バパのカルマ論/上
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「最初の人間はアダムである」という、これはアブラハムの宗教の体系の基礎であります。
そしてムスリムであるバパも当然ながらこの立場をとります。
そうしてイスラムは「人の原罪」を認めませんから、バパにとっては「完全な人」の象徴としては「アダム」ということになります。(7,10,1980)
さてそうではありますが、現在の我々の社会、人間のありようをみますればとても「我々は完全な人である」とはいえないありさまです。
そうなりますと、どこかで人は「堕落した」あるいは「劣化した」とするしかありません。
その原因は何か?
「それは人の間違った行動の結果である。」というのがバパの答えです。
そうしてそれをバパは「カルマ( karma)である」と呼ぶ場合もあります。(7,10,1980)
アダムが「完全な人」ならば、その行動も完全であって、カルマを積むことはなく、したがってアダムの子供たちも「完全な人」ではなかったのか?
そのような疑問は当然のことながら問われる事になります。
答えは「完全な人であっても、人間である事の制約はまぬがれない。」というものでありましょう。
つまり「カルマは積まれる。」という事になります。
そういう訳で、子孫が増えるに従って、代を重ねるにしたがって「間違いの総量は多くなり、それが子孫に順次伝えられていく」というのが「バパのカルマ論」となります。
この「間違いの総量」、あるいはカルマがまずはラティハンの浄化対象となります。
そうして、この「代々にわたって伝えられてきたものの大小が、多い少ないがラティハンの進歩の状況をも左右しているのだ」とも言われています。(たとえばスシラ ブディ ダルマ など)
これがきれいにならないと、言葉を変えますれば「アダムの状態」にもどらなといけません。
そのためにこの時代にラティハンが現れたのであります。(3,13,1965)、(6,18,1981)、(7,17,1981)
さて、「人が積むことになる間違い」というのは何であるのか、トークから引用しましょう。
「間違っている」とは、他の人々を傷つけたり、他の人々の自由を奪ったり、心の安らぎを奪ったり、などをすることを意味します。
あるいは、他の人に属するものを(自分のものとして)取りあげることです。(6,18,1981)
そのように行動しないことは、現代社会においては非常に難しいことになっています。
時代が進歩するにつけ、社会が複雑になるに従い、我々が自分の利益を優先する程度につれてこのように行動しないことはより一層難しくなるばかりであります。
さて、そうでありますれば、時代の進歩というのは「良くない事」なのでありましょうか?
時代は進歩せず、アダムが誕生して、そのまま「知恵の実」を食べずに、ただただ「イノセントでいた」方がよかったのでありましょうか?
それでは「今の様に宇宙が進展してきたという事実に意味はない」ということと同じでありましょう。
「ビッグバンは不要であった」と主張するようなものであります。
地球が誕生し、人が生まれ、そうして社会が発展することに、したことに意味がある、、、とするならば、ラティハンはただ単に「アダムの時代に帰れ」というものではありますまい。
そうではなくて、我々の社会がこのように発展した、その中にあってなおかつ「アダムのような内的状態である事」に意味があるのでありましょう。
それが「この時代に現れたラティハンの持つ意味」であると思われます。
追記:「人間の初源の状態は高貴でありそこに戻らなくてはならない」という考え方はジャワの伝統の中にも見いだせるものです。
これについては・Gumelaring Jagadの第1節を参照願います。<--リンク
PS
バパはイスラムでありながら転生を認めたり、カルマを認めたりしています。<--リンク
そして転生やカルマというのは極めて仏教的、ヒンドゥー教的な世界観であります。
これはやはり仏教やヒンドゥー教がまずはジャワを席巻し、そのあとでイスラムが広まって現在に至っているという歴史的な経緯によるものでありましょう。<--リンク
そうして「バパのイスラム」はそれほどに包容力が大きいという事ができそうです。<--リンク
ところで、バパが主張するような「親から子供に引き継がれるカルマ」という考え方はもともとの仏教やヒンドゥー教にあるカルマの考え方の中には無いようであります。
これは日本では俗説として「親の因果が子に報い」とも言われているものでありますが、それは誤解の様であります。<--リンク
本来のカルマというものは徹底して個人的なものであって、「親のカルマと子供のカルマは独立した存在である」というものの様です。<--リンク
しかしながら、このカルマについてのバパの認識というものは一概に「間違っている」とは言えないと思われます。
その状況というのは、いわゆる遺伝学でいわれている「表現型=遺伝因子(DNA)+環境因子」というものと相似的です。
つまり現実に我々が抱え込んでいる「間違いの総量」というものは、カルマと言われるような「個人的な因果律によるもの」と、暮らしている国や社会、そうして両親が作る家庭環境などの「環境要因」の和になっていると思われるのです。
