ラティハン日記・掲示板

ラティハンに関係したいろいろな事の掲示板です。There are many varieties of bulletin boards related to Latihan.

ラティハン日記 目次

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目次

第0章・スシラ ブディ ダルマ<--リンク

第1章・ウエルカム トゥ ラティハン (ラティハンにようこそ<--リンク

第2章・ラティハンとは何か<--リンク

第3章・バパの語りしトークなど<--リンク

第4章・道を求めて<--リンク

第5章・特集記事一覧<--リンク

第6章・レビューポイント<--リンク

第7章・2代目のことなど<--リンク

第8章・協会の来し方行く末<--リンク

第9章・インドネシアの宗教とクバティナン<--リンク

第10章・バパトークの索引<--リンク

第11章・Latihan Stories and Susila Budhi Dharma<--リンク

終章・参考文献<--リンク

付録・雑記帳<--リンク

日本人の魂(jiwa)の極楽(天国)

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以下 「日本人の魂の極楽」より全文引用<--リンク

そして分かりやすくまとめられている「mansonge のニッポン民俗学」に感謝します。<--リンク

▼序

 「知らぬが仏」とはよく言ったものだ。

安眠をむさぼっていた日本思想は、仏教思想によってたたき起こされて以来、長らく自信を失っていた。

しかしその後、日本思想は当の仏教思想を摂取し続けることによって、ついに日本人の魂の極楽を見つけたのである。

(本小論では触れないが、この続きを言えば、今度はキリスト教=西欧近代思想が日本人の魂の極楽に闖入し、日本思想は現在またも自信喪失の病床にある。)


 この小論は、日本人の魂についての覚え書きである。

▼太古、魂は幸せであった

 太古は人間の魂にとって平安な時代であったようだ。

エリアーデが語る「死と再生」の永遠回帰を倦まず繰り返していたことだろう。

この時代には個人はなかった。

死者はただあの世に逝くだけだ。

横死した場合も、カミがあの世に連れていってくれた。


 あの世に天国も地獄もない。

死ねば行く所であり、生まれるまでいる所があの世である。

つまり身体がない魂の国なのだ。

それに対して、この世では魂は身体の中にある。


 魂に前世の記憶はない。

魂は、年をとるようなものではないのだ。

このころ、魂とは生気エネルギーだ。

生きるとは息をすることであり、空気を呼吸することである。

赤子は息をして生まれる。

すなわち、気こそが生命なのである。

これが弱まることが、気涸れ(けがれ)あるいは気離れであり、後の穢れや汚れではない。


 カミは様々いたが、蛇について触れておく。

蛇は「死と再生」のカミだ。

この世とあの世の往還が死と再生だが、この擬制が祭りである。

死と再生は、一年の中にも一月の中にも一日の中にもあった。

人々はこれら小サイクルの中の祭りで、死と再生を繰り返していた。

気涸れとはそういう「死」であった。

蛇が脱皮して成長していくように、人や世界も、神聖なる時空間を脱皮していくのだ。

再生(新生)するために死なねばならない。


 そういう気涸れには、後のような祓ったり清めたりすることでは意味をなさない。

死に場所を与えること、あるいは死にゆく魂を救うことでなければならない。

死に場所とは、子宮のような冥い穴ぐらである。

後のこもる所である。

では、どうやって死にゆく魂を救うのか。

魂は生気であったから、これを活気づければよい。

すなわち、魂振りである。

鈴を振るように魂を振ること(これが物部の仕事であった)。

引用注(魂振り:Wikiより抜粋<--リンク)神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが「たましずめ」である。「たまふり」は魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。


 モノと言えば、大物主を思い出すが、そう言えばこの神は蛇であった。

魂はカミにもなりモノにもなった。

カミとモノに共通するのは霊威の強さだ。

カミは人々に信認された霊威であり、モノは信認されなかった霊威である。


 魂はしばしば浮遊した。

夢を見ている間、魂は浮遊している。

夢では、あの世との交渉も自由だ。

カミやモノとも出会う。

夢から覚める時、魂が浮遊したままでいると、死んでしまう。

死んだ魂は鳥となってあの世へ飛んでいった。


 個人がない時代、すなわち内面のないこの時代では、吉凶や善悪はカミがなせる業であった。

だから、死もカミの定めたものであった。

カミが定めた罪人は、カミの加護を失った者として、カミの世界(共同体の範囲、村コスモス)から遠ざけられた。

つまり、異界に流されたわけだ。これは穢れとモノの起源である。


 しかしカミの霊威は強く、まだたたりのない時代であった。

人は死ねばあの世に行くことができた。


▼古代国家の生成と仏教の流入(引用注:奈良時代ー>平安時代にかけて)

