者へ福祉をもたらすことによって、そのカリスマ的な能力を実証することにある」。

4、日常化

カリスマ的支配は、カリスマの不安定な性質(非日常性)のために、ただ一時的にのみ存在する。

ここからカリスマの日常化が始まる。

「カリスマ型支配は持続することはできず、伝統化されたものへまたは合理化されたものへ、あるいは両方の結合したものへ変化する」。

カリスマが世襲によって伝統化される場合は「血統カリスマ」となる。

カリスマが成文化された手段によって合理化される場合は「制度カリスマ」と呼ばれる。

あるいは、カリスマが、伝統化および合理化の結合によって非人格化される場合は「官職カリスマ」となる。

この「血統カリスマ」、「制度カリスマ」および「官職カリスマ」はカリスマ本来の非日常性的性質が失われ日常化したものである。

5、問題点

カリスマ的先導者の失敗はカリスマ信仰への裏切りとなり、往々にして追従集団の急速な解体が生じる[14]。

にも関わらず現代に至るまで人がカリスマを強く求めるのは、超常現象(不思議現象)に強く惹かれることに由来するからであるとされる。

人は繰り返す日常に退屈しやすく、絶えず非日常へと誘われる性質を持っている。

そしてカリスマは非日常への誘いとなる。
・・・・・
そしてカリスマに引き寄せられた者は、自己と向き合うことを避け、検証能力を持たなくなる(カリスマに自己を委ねる)。

カリスマが批判された場合は、それをカリスマの聖性の証明と受け取る。

この時点で日常的判断は手放され、カリスマ的人物の意向のまま徹底して信者は追従していくこととなる。
・・・・・
退屈な“終わりなき日常”を変革し得るのは、自己の意識のみである。

過敏な感性は先天的だが、豊かな感性は学習によってしか生み出されず、また豊穣な個人的体験は、その個人の社会への参加水準に比例しているという。


さて、協会の霊的権威はバパから2代目に引き継がれたかのようであります。

これは上記文脈に沿って言うならば、「カリスマが世襲によって伝統化される場合は「血統カリスマ」となる。」に相当するものと思われます。

そうして、2代目の後を引き継ぐものは現われていないようでありますので、協会は今後は「カリスマが成文化された手段によって合理化される場合は「制度カリスマ」と呼ばれる。」に順次移行してゆくものと思われます。

そうして「制度カリスマはカリスマ本来の非日常性的性質が失われ日常化したものである。」という状況に落ち込むのか、それとも生きてそこにあるラティハンによって、協会が持つべき生命力が維持されるのかは、我々に残されたバパからの宿題となる訳であります。

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1 名前:ラティハン :2016/04/16(土)

上記より、「カリスマ的先導者の失敗はカリスマ信仰への裏切りとなり、往々にして追従集団の急速な解体が生じる。」。

日本の場合は1970年代に活動的会員、いわゆるアクティブ会員数が250名ほどでしたが、その後世界各地での協会の運営の失敗などがあり、バパのカリスマ性に傷がつきました。

そうして、そのような事を契機として、結果的に70名ほどの会員が協会を離れた模様です。

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群盲象をなでる(群盲撫象)

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

盲人が象を語る、群盲象をなでる(群盲撫象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。

世界に広く広まっている。

真実の多様性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。

群盲象を評す - Wikipedia<--リンク

ジャイナ教
ジャイナ教の伝承では、6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。
足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。
尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。
鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。
耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。
腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。
牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。
それを聞いた王は答えた。
「あなた方は皆、正しい。
あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。
ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」と。

 

イスラム

13世紀、ペルシア人の詩人でスーフィズム教師のジャラール・ウッディーン・ルーミーは、その著書『精神的マスナヴィー(英語版)』の中でこの話を詩にしている。

この詩は、あるヒンドゥー教徒が暗闇にゾウを連れてきたことで始まっている。
数人の男が暗闇の中でゾウに触れて感想を述べ、鼻を水道管、耳を扇、足を柱、背を玉座のようだと感想を述べた。
ルーミーはこの詩を「視野の狭い者は、手の感触で物を知ろうとしているに等しい。
手の感触では物事の全体は分からない。
各々がロウソクを持っていれば、認識の違いは無くなるのに」と結んでいる。

 

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1 名前:ラティハン :2016/03/09(水)

この話の難しいところは、我々は皆「自分は目が見えている」と決めつけているところにある。

特にラティハンはその広がりが広大であり、そうしてラティハンを引き起こしているものについての知覚、認識ときたらまさに「群盲象をなでる(群盲撫象)」状態であるほかはない。

しかるに、我々は自分自身の限られた知覚や体験から「ラティハンとはこういうもの」、「ラティハンを引き起こしているものはこういうもの」と言い争っているにすぎないのである。

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2 名前:ラティハン :2016/03/21(月)

さて、バパは我々とは違って、よほどその全体像が分かっていたのでしょう。

しかしそれを我々に伝える方法はコトバによる以外にはなかった。

さてそうなると、全体像が分からない我々にとっては「バパのコトバによる説明」がとても大事なものに見えてしまう。

そうして、自分自身のラティハンに頼るのではなく、「バパのコトバ」に頼っていく。

しかしながら、象は生きてそこにあり、我々はさわることが可能です。

そうして「バパのことば」は紙の上に印刷された記号であり、そこには生命はありません。

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