式で表せば「間違いの総量≒個人的な因果律によるもの+暮らしている環境要因」とまあ、こんな感じでしょうか。
そういう訳で、両親の影響というものは無視できるようなものでは無いことは明らかなのであります。
さてそうではありますがバパが主張している様な「生まれてくる子供は両親からの過ち(カルマ)を引き継いでいる」という考え方は一般的なイスラムの中にもない、という事には注意しておく必要があります。
イスラムでは「生まれてくる子供には何の罪、汚れもない」としているのであります。<--リンク
PS
通常は輪廻転生と対になって使われるカルマというコトバですが、バパがつかう「カルマ」ということばの中にはカルマによって必然的に引き起こされるような仏教、あるいはヒンドゥー教が想定しているような輪廻(サンサーラ)というものは含まれていない様です。(2,3,1974)<--リンク
しかしながらそのことばには「因果応報」という意味合いは含まれているのです。(3,17,1983)、(7,25,1977)
追記(9.21.2017)
上記(2,3,1974)トークの解釈にミスがありました。
基本的にバパは「全ての人は輪廻している」、つまりサンサーラは存在している、という認識の模様です。
但しその原因をバパはカルマとは呼ばずに「その人の間違い」と呼んでいます。
PS
ジャイナ教でのカルマの扱いは「非常に微細な物質であって霊魂に浸透して霊魂の本来の透明で純粋な性質を曇らせるとも考えられている。
カルマは一種の汚染であって、霊魂を様々な色(レーシュヤー leśyā)で汚染するとされる。」<--リンク
つまりはカルマとは「汚染」あるいは「汚れ」であるとしています。
他方でバパがいう所の「内部感覚(inner feeling)に積もり積もった間違いの総量」というのはそのような物質的なイメージではありません。<--リンク
それは当初はちゃんと整理整頓されていた広い場所が乱雑にものがちらかった状態になった、というイメージであります。
すこし固く言うと「エントロピーが増えた状態」ともいえます。
それは何か「汚れ」というものが外から持ち込まれた、、、というのではなく、前はきれいなパターンをしていたものが、ぐちゃぐちゃのパターンに変化してしまった、というようなものであります。
さて、この状態から元の「きれいに整頓された」、あるいは「きれいなパターン」に戻さないといけないのですが、これを人がやるのは無理であろう、、、とバパは言います。
なにせどこからどう手を入れて直していけばいいのか、目の前のものをどこに戻せばいいのか、皆目見当がつかない状態でありますれば。
とうてい人の手におえる代物ではありません。
いや、たとえば「これをこう直すのがよかろう」と人が直したつもりになっても、それは「修正」にはなっておらずかえって「改悪した」という結果になる事が予想できます。
まあそういうわけで、ここはラティハンにまかせるより他に手はないのであります。
そうしてラティハンの出番になるのですが、「ここをこう直しましたよ」と逐次の報告が上がってきます。
そのとき我々は「おおそうか、それでOKだ。」というのであれば、物事は速やかに進行していきます。
しかしながら「いいや、それではだめだ。気に入らない。」とナフス君がでしゃばるとそこでストップがかかりますね。
「これまでやってきたように行動するのが私のポリシーだ」という訳であります。
そして通常の日常行動は基本的に「ナフス君の管理下にある」のでありますから、ラティハンはそこまではでしゃばりません。
こうやってラティハンがせっかく修正したものを我々はまた元に戻すのでありました。
そうしてこの事を我々は「人間には自由意思がある」と表現するのであります。
その結果と言いますれば、結局のところラティハンを受けていようがいまいが、人は自分の認めたところ、意図したところまでにしか到達しない、到達できない、ということになるのであります。<--リンク
そしてカルマですか。
当然ながらそうして残念ながらそのような状況の下では、なかなか減少する、解消するという訳にはいかない様であります。
追伸
多くの人と人が「袖をすり合わせる」様にして暮らしているのが現代社会です。
そうして、そのような状況下では単なる思い違いによってでさえ簡単に社会全体がかかえる悪意、カルマの総量は増えてしまいます。
たとえばそのような例で、かつ身近に起こっているものを一つ紹介します。<--リンク
PS
以下(3,13,1965)トークから、カルマとその解消についての引用になります。
・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。
そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。
それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。
それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・
さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。
PS
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