 仏教は、内面の罪と地獄をもたらした。

この世に個人を目覚めさせ、極楽と地獄という二つのあの世をもたらした。

平安な時代は終わったのだ。


 神帝は人帝となり、国家が立ち上がる。

刑罰は、神の名のもと人が下すものとなった。

紀記神話にはすでに「古代」が忍び込んでいる。


 気涸れは穢れとなった。

集合的な魂は個別化されつつあった。

そこここに漂っていた魂=生エネルギー=生命が、個人的な魂=心になろうとしていた。


 穢れは祓わねばならない。

祓いとは、穢れをぬぐい浄めることだ。

古来、穢れは水に流された。

これを水にすすぐことが、禊ぎである。

ところでこの水はどこに流れてゆくのだろうか。

異界である。

他界であるあの世ではない。

異界とは共同体=国、コスモスの域外のことである。

タマやカミではないモノの棲む世界を言う。

長らく、この世=世界は(実はあの世も)限られた自分たちだけの世界=コスモスであったのだ。


 仏教の如来や菩薩は新しい外来のカミとして、新しい人たちに迎えられた。

どのようなカミであり、また新しい人たちとはどのような人たちか。

新しい人たちとは、日本の神には祓えない罪、神意ではない罪に穢れた、つまり内面に目覚めた個人の罪を自覚する人たちである。

この罪に穢れた魂はあの世には行けない。

死後に地獄が待ち受けているのだ。

この罪を祓うカミが如来や菩薩であった。


 皇族や貴族たちがすでに内面の罪に目覚めていた。

彼らには死後に平安なあの世に行けないかも知れないという不安があったのだ。

日本の神は霊威を失いつつあった。


 しかし、大部分の日本人は個人の罪なぞ知らなかった。

日々を神意を伺うことで過ごし、累積した穢れは定期的に祓い流していた。

祭りが自分たちのコスモスの再生儀式であることにも変わりはなかった。

また、稲作が盛んになり、蛇のカミは雨をもたらす恵みの神となっていた。


▼祓えない穢れ、たたる死者たち(引用注:平安時代

 仏教思想は徐々に全国に浸透していった。

皇族や貴族たちに続き、個人に目覚めたのは全国の豪族たちである。

彼らも外来のカミを熱烈に求めた。

彼らには、日本の神自身が気涸れてきているように思えた。

律令国家以降の社会進展の担い手である彼らには、それほどまでに日本の神の霊威は衰えて見えた。


 そこで神の境内に神宮寺が誕生する。

主として密教系のパワーあるカミが祭られた。

密教のカミは呪術のカミだ。

個人の頼みごとを聴くカミだ。

豪族たちは、現実変革を求めていたのだ。

律令国家の「紀記神話」体制による社会や土地制度は崩れつつあった。

空海が請来した密教はこの流れを国家的にも完成させた。

天皇から庶民まで、日本全国が密教化することになる。


 このような社会変化は、それまで疑いもせず日本の神にすがってきた人々にも、逃れがたい葛藤をもたらすこととなった。

神が力を弱めたため、あの世に行けない魂が出現し始めたのだ。

そうして、モノ化した魂がこの世にさまよい出す。


 また、穢れが、神の霊力では簡単に流せなくなった。

社会の進展は人々の生活コスモスを一気に広げ、神がこれまでカバーしてきたエリアをはるかに越えてしまった。

地理的にも異界ははるか遠のいてしまっていた。

死ぬこともあの世に行くことにすぎなかったのに、選ばれた者しか極楽というあの世へは行けないということになった。

さらに、死は穢れたものとなった。

穢れが流せない以上、一時遠ざけるほかない。

これが物忌みである。


 横死した魂、特に怨みを含んた死者はあの世に行けず、モノと化し、堂々とこの世に現れ、たたるようになる。

このころ、蛇のカミは忿怒する雷となる。


 たたる死者=魂を慰撫する手段はもちろん密教である。

魂を慰撫することを鎮めるという。

鎮魂仏教による魂鎮めである。

魂を活気づけるためになされたのが魂振りであったが、いまや魂は鎮めるものとなった。


 たたる魂の方も密教的な背景で出現する。

菅原道真大日如来の化身である帝釈天の弟子、観自在天神となっている。

ご存知の通り、この魂鎮めは見事成功し(現世的な贈位によってだが)、後にたたるモノから天神というカミに転身するのだが。


▼成仏への道(引用注:平安後期)

 もはや日本人の魂は、仏教思想抜きには立ち行かなくなった。

こうして浄土思想が本格的な威力を発揮し始める。

罪人である個人は地獄へ堕ちる。

しかし阿弥陀仏にすがれば、極楽往生できるかも知れない。

密教は現世的生活呪術であったが、浄土教は来世的生活呪術である。


 始め極楽往生の願いは寺や僧をかかえることができる裕福な支配層にしか許されないものであったが、やがて法然が専修念仏を説く。

すなわち、誰でもができるやり方(呪術)で極楽往生の願いが叶うことになったのだ。

ようやく日本人の魂はあの世への方途を再び見つける。


 いつしか、極楽に行けることを「成仏」すると言うようになった。

これは日本的な言い方ではないか。

仏に成ること=悟りを開くことと、極楽に行くこととは本来違うはずだ。

極楽に行くことだけで仏になれる。

あたかも、あの世に行くだけでカミになれるように。

「極楽」とはあの世のことであり、「仏」とはホトケというカミではないか。


 葬式とは、日本人の魂をあの世に送る鎮魂呪術儀式にほかならない。

たたることなく、つまりモノとなってこの世をさまよい歩くことなく、あの世に再生するための。


 ついには、死者をただちに「ホトケ」と呼ぶようになる。

死ぬことを「成仏」と言い、死んだだけでホトケ=カミとなれるようになる。

もはや鎮魂呪術すら不要なのだ。

ここに、すべての日本人の魂はあの世という極楽へ行けることとなった。


▼結び

 しかし、現在でも死者の祟りは信じられている。

横死者はもちろんのこと、実験解剖されたカエル、飼い犬や猫、使い古された針までも、供養を受ける。

無事にあの世に行けるように葬式呪術が施され、成仏する(カミとして再生する)よう弔われるのである。


 因みに、現代の幽霊も弔いによって成仏するわけだが、これを最初にパターンした劇が能である。

能では、主人公があの世に行けずさまよう魂(モノ)と出会い、供養を施して魂が成仏することで終わる。

このときまでに、日本人が現在に至る鎮魂形式を完成させたことを示す証左である。


(補足としての自注)

1、大陸からの流入思想を「仏教」に一括している。

儒教道教の独自の影響についてはここでは無視しているが、日本に流れ込んだ仏教にはすでに儒教道教の影響が含まれ、古神道と相俟って日本仏教を育んだものと考える。

2、仏教での他界を「極楽と地獄」に限定している。

六道輪廻、また輪廻転生そのものについては触れていない。

日本には古来、この世とあの世の往還というごくフラットな生まれ変わり思想があり、また人間以外の生物も同様な往還を繰り返していた、と考える。

[主な典拠文献]-->原典を参照ねがいます。<--リンク

ここまで引用でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

PS
仏教の伝来が日本にとっての失楽園の始まりでありました。

つまりは仏教が「リンゴ」であったと。

なかなか興味深い言説であります。

なお ジワ、生まれ変わり等に関連したページにはここから入れます。<--リンク


PS
インドネシアに海を越えて外部から宗教が入ってくる前は、そこには自然発生的なアニミズムの時代がありました。

この辺りの事も日本と相似的な事であります。

それについてはたとえば以下の様な記事があります。<--リンク

アニミズムの時代にもすでに信仰の徒(Penghayat)はいたわけだし、その時代にすでにパンチャシラの基礎はあったのだ。

ただ石などの呪物に対する崇拝というのは、そうしたアニミズムの時代固有のものであり、我々の基礎はあくまでも「唯一なる神」(Tuhan Yang Maha Esa)である。』

