バパの世界観
バパの説明の背景にはバパの世界観、バパ独自の世界のとらえ方、理解の仕方がある。
そうして、その世界観に基づいた説明をされる。
それゆえ、聴衆がその世界観を受け入れることができれば、バパの説明は一貫性のある、理路整然としたものとして聞き手に理解されることになる。
しかしながら、他方で世界にはありとあらゆる世界観が存在している。
そのうちの或るものはバパの世界観に近いであろうし、あるものは遠く離れている。
そうであるのが実情であり、その為にバパの世界観を受け入れられる人たちにしか現状はラティハンが広まっていない。
そうして、その人たちは本当に世界のほんの一部分にしかすぎないのである。
しかるにラティハンというものは、その人がどのような思想、信条、宗教をもっていようとも、その人が本当に希望するならば、受ける事を意図するならば、受け取ることが可能なものである。
そうして、このことはすでに何度も何度も確認されている事実でもある。
さてそうすると本質的にラティハンの方がバパの世界観よりも広い、、、ということになりそうである。
バパの世界観は世界のごく一部の人たちにのみ受け入れられている、、、というのが現状であり、世界のすべての人々に受け入れられる、ということは今までも起きていないし、今後も起こりそうもないことである。
まあこれは、ある一つの特定の世界観が人類すべてに受け入れられる、、、などということは今までもなかったことからも想像できることではある。
全ての人類に受け入れられるだだ一つの世界観などというものは、しょせん夢物語、あり得ないものであるからである。
さてそれゆえにバパの世界観を大事にしたいという思いと、しかしながらその事が引き起こす結果というものを我々は理解しておく必要がある。
そうでないとバパの世界観に固執するあまり、ラティハンの持つ包容力を結果的に限定するような事、阻害するような事が起こりうるからである。
そうしてそのような状況は本末転倒であり、バパの意向にかなうものでない事は明らかなことなのであります。
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1 名前:ウーサー :2016/05/26(木)
ラティハンの目的はバパの世界観を我々会員が自分のものとして内在化する、、、という事ではありませんね。
世界にはバパは一人だけで十分であります。
そうして、我々もそれぞれが一人だけで十分なのであります。
バパはバパのユニークさがあり、そうして同じように我々も一人一人がユニークでなければなりません。
バパの真似なぞ到底できるものでもありませんが、いずれにせよ「人まね」というのは本質的にラティハンとは相いれないものでありましょう。
ラティハンというものは我々が他人ではなく自分自身に戻る道であるからです。
そうして世界観のことをいうならば、我々は一人一人がラティハンと自分の人生から作り上げる、それぞれに独自な世界観を持てばそれで十分なのであります。
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2 名前:メロンパン :2016/06/11(金)
我々ラティハンの道を歩くものは、バパの説明を聞く必要はあります。
但し、聞いたうえで何を信頼して自分の道としてラティハンを実習していくのかは、個々人が決めなくてはいけません。
人から聞かれたときに「私はバパを信頼してラティハンを受けます。」というのは一つの答えではあります。
「バパ」という替わりに「唯一神」と答える方がいるかもしれません。
しかしながら、「だからあなたもそうしなさい。」というのは言い過ぎでありましょう。
あなたはあなたが信頼できるものを信頼すればいいのであります。
人は自分が信頼できるものを選んで、そうしてラティハンの道を歩く事が出来るのです。
そういう意味において、ラティハンの道というのは従来の道と比較するならば、とても自由度が高い道なのであります。
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3 名前:メロンパン :2016/06/19(日)
地球上に多くの宗教が存在するようになりました。
そうしてそれらの多様な宗教を信仰している多様な人類が現に存在しています。
従って、ただ一つの概念、世界観、アイデア、超越しているものの設定でそれらすべての人々が同時に満足するという事はもはやありえません。
これが現状であり、言い方を変えるならば、「これがコトバによる説明の限界」になっています。
他方でラティハンを継続していけるならば、それぞれの人がその多様な世界観に合った形での、それぞれの回答を受け取ることができる様です。
それがどのような形でそれぞれの人に与えられるかは、一概にはいえませんが、そのような体験を得ることができます。
つまりは、それぞれの人にマッチした、オーダーメイドの納得が得られるのであります。
このようにしてラティハンは「コトバによる説明の限界」を超えていきます。
ラティハンの性質がそのようでありますので、「ただ一つの世界観で全ての人が納得できるようにラティハンを説明できる」とか、あるいは「このラティハンの説明の仕方のみが唯一正しい」、というような考え方には賛同することはできません。
たとえそれがバパのトークから導き出されたように見える説明であっても、その説明は尊重され傾聴に値するものではありましょうが、それがラティハンを説明できる唯一のものではないのであります。
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