スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-2
バパが1952年に受けた「詩篇」がスシラ ブディ ダルマである。<--リンク
それは、今のインドネシア語よりも古く、そして複雑で微妙な事を表現できるコトバで受けられた。
そうして、「詩」であるからには当然のように「韻を踏んで」受けられたものであります。
(ちなみに、神秘的な内容あるいは霊的な真実を語るのに詩の形式を用いるのはインドネシアの伝統の様です。
そして、神秘主義とジャワの伝統的な文学との関係は近く、たとえばワヤン(Wayang)の演目(ラコンlakon)、あるいはsuluk文献(ジャワ神秘的な文学)、Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)などを上げる事ができます。
その意味ではスシラ ブディ ダルマはジャワの伝統にしたがった、すぐれた文芸作品でもあるのでした。)
そして後日、バパによって現代のインドネシア語に訳されたが、もともとが詩でありますれば、普通の文章とは異なった書き方になっています。
つまりは、あまりロジカルな文章の構成にはなっておらず、自由に関連した話題にいったりきたりと、そういう表現方法になっています。
あるいは、最初がこうで、次がこうなって、その次が、、、というように整然と並べられている論文のようではありません。
もちろん追いかける事ができるロジックはそこにはありますが、それと同時に我々からすればあいまいに見える表現も混在しています。
さて、スシラ ブディ ダルマ、4つの諸力について書かれたものであると同時にラティハンの道しるべにもなっています。
それからもうひとつ、人間の日常生活といわゆるクジワアンと呼ばれる魂とか霊性とか言われているものとの関連も書かれています。
この三つのテーマがお互いに関連しながら記述が進んでいくものでありますれば、注意していないと混乱してしまうのであります。
そうでありますれば、ここでの記述の仕方はなるべく話の筋道が整理されたように表現してみるものです。
とはいいながら、スシラ ブディ ダルマに書かれている事柄全てに言及するものではありません。
そして、そのような内容詳細については原典を読んでいただくのが妥当であると思われます。
もうひとつの注意事項としては、バパの次の言葉に要約されるかと思われます。
「スシラ ブディ ダルマは頭で理解すべき本ではない。
決してそうではない。
ただ読みなさい。
そうすれば後に、書かれている事柄の意味を悟る事が出来るであろう。」(1971:WCG)
この表現では前提となっている「ラティハンの継続的な実習」が抜けています。
しかしながら、それは協会ではデフォルト(表現されない前提)ですので、しかたありません。
そういう訳で、単に頭でスシラ ブディ ダルマの内容を追いかけてみても何も起こりません。
逆に、ラティハンの体験、そうして日常生活への反映・体験などが先にあり、「ああ、そうか、そういうことか」と書かれている内容については後から理解できるものなのです。
あるいは、今の自分の状況とスシラ ブディ ダルマの記述から判断して、次はこのような事に注意が必要である、、、とラティハンと日常生活のガイドブックとして使えるものなのです。
さて、スシラ ブディ ダルマには前述したような人間存在が登場するまでに果たした諸力の働きについての記述はなく、諸力と人間が相互作用していろいろな事が起こっている、、、と言うところから始まります。
それは、ラティハンの道しるべとしてのスシラ ブディ ダルマの性格によるものであり、ラティハンと人とのかかわり合いを記述していくものであるからです。
そうしてこれから以下の記述は1987年発行の「スシラ ブディ ダルマ」に準拠していきます。
6~18ページ・・・ラティハンを受けるにあたっての諸般の注意事項
18~72ページ・・・物質力の説明、対象となる物質存在や物事とそれらが人に与える影響について(注1)
・・・並行してラティハンがどのように進行、発展していくかについての記述
以下、順不同にて物質力の章で記述されている項目を並べておきます。
武器
服飾品
農具
運命
仕事
貧富の差
財産(お金)
商人(物の売り買い)
死後の生
オフィスワーク
教育とラティハン
人生の理解
物の世界に落ち込むこと
(注1)物質力の説明(1~3)、対象となる物質的な存在や物事とそれらが人に与える影響について<--リンク
さて、話を進めるにあたってまずはバパが良く使う心理学的な用語のおさらいをします。
まずはラサディリ(rasa diri)。
内部感覚(inner feeling)と訳されております。
もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」です。
そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。
こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。
しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。
「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。
これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。
実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。
そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。
ちなみに人間の欲望はジャワ神秘主義の伝統に従って4つのナフス(nafsu)に分類されて固有の名称を与えられています。
そうしてそれぞれがその力を得る源泉としての固有の生命力が想定されていますが、上位の生命力は下位の生命力と関係しているナフスをも制御できるとされています。
つまりジャスマニと呼ばれる人間の生命力が本当にrasa diriをみたしているならば、その人の思考、感情、欲望は人間的である、、、と言える訳であります。
そうしてそのような人はけっして「われを忘れて、衝動的に物事をやったり言ったりはしない」でありましょう。
その人はどのような状況下であっても人間的にふるまえるのです。
まあこれがジャスマニレベルにあるのかどうかという一つの判断基準です。
さて、そういう訳でrasa diriというのは心理学的なそうして霊的な意味での人間というものの内的な本質、そうして諸力の活動の舞台になるものであります。
そうして、まさにこのrasa diriがいろいろな間違いや不純物で充満しているのがその人の欠点になるとバパは言います。
それゆえに上位の生命力がrasa diriに入る事ができず、つまりは本来の主人の代わりに低次の諸力が入れ替わり立ち替わりその場所を占領している、、、と警告しているのです。
それでラティハンがまずは浄化からはじまりますが、その浄化の対象がこのrasa diriなのでありました。
ちなみにrasaについては、たとえばThe Logic of Rasa in Javaのような解説もありますので、こちらもご参照ください。<--リンク
そして以下はBudi(ブディ)というコトバについてのWikiの説明からの引用になります。
「インドネシアの哲学的伝統の最も幸運な特徴は、philosophiaのその一体的な理解(知恵の愛)です。
西洋哲学の伝統で発生した「推論 reasoning」と「感覚 feeling」の二分法は、インドネシアで発生しませんでした。
かわりに それは「推論」と「感覚」を統合し、ブディ(Budi)と呼ばれます。
・・・・・
このように、インドネシアに、科学、精神性、宗教、哲学と技術がブディの顕現と実現である一般的な単語kebudayaan、(文化)で指定されています。
・・・・・
我々インドネシア人は、明確な分離や分類をしない。
哲学と宗教、宗教と霊性、(宗教と精神性)、精神性と科学、そうして科学と芸術。
要するに、インドネシアの文化は、どのような厳格な唯物論または頑固な観念論を知りませんでした。
私たちの科学と哲学は、私たちの宗教、精神性と芸術のように美的、芸術的です。
・・・・・
私たちのボロブドゥール寺院、suluk文献(ジャワ神秘的な文学)、伝統舞踊や彫刻、楽器、伝統的な家屋や武器は、私たちの哲学、科学と精神のように美しく上品です。
私たちのブディ(Budi)は「合理的に扱う事 rationalizing 」と「感じる事 feeling」を一緒に結び付けるゆえに。
Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)は、詩的審美と哲学的論理を組み合わせる、そうして、kakawinsは、(ヒンドゥー教、仏教に触発されたジャワ詩的文学)であります。
・・・・・
結論として、インドネシア人によって保持されているブディの認識論は、心と感覚をバランスさせ、物質と観念を正当に扱います。
したがって、インドネシアの哲学的伝統においては、合理主義と経験主義の間または観念論と唯物論の間には対立はありません。」
・・・以上、The_Inner_Faculty_of_Budi・Wikiからの引用でした。<--リンク
Budiというコトバと同様に、インドネシアでは生理学的な現象も心理学的な要因でおきる現象も霊的な事でおきる事象もあまりはっきりとした区別をしない様です。
そうして使われるコトバもそのようであり、我々の分類から見ると随分とあいまいに見える事があります。
そのような事も「それぞれの国が築き上げてきた文化の違いによるものである」と認識しておく事は理解する上で必要であると思われます。
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