あるいは、このような記事も参考になります。<--リンク

『この「唯一神」という概念はインドネシアでは古くからの伝統のあるものの様であります。

たとえば「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa (39 Page)」

有史以前のインドネシアの祖先たちが、完成したク・トゥハン・アン(絶対的神格)に対する理念と概念を持っていたことは、すでにたびたび確認してきた。・・・・・』

こうして当時のインドネシアではアニミズムと共にすでに「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa」というものが存在し、それらが共存していた事が分かります。


そうして次の時代が海外からの宗教の伝来という事になります。

インドネシアでは最初に来たのがヒンドゥー教で遅れて仏教がインドから伝来しました。

そうしてそれらの宗教を国教として国を治めたのでありました。

243.サイレンドラ王国<--リンク

244.古マタラム王国<--リンク
・・・・・
インド文化の影響のもとにサイレンドラ王国は《仏教》を、古マタラム王国は《ヒンドゥー教》を国教としていた。

ボロブドゥール(→126)やプランバナン(→128)の世界に誇るこれらの遺跡はこれら両王国が残した輝かしいモニュメントである。
・・・・・

ここまでは日本の奈良時代平安時代と同じようなものでありました。

しかしながら、その当時のジャワの一般の人々がどのように魂の救済をとらえていたのかはよくわかりません。

これは今後の検討課題であります。


さてその後日本にはキリスト教がジャワにはイスラム教が伝来します。

日本のキリスト教はこの国の王である支配者が出した「禁教令」によって禁止され、それと相まって出された「寺受け制度」と相まって、日本の仏教化が完成します。<--リンク

キリスト教伝来までに日本国内が武士によって統一されていた為にそのようになりました。

でも支配者層が自分たちの魂の救済をキリスト教に求めていたら話は大きく変わってきますが、そのようなことは起こらなかったのであります。


一方ジャワではイスラム教が広がり始めます。

249.ドゥマック王国の勃興<--リンク
・・・・・
マジャパヒト王国の衰退は内紛もあるが、東南アジアを取り巻く状況の変化である。

交易の中心はイスラム教を奉じるマラッカ王国に移り、イスラム教の影響がジャワ島に及んだ。

ヒンドゥー教を奉じる大帝国マジャパヒトの覇権は次第に色褪せ、領土はイスラム勢力によって蚕食(さんしょく)された。
・・・・・

インドネシアには常に西方から海を渡って宗教が伝わってきた様です。

それも宣教師が先行したわけではなく、海洋貿易にたずさわっている商人たちが最初に伝えたのでありましょう。

そういう訳で、今回のイスラム教も前回のヒンドゥー教や仏教と同じような経路でインドネシアに伝来してきたものと思われます。

そうして、このあと紆余曲折をたどりながらもイスラム教は広まり続け、インドネシア列島のイスラム化が完成するのでありました。

こうしてインドネシアの人々はイスラムによる魂の救済を受け入れる様になったのであります。

PS
インドネシアの宗教の歴史一覧(リンク集)です。<--リンク(修正済)

それぞれの項目をクリックすると詳細が見れます。

ジャワ宗教にはこちらから入れます。<--リンク(修正済)

世界宗教の概要<--リンク

PS
人類というものは大差ないものだ、という、ちょっとした追加のお話です。

スティーブン・ケイヴ: 死について私達が信じる4つの物語<--リンク

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

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唯一神への信仰

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唯一神への信仰。

バパが「大切ですよ」と強調するものです。

さて、それはそれでいいのですが、この「唯一神」が何を指しているのかはどこにも明示されていません。

(ちなみに「唯一神」はトークでは「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれています。)

もちろんバパはイスラム教徒ですからバパにとっての「唯一神」は「アッラー」であります。

さてそうであれば「唯一神への信仰」などと言わずに「アッラーへの信仰」といえばいいのであります。

でもそうは言えないのですね。

そう言ってしまっては「ラティハンはイスラム教徒専用」ということになってしまいます。

それでパンチャシラの表現にならって「唯一神への信仰」と言われたのでありました。


さて、このあたりの事情は先行していたパンチャシラでも同じでありました。<--リンク

そうして選ばれた言葉が「Tuhan 神」でしたね。(KeTuhanan yang Berkebudayaan)

それでインドネシアでは「パンチャシラのもと、全ての宗教は唯一神への信仰をしているもの」とされています。<--リンク

そしてwikiによればインドネシアではイスラム教、プロテスタントカトリックヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが、無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性がある」とのこと。<--リンク

ですからインドネシアでは「ラティハンはイスラム教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒仏教徒儒教徒御用達」ということになります。


一方インドネシア人でない我々にとってみれば「唯一神」とは一般的には「アブラハムの宗教の神のこと」でありますね。<--リンク

そういう風に理解すると「ラティハンはユダヤ教徒キリスト教徒、そうしてイスラム教徒御用達」ということになります。


さあそれではバパはいったいどの意味合いで「唯一神への信仰」を語ったのでしょうか?

バパが言った「唯一神」というコトバの正体は何でありましょうか?

