スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力と人新世(アントロポセン)
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「人新世(じんしんせい)?何それ?」
まあそうなりますね。
「地球誕生からの時代を、発掘された化石や地層等から、相対的に区分する手法を用いて分類した時代区分を地質時代と呼ぶ。」のだそうです。
詳細は「地質時代」を参照願います。<--リンク
簡単にいえば地層を表層から剥いでいくと様々な遺物やら化石やら地層が表れてきます。
それらを整理して分類する「地球の誕生から現在に至る歴史を調べる学問としての地質学」があり、その結果が「地質時代」としてまとめられているのです。
それによりますれば、現在は11700年前に始まった「新生代、第四期、完新世」という事になっています。
さてそのような地質学者の間で今盛んに議論されているのが「現在はもはや完新世ではなく人新世(アントロポセン:Anthropocene「人類の時代」という意味)ではないのか?」というものです。
つまり、時代はここに至りて産業革命以降の人間の諸活動の結果として地球の大気と海の組成を変化させ、地形と生物圏を変えてしまった。
そうしてこの変化は全地球的な規模のものであり、地球全体の地層にその痕跡が刻まれたのではないのか?
そのような大変動を引き起こしているのではないのか?
そういう議論がされています。
そうして「日経サイエンス 2016年12月号 地層に刻まれる人類の時代」によれば「完新世から人新世への移り変わるタイミングとして1950年あたりが考えられる」としています。<--リンク
1950年といえばもちろんバパがラティハンを世界に広める努力を始めたタイミングでもあります。
さてこれは偶然の一致でありましょうか?
ラティハンは時代の要請に対応して現れたものであると言われています。
その時代というのは、科学技術、医療技術、情報技術、そうして貨幣経済に代表されるような、「物質力大優勢の時代」であります。
そしてその物質力の大きさ、規模、強さと言うものは全地球上の地層にその痕跡を残すまでに至っています。
そういうことは今までの地球史の中では存在したことがありませんでした。
それは地球が経験する、そうして当然の事ながら人類が経験する初めての出来事なのであります。
さてそのようにすさまじいまでの力を持った物質力のカウンターパート、カウンターバランスとしてラティハンが登場した様に思われます。
そうでありますれば、バパが言うように「ラティハンは単なる一個人の救済、あるいはある一グループの救済、そのようなレベルで終わるものではないし、終わらせてはいけないものである」という事は明白な事なのであります。
PS
ご参考までに。
「地球の歴史」(上・中・下)中公新書 鎌田浩毅 著 という地球の歴史について書かれた良い本が出た様です。
PS
1958年5月に出版された「Concerning Subud 」のなかですでにJ. G. Bennettさんは以下の記述をされています。<--リンク
これはラティハンの出現というものをそれなりの人類史のなかで位置付けようと試みた仕事の一つとして評価できるものと思われます。
・・・・・
5.人類の時代 (18Page)
近年、人間の生活の中の物質的な力は徐々に精神的な力を支配してきました。
こうして私たちは私たちの前に、私たちの時代の歴史の中で、人間の可能性の二重の性質の実証を持っています。
・・・・・
PS
ラティハン・クジワアン、省略してラティハン。
「霊的修練」とか「魂の修練」とかまあそういう意味合いのコトバです。
そうするとそのコトバを聞いた人は「そうか、霊的なものであって、この世の事とはあまり関係がないのだな」と思ってしまいます。
しかしながら本当はラティハンは「生命のラティハン」であって、そうでありますれば当然のことながら「この世の事を含む」のであります。
なぜならば人間の生命というものはこの世とこの世を超えた両方の世界に渡って存在している、というのがバパの主張でありますれば。
それは当然なのでありました。
そうして我々にとって「この世」とは今現在のこの地球での生活、物質力が大優勢である今のこの生活のことになります。
その状況においてさえ当然のことながらラティハンは働くもの、効果を現すものであります。
しかしながらそのことを理解せず、ただ単に他の霊的な修練と同様のものと考え、その様に扱うならばそれはラティハンの半分しか認識せず、半分しか生かしていない事になります。
まあそういう次第でバパは当然の様に「エンタプライズをしなさい。(そして成功させなさい。)そうすればこの世でのラティハンの使い方が分かるでしょう。」と言われたのでありました。
PS
ラティハンゆえにタナボタで成功が舞い込んでくるのではありませんね。
そこのところを我々は勘違いしやすいのです。
しかしながら実際はそうではなくて、我々は他の人達が行っているような通常の努力は同じようにしっかりと行う必要があります。
そうして、どうやらその努力の途上でラティハンの助力に気がつく様になるのです。<--リンク
そうやって結果的に物事が良い様に仕上がっていくのです。
つまりラティハンゆえのタナボタではなく、ラティハンとは一緒になって仕事を進める事が大切なのであります。
そして実際にご自分の仕事の上でそのようにラティハンを活用されて実績をだしておられる、あるいは出しておられた方々を存じ上げております。
そうであれば「このラティハンと言うものは我々の人生に有益なものである」といってもあながち間違いではないかなと思われます。
PS
ラティハンの道を歩くには本当に辛抱強さが必要です。
まずはオープンから。
そこですぐに動きが出る、反応が出る人もいればなかなか出ない人もいます。
まずはここが辛抱のしどころです。
そうして、動きが出るようになっても、今度はその動きの意味が我々にはさっぱりわからないときています。
「何でこんな動きをするのだ?」と疑問に思うのですが、答えはだあれも出してくれません。
バパがご存命のころは「それはこう言う事だ」と言ってもらえたのですが、それももはや過去のことであります。
それでもそのような動きは決して不快なものではなく、ラティハンを終わればさっぱりとリフレッシュされた気分になれるのです。
まあそうではありますが、ラティハンと言うのはそのように動きが出ても我々にはその内容が「理解不可能なもの」なのであります。
そうなるとこれは知性や思考心にとってはまことにやっかいなものになります。
自分のラティハンでありながら、さっぱり訳がわかりません。
人間と言うものは意味の分からない事を長い間続けられる様には出来ておりません。
そうしてその様な状況は、知性や思考心にとっては一種の拷問のようなものになってしまうのです。
それゆえにバパは可能な限り我々の所を訪れてはラティハンの状況を確認し、我々を励ましたのであります。
さてそこを突破すれば、そうして自分の内部でなにやら受けることができるようになると(注1)、知性やら思考心やらも少しは納得し始めます。
「ああこれは我々の手にはおえないものだ。」と。
「しかしながら、有益なものでもある。」としぶしぶながらでも納得するのです。
それでもまあそうなるには「多少の時間」が必要であります。
さてそれでは「多少の時間」というのは一体どれくらいの長さなのか?
これは人によって随分とばらつきがある様です。
そうでありますれば、「ラティハンの道を一生の道」と覚悟を決めるかどうかについてはどうしても「人生の選択の問題」になってしまう様です。
(注1)(6,9,1963)トークより引用
「全ての人間は、各自の内部に於いて導きを与えられているのです。
しかし人間は、自分のハートや思考を本当に静めることがなければ、決してこの導きを知ったり、感じたりすることはできまん。」
PS
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