いずれにしても「ラティハンは全ての人類のものである」と言うバパでありますから、すくなくとも「パンチャシラ程度の包容力」は必要でありましょう。


そうしてパンチャシラが言う「唯一神への信仰」。

実はこの「唯一神」という概念はインドネシアでは古くからの伝統のあるものの様であります。

そのあたり、試訳(中辻 正)「スマルとは何者か?」を参照してみていきましょう。<--リンク


たとえば「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa (39 Page)」

有史以前のインドネシアの祖先たちが、完成したク・トゥハン・アン(絶対的神格)に対する理念と概念を持っていたことは、すでにたびたび確認してきた

それゆえ、パンチャシラ Pancasila の第一原則、『唯一神への信仰は真に有史以前からの独自の個性を打ち立てたものである。』にも明記されている。

この唯一神への信仰の原則ゆえに、インドネシアに存在するすべての宗教と信仰は束ねられ得るのである

それは『ビネカ・トゥンガル・イカ・タン・オノ・ダルモ・マングルウォ BHINEKA TUNGGAL IKA TAN HANA DHARMA MANGRWA 、すなわち、様々な色は、二つとわけることの出来ない『真実』(神)があって、ひとつにすることができる』ということである。

・・・・・とか


あるいは「神聖と神聖なるもの (43 Page)」

 これまでの解説にさらに加えるものはもう無いと著者には思えるが、我々の祖先の才は賞賛に値するといえる。

その時、彼らは既に完全なる神性の理念と概念を持っていたのである


そしてこの意見には同意が得られると思うが、パンチャシラ(第一原則、唯一神への信仰)は、国とインドネシア民族の人生哲学の基礎とされるものであり、個人各々の人格の上に堅固なそびえ立つ『神聖・超越的』理念である。

・・・・・などであります。


インドネシアに限らず「聖なるもの」はそうやって世界各地でいろいろな民族によりいろいろなコトバで言い表わされてきました。

それゆえに、そういうものを全て包括できる「唯一神」でなければバパが主張する「ラティハンは全ての人類のものである」というような状況は決して生まれることはないのでありました。


PS
本来は名前など持つ必要がないのが「唯一」にして「超越しているもの」であります。

でもそれでは困るのが人間でありました。

そうやって世界各地でいろいろな名前で呼ばれる様になったのです。

そうして、そうであればどのような名前で呼ばれようとも「超越しているもの」には本来は関わり合いのないこと、少しも困らない事なのでありました。


PS
インドネシアでは憲法のもとで全ての国民は何らかの宗教を持ち、そうしてそれらの宗教は全て「唯一の神を信仰している」のでありました。

従ってインドネシア国民はバパが設立した協会に入る時に「自分の宗教が障害になる」というようなことは決して無いのであります。

そうしてそのような状況が成立している為、「バパが作った協会は宗教フリーである(どのような宗教をお持ちでも問題なく入会できますよ、、、という意味)」と主張することがインドネシアでは可能になるのでありました。


でもこれはインドネシアでのみ通用する話であります。

憲法で本当の「宗教の自由(信教の自由)」を規定している国々では「宗教ではない」と言いつつ「唯一神を信仰せよ」という協会のルールでは「憲法違反のおそれ」があるようにも見えますね。

それでも「信仰の踏み絵」を要求するならば、まずは自分たちを「宗教団体」と表明してからにするべきでありましょうか。

そうするのが「フェア(公平)」というものであります。


事実我々は「何を信仰し何を信仰しないか(どのような圧力であれ受ける事なく)決める自由」があります。

そうして「宗教団体ではない」と公言しているバパが作った協会に入るにあたって「信仰の踏み絵」を踏む必要はないのです。

但しバパの説明を聞いていただく事は必要でありますが、その上で「入ります」と表明すれば「拒否される理由」はどこにもありません。


以上が入会にあたって「確認が必要な事のすべて」なのでありました。

そうして実際に会則条項のどこにも「入会するには信仰の踏み絵が必要」とは書いてありません。

それどころか「宗教はいっさい問わない」とあります。

「何を信じ何を信じないか自由である」と。

そうして「問わない」のでありますから、「信仰の踏み絵」などはもってのほかであります。

これは自分たちで作ったルールですから守るのは当然のこと、当たり前でありますね。


さて「そのような協会の意向に反対するような事を考えているとラティハンが止まってしまうぞ」というような声が聞こえてきそうです。

いいえそんな心配は不要ですね。

スシラブディダルマにこう書かれてあります。

「欲望や願い、そうして感情や思考、そういうものを自分から離して正しく全託できればラティハンを受けられます」とね。

そうしてどこにも「あれを信じなさい。これを信じなさい。」

「そうしないとラティハンにはなりません」とは書いてないのでありました。

PS
インドネシアで宗教とはパンチャシラ(→365)の"最高神への信仰"で唯一神への信仰とされている。

仏教もヒンドゥー教唯一神に体系化されている。

クバティナンはスハルト大統領になってから宗教ではなく信仰、即ちジャワ固有の文化として認められた。

管轄も宗教省でなく、教育文化省である。

以上、インドネシア専科よりの引用でした。

詳細は707.クバティナンを参照ねがいます。 <--リンク

(引用注:もちろんバパが作った協会もクバティナン登録なのでありました。<--リンク
     そうしてインドネシアでは「宗教と信仰は別物」の様でありますね。)

PS
こちらでは付論にて「(インドネシアでの)信仰の誕生」が語られています。<--リンク
(うまくリンクできない時はhttp://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAJ/ZAJ200306_021.pdfにて。)

PS
1997年に出版されたAntoonさんの本でも83ページで「信仰の誕生」が語られていました。

Santri Roh Antoon でググってみて下さい。

Antoonさんの本にGoogleぶっく検索結果としてヒットしますので、ご確認をお願います。


PS
On The Subud Way4ページはスシラブディダルマからの引用になっています。

さてスシラブディダルマでは「全能なる神(アッラー)」と記述されていますが、On The Subud Wayでは「全能の神」とだけ記述されています。

さて質問です。

バパはどのように語られたのでしょうか?

答えは「アッラー」でしょうね。

でも我々はそれでは都合が悪くなったので「アッラー」を表示しなくなったと。

まあそういう訳であります。

そうしてそれが「時代の流れに合わせてバパのコトバを変える」ということなのでありました。


PS
日本で「唯一神への信仰」という教義を広めたいのなら宗教団体を名乗るのがまっとうなあり方でありましょう。

一般社団法人を名乗りながら教義を広める」、、、というのでは「団体としての誠実さ」が疑われても言い訳ができませんね。

ちなみに「唯一神への信仰」で「魂がサルベーション(救済)される」とするのはアブラハムの宗教では「基本中の基本」となる話であります。


PS
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雑記帳29・三毒「貪・瞋・癡(とん・しん・ち)」と3つのナフスNafsu

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仏教では三毒「貪・瞋・癡(とん・しん・ち)」を減らせ、と言います。<--リンク

三毒(三不善根)は悪の根源であり、それが展開されて十悪となる。
・・・・・
貪(とん):rāga
貪欲(とんよく)ともいう。
むさぼり(必要以上に)求める心。
一般的な用語では「欲」・「ものおしみ」・「むさぼり」と表現する。

瞋(しん):dveṣa
瞋恚(しんに)ともいう。
怒りの心。
「いかり」・「にくい」と表現する。

癡(ち):moha
愚癡(ぐち)ともいう。
真理に対する無知の心。
「おろか」と表現する。』

さて、バパが展開するナフス論では、3つのあまり上等でないナフスが登場します。

そうして、それが何故かこの三毒に対応している様なのです。(注1)

貪(とん):rāga<--植物力によって生じるナフス アルアマAluamah<--リンク


瞋(しん):dveṣa<--物質力によって生じるナフス アマラAmarah<--リンク


癡(ち):moha<--動物力によって生じるナフス スピアSupiah<--リンク


いずれにしましても、仏教では「煩悩の元凶」とされるこれらの三毒がラティハンで正常化される、としたならば仏教徒の皆さんにとっては大変な朗報ではないかと思うのであります。

注1
「人がどのような欲望を持っているか」という事を問いただしていった時に、どのような宗教であれ、あるいはどのような方であれ、現実に存在している人間のありようを無視する事はできません。

そうであれば、その欲望をどのように整理・分類し、どのような名前をつけるのか、ということは時代と場所によって異なってくるものではありましょうが、その本質はほとんど変わりはしない、と見るのは当然の帰結となります。

但し、ジャワに生まれたバパでありますれば、その場所にかつて栄えた仏教・ヒンドゥー教の影響の名残りがあるジャワの文化の影響を受けていると見る事は可能であろうとは思います。

PS
ご参考までに。
・煩悩(ぼんのう)とは?<--リンク

「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク
 

Miscellaneous note 5 ・ Talk is confidential.

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Talk is only open for members.


So how can we say that our association is opened?

If you ask the reason of secret , "People who do not practice Latihan may misunderstand the talk, so ...."

Whatever the sentences, there are "misunderstanding people" and "people who answer correctly".

However, we do not know the real intention of those who wrote or talked about that sentence.

The reader only analogizes it.

On the other hand, for things known worldwide as "scriptures", there is no such thing as " secrecy only for members".

It is open to everyone.

However, the association is afraid of misunderstanding the talk and seems to think that it is right to lock it in a safe box.

Then, some people quoted and interpreted the talk as convenient for them, and then published a summary book.

And they said that "yes, this is open to the outside", " There is no secret anywhere. "

Well, can we say that our association has been open to humankind truly"?

Personally I feel very doubtful.

PS
It is easier to understand because summary books and stories made in this way are clarified.

If so, it is not necessary to take to correspond to the original difficult talk of Bapak.

In that way "summary book of secondary creation" may be more useful than talk which is the original text.

And it will be relying on by members.

At that time the summary book will be treated like a doctrine collection that gathers doctrine.

Latihan 's progress must be like this or" Latihan' s meaning is this "and the members will make it like a textbook.

Thus "religiousization of association" leads to completion.

PS
Bapak once said that "they can not hear Bapak's talk if they are not members."

This story, I wonder that it was the beginning point.

Actually, it seems that there was even the possibility that they were opened if people who are not members are listening together about the Bapak 's talk at that time .

Well, however, such a thing has become a story of the past.

There is no such worry now, it is possible to reveal Bapak 's talk with confidence.

List of articles<--Link

雑記帳5・トークは会員外秘

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

トークは会員外秘。

それでどうやって「開かれた協会だ」などといえるのでしょうか?

会員外秘の理由を聞けば「ラティハンを実習していない人はトークを誤解するおそれがあるから、、、。」だとか。

しかしながらどのような文章であれ、そこには「誤解する人」もいれば「正解する人」もいます。

そして、その文章を書いた、あるいは話した方の真意などは知る由もありません。

読者はそれを類推するのみです。


他方で世の中で「聖典」と知られている物に対しては、そのような「会員外秘」という事はありません。

それは全ての人に対して開かれているのです。

しかし協会はトークを誤解されることを恐れるあまり、金庫にしまって鍵をかけるのが正解だと思っておられる様です。

そうして、一部の方がトークを自分達に都合の良いように引用し、解釈し、そうして要約本を出版して「ほうら、こんなに外部に対して開かれている。」、「秘密などはどこにもない」というような顔をするのです。

さて、このような状況が本当に「人類に対して開かれた協会のありよう」なのでしょうか?

個人的には非常に疑問を感じるのであります。

PS
そのようにして作られた要約本、ストーリーが明確になっていますから理解しやすいですね。

そうしてそうであればわざわざ原典である「バパのトーク」にあたることも必要ない訳です。

そうやって「2次創作の要約本」が原典であるトークより重宝がられ、会員から頼りにされる。

その時に要約本はまるで教義を集めた教義集の様に扱われる事になります。

「ラティハンの進歩はこのようでなければならない」とか、「ラティハンの意味はこういうものだ」とかまるで会員はそれを教科書のようにするでありましょう。

こうして「協会の宗教化」は完成に至るのであります。

PS
この話、かつてバパが「バパの話は会員でないと聞くことができません。」と言ったのが、そもそもの始まりだったと思います。

実際にその頃のバパの話を会員でない人が一緒に聞いていたら、その場でオープンされてしまう可能性さえあったものと思われます。

まあしかし、そんなことも過去の話となりました。

そうしていまや、バパのトークを公開できないもう一つの理由が明らかになりつつあります。

それは、バパのトークの中に矛盾する記述やら、理解に苦しむ記述やらがあり、もし仮に現状のままで公開した場合には、外部の人から「これはどういう意味ですか?」と問い合わせがあった時に協会が答えらえない、という事態が想定されます。

それでは協会の面目がつぶれてしまいますね。

ですから、そのような事態は避けねばなりません!

他方で、トークからあるストーリーにそって選別して編集した要約本であればそのような心配はなく、どのような質問にも安心して答える事ができます。

しかしながら、そうであるとすると永久にバパのトークが公開される、ということはなく、それは何を意味しているかと言いますと、協会の内部の情報と外部の情報が接続されることは無い、という事を意味しています。

つまり、協会はその内部においてのみ通用する常識でしか運用されることはなく、どこまで行っても世界に開かれた、グローバルな姿になる事はない、という事であります。
(協会の外部にある一般常識と協会内部にある常識のすりあわせ、連続性の確保が起きない、という事です。)

そうして、残念ながらそのようなグローバル化できない協会の在り方というものは、決してバパが望まれたものではない、という事は明らかな事なのであります。

追記
上記の事を要約しますれば「協会はバパのトークの全体像を協会外部に対して正しく伝える、正しく説明する、という努力をサボっている、と言う事になると思われます。

PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

バパのリンカネーション論(輪廻転生論)/下

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

 December12月11日, 1977 - Bapak
私たちのラティハンは、この世に存在するものを超えて、この世界を超えてあるものを目指しているものです。

ラティハンでは、感情心と思考心がこの世界に限られており、それを超えて行くことができないため、私たちは感情心と思考心の不活性化を経験します。

バパがあなたに説明したサン ヒヤン シスSang Hyang Sisと同じように - 彼は自分が望むものを得たにもかかわらず、そして非常にすばらしい、非常に強力で非常に輝かしいものになったが、それはすべてこの物質世界の中のものでした。(注2)

これが彼の足跡と彼の方法に従う人、サン ヒャン シスに従う人が常に生まれ変わりを必要とする理由です。(注5)
彼らはいつもこの世に戻ってくる必要があります。

これは、例えばチベットで新しいリーダー、新しい王または新大祭司、あるいはダライラマと呼ばれる方を探しているとき、彼らはいつも最後のダライ・ラマが亡くなったその時刻に正確に生まれた赤ちゃんを見つけようとするのです。
そうやって、ダライラマの精神や魂の生まれ変わりの果実を得ることができるのです。(注6)

これが私たちが受け取ったものとの違いです。

それはもちろん、インドでも同じです。
彼らは、人々は常に良い人生を送るべきだと常にアドバイスしています。
彼らはこの世で禁欲主義と自己否定を練習し、夜には断食と祈りと覚醒を続け、本当に「ミカMika」である人になるかもしれません。(注4)
ミカになった人は死んだ時に、この世界を離れることができます。

しかしそれらが意味することは、彼らがこの世界に戻ったときに彼らが行く場所を選ぶことができるという立場にあるということです。
彼らは自由に選ぶことができます。
だから次回は、この世では非常に裕福になるか、非常に成功する、あるいは非常に高い地位になる、あるいは多分王になることが運命づけられているような、赤ちゃんや胚、あるいは彼らが見ることができるものならなんでも、そういうものを選びます。(注4)

しかし、当然のことながら、今日は多くの王がいないので、大統領になるか、そういうような人になるだろう。
だから、いつも生まれ変わりに頼ってこの世に戻ってきます。

例えばイスラム教やキリスト教、あるいは他の宗教では、それはまったく異なっています。
生まれ変わりはありません。
イスラムは生命を意味します。
私たちが知っている宗教は、イスラム教やキリスト教のように、生命を意味します。
(注:ここでバパが言っている宗教とは、アブラハムの宗教と言われている系列のものの様です。)

つまり、理論的には(そういう事になっています)。
宗教は永遠の命ですが、そしてそれはまだ実践されていますが、多くの人々はそれを実践する方法を知らないのです。
彼らは理論にとどまるだけで、バパが今説明したように、彼らはまだ普通のやり方で物事を実践しています。
(注:ここは「それぞれの宗教に従う多くの人たちには、しかしながら現実が伴っていない」という主張になっています。)
・・・・・
それは、神の力が実際には「感覚」であることを思い起こさせることです。
「感覚」の中に、あるいは「感覚」を通じての感覚です。
そして、これは今私たちが全能の神の恵みによって受けたものです。
つまり、このラティハン・クジワワンで神の意志によって神の力との接触を受けました。

そして、この目的は、神の力との接触を感じることができること、私たちがジワjiwaの生命を感じること、つまりこの世界でまだ生きている内に感情心と思考心の影響から解放された生命の振動を感じることです。
なぜでしょうか?
その目的は、この世界での私たちの人生に対するこのような理解をジワに移すことができるということです。
その結果、私たちが死ぬ時、感情心と思考心がもはやそこになくなる時に、ジワが奇妙に感じることはありません。
(注:人が生きてきた記憶をジワに転写し保持できる、つまり死後も個性が保存される、という主張です。)

それは、この世界での経験やその人生の現実を得ているので、(死に臨んでも)私たちは依然として意識を持ち、気が付いている事ができます。
(注:通常の場合は人は死に臨んだ時に、無意識に落ち込むか、あるいは意識がなくなります。)

Febuary2月3日, 1980 - Bapak
しかし、人々が夢を見て努力して達成することは、これらはイスティジラットistijratです。
したがって、人々が超自然的な力を身につけ、不死身になることそれはイスティジラットistijratです。

彼らが死ぬと、これらの人々は次の世に行くことができません。
彼らはそれをすることはできません。
そのような人々はこの世界に属します。
彼らが生まれ変わったのはそのためです。

したがって、バパの場合、バパの受けた事によると、バパは死んだときに生まれ変わることはありませんが、(生命は)継続します。
・・・・・
神の意志であり、神があなたを導いているなら、起きているか眠っているかを問わず、あなたがしているすべてのことにおいて、すべてのあなたの活動、すべての行動において、あなたは全能の神の導きと指導を感じるでしょう。
あなたは、神の力が本当にあなたを内側と外側の両方で囲んでいるという証拠を得るでしょう。

人々が通常は「人生の危機」とみなす死は、そのような人々にとってはそう感じることはありません。
そのような人々とは唯一全能の神からワヒュー(wahyu:恩沢)を受け取った人々です。
死後の世界は、すでにこの世界と一つになっているので、それらの間には何も立っていないでしょう。
(注:死後の世界とこの世はひとつづきである、障害物はない、という主張です。)

April4月8日, 1984 - Bapak
宗教では、絶望する人は醜い、罪深い、神を信じない人とされるために、人間は絶望することが許されていないとすでに説明されています。

例えば、彼はこれを探してそれを見つけることができない、彼はそれを探してそれを得ることができない、彼はこれで働きたい、そして彼はできない、彼はそれで働きたい、そして彼はできない。

だから彼は言う。
「私はもう死ぬかもしれません。なぜなら人が言うように、あなたが死ぬとそれが終わり、私たちの人生の話の終わりだからです。」

全く違います!
エスは自分自身でこう言いました。
「死は生命の継続です。」
だから、死は終わりではなく、生命は続くということは明らかです。

問題は、どの道にそれが行くのか?です。
それは後ろ向きに行くのか、それとも先へ進むのでしょうか?
それは上向きになっていますか、それとも下向きになっていますか?

これも仏教において説明されており、それは「生まれ変わり」と呼ばれています。
(他方で)イスラム教にはそのようなものはありません。
イスラムは生まれ変わりを望んでいない、彼らはもし可能ならばそれを避けたがっています。

しかし、イスラム教徒がバパがちょうど述べたように、彼らは同じ宗教で同じ人種であるにもかかわらず、お互いを殺し合っているのであれば、誰が最後に彼らを上げることができるでしょうか?
そこには、そのような人々のための余地はありません。
地獄は天と呼ばれるものに比べて小さいが、それでも多くのものを含むことができるほどの大きさはあります。

だから悪い人、醜い人、貧しい人は金持ち、知的な人、学部長である人よりもずっと多いということは大事です。
それが神の定めです。
それにもかかわらず、兄弟姉妹の皆さん、神は人にそのような運命を離れさせることを可能にします。
あなたが神の助けを受けるならば、その場合のみあなたがそうすることができるということを忘れないでください。

April4月21日, 1984 - Bapak
私たちは裸で生まれました。
後で私たちが死ぬ時、私たちが帰る時、再び裸になるでしょう。
そして、私たちがこの世界を離れるとき、私たちは何も持っていけません。
それでも、オランダの諺にあるように、死はまさに人生の継続です。

それは私たちが間違いを見て死ぬ時にそうなります。
私たちは物質にこだわって、野菜にこだわって、動物、人間につかまった。
なぜ私たちは物事に取りつかれ、食事をしたり、他の人との関係につまずきましたか?
人生に付随すると思われるまさにその力(4つの低次の諸力)を避けることによって得る結果は強みではなく弱みです。
意図した通りこれらの力(4つの低次の諸力)よりも上に上がるのではなく、(死後に)それらの下に落ちます。
(注:この部分はバパの禁欲主義的な修行方法への批判になっています。)

そしてそれは、兄弟姉妹の皆さん、私たちの間違いの結果として、生まれ変わりと呼ばれるものが起こるのです。
(注:これがバパの生まれ変わりに対する結論の様に見えます。)

化身(incarnated:肉体化)とは、インドで起こると言われているものを意味しています。(注9
インドでは、人間の魂を持つ牛がいると言います。
彼らはそこに「その牛は人間の魂を持っている」と言っています。
しかし、人間の魂が牛だけに生息するだけではありません。
木はまたその中にそのような魂を持つことができます。
物質的な物も(魂を持ちうる)。
これはインドに関連するものです。

それはアラジンAladdinの(魔法の)ランプの物語のようなものです - ランプをこする人は悪魔の住居に吸い込まれます。
なぜ?
人間自身の間違いのために。

なぜこれはすべて起こるのですか?
思考、感情心、思考心を間違った方法で使っているからです。
これが、バパがあなたにある事を伝えたい理由です。
バパが最近ジャカルタ外のメンバーに言ったことですが、ここ(チランダ)でも繰り返す価値があります。
少なくとも、他の人を傷つけたり傷つける心や意欲を持たないでください。
復讐感や憎しみをはるかに少ないように。
これは絶対に許可されていません。

神聖なコーランの詩では、それは言われています。
イスラムの人は、別のイスラム教徒に対して嫌悪感や復讐感を感じてはいけません。
恨みの気持ち、恨みの抱きしめ、復讐の意志は、その気持ちを持っている人が、復讐する人、場所、物に、つまり、彼が憤慨しているまさにそのような人へと肉体化(incarnated)されることを意味します。
これが現実です。

あなたが男であり、あなたが結婚していて、あなたの妻が妊娠して子供を運んでいる場合、あなたが誰かを憎むようになったら、あなたに生まれる子供は、あなたが嫌う人のようになります。
はい。あなたが軽蔑する人が知的で親切で美しいものであっても、(あなたが持つ子供は)知的ではなく、親切ではなく、善良でもありません。

そのように登録されます。
そしてこれ(間違い)はすべて人間自身が作り上げたものです。

July7月8日, 1984 - Bapak
この世においては、我々は尚、食物を必要とし、人々が私たちを好まない場合にはそれが気にさわります。
私たちは尚、自分たちが何かを作り、人々がそれをけなしたならば腹が立ちます。
何故ならば、私たちは尚、この世にあるものと結び付けられているからです。
そして若しも、私たちがずっとそういう風に結び付けられたままでいれば、最後には古代のジャワ人のようにバパが前にも話したような存在となってしまうでしょう。
つまり、彼等は尚もこの世に住んでいます。
彼等は尚ここに居てそして働いています。
(注:通常、我々が幽霊と呼ぶ存在の事)
何故なら、この世に存在するものとの結び付きの故であります。
これが生まれ変わり、或は、転生と言われているものです。
これが輪廻転生へと人々を導くものです。  

イスラムにおいては人々は輪廻を好みません。
彼等はそれを好まないのです。
けれどもしかし、 どうしたらそれを脱することができるかを理解していません。
問題なのは、殆どの宗教が尚、フアンタジーであるということです。
というよりは人々の宗教に対する信仰が尚、フアンタジーの領域にあるということです。  

丁度、それは回教徒がこう言っている場合のようなものです。
あなた方は一日の断食が明ける時にナツメヤシを食べますが、その度ごとに、つまり、あなた方がより沢山、そうやってナツメヤシを食べる度に、そのナツメヤシは来世に植えられて、そしてあなたは天国に行けるのですよと。
そして、あなたは自分が断食をして、その断食明けに食べたナツメヤシの数だけ、天国でナツメヤシの木を持つことになるでしょう。
ですから、できるだけ多くのナツメヤシを食べなさいと、こういう風に言います。

人々は勿論、この話は単にアラビヤの輸出を推進するためのものであることを知らないのです。
そしてこれは、単にイスラムを広めた人々の関心事であって、宗教とは何の関係もないことを知りません。

June6月11日, 1985 - Bapak
ラティハンの性質は、私たちの起源を示すことです。
私たちがどこから来たのか、私たちの祖先はどこか、私たちの内的な内容はどこにあるのかを示すことです。
象や牛、ヤギなどが何であれ、そういうものが私たちの中にいるかどうかがわかります。
これらはすべて本当のものです。
そして象やヤギのようなものなら、少なくともあなたはそれを見ることができるので、それはそれでいいのですが。
しかし仮に、あなた方が 一匹の蚊であるとしたら、あなたの経験の中には実体らしいものが何もないということになります。
ですから皆さん、あなた方が一つの階段から次の階段へ、物質から植物へ、そして動物へ、そして人間へと行くということ、つまり、生まれ変わりがあるというのは本当に真実のことなのです。

そこで、次のようなことが重要だということになります。  
さて、あなたは今人間のレベルにいる。
少なくとも後戻りして、牛やら山羊やらにならないようにしなさい。
仮に前に進むことができないにしても、少なくとも今あるままに留まるように努めなさい、ということです。(注7)

2月27日 2015-Ibu
まあ、それは起こる。
彼は影響を受ける傾向があります。
彼の祖先は彼に影響を与えます。

実際、協会では、生まれ変わりは適用されません。
しかし、まだ(神によって)受け入れられていない霊があります。
ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。(注8)

2月5日 2016 -Ibu
「協会にはいっていれば、私たちはみな天国へ行くだろう」などと言わないで下さい。
なぜあなた方はそのように考えるのですか?

「バパが私たちをそこへ連れて行ってくれるでしょう」
そんなことはありえません。
バパはあなた方を天国へ連れて行くことはできません。
あなた方各人がその努力をしなくてはならないのです。
バパは単に方法を提供しました。
バパはあなた方をおんぶして天国に連れて行くつもりはありません。
あなた方は自分で努力する必要があるのです。
(注:これがラティハンと宗教でいう所の「神との契約」との違いになります。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注4
ミカ(Mika)については探しましたが、分かりませんでした。
現時点では詳細が不明なコトバです。

加えて「インドでも、アンワスの道は行きわたっています。」というのがヒンドゥー教の事をさすのであれば、「良い暮らしをする為に現世に戻りたがる」という指摘は誤解でありましょう。
ヒンドゥー教の生まれ変わりについてのスタンスはこちらの記事を参照願います。<--リンク

その記事にあるように『輪廻転生からの解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放される』のが目的である事が分かります。

注5
ここでバパは仏教やヒンドゥー教がサン ヒャン シスと呼ばれる事になったアダムの孫にあたるアンワスが起源である、というジャワの伝説、あるいは神話をもとにした話をされています。
しかしながらそれはジャワにイスラムを広めるために作られた話の様であります。

この件、内容詳細につきましては注2のリンク先の記事を参照願います。
(但し、バパはアンワスといいますが、多くの記録ではアンワルがサン ヒャン シスになったとしています。)

注6
ここの文脈ではダライ・ラマが「サン ヒャン シスの道に従う人」で「権力を持つ優れた人々として戻ってきている人」の例の様に扱われています。
さて、この指摘は本当でありましょうか?

ダライ・ラマの「輪廻転生制度」については以下の様にHPで説明されています。

・14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度<--リンク

あるいは、次の様な記事もあります。
ダライ・ラマ14世「私でダライ・ラマ制度は終わりにしたい」<--リンク

転生を繰り返すダライ・ラマをHPが主張するような「菩薩行」とみるか「今の地位を求めて常に現世に戻りたがる人,良い暮らしを求めて転生する人」と見るかは、読者の判断にお任せしたいと思います。


他方で、チベット仏教では仏教徒は現世に戻りたがっているのでしょうか?
チベット仏教で特徴的な「死者の書」からその様子が伺われます。<--リンク

そこから分かるのは、やはり「輪廻からの解脱をめざいている」という事でありましょう。
そうしてこれは個人的な認識ではありますが「解脱ができないならば、せめてまた人に生まれ変わること。」がチベット仏教では次に希望されている事であると理解しています。

注7
ここでのバパの立場は「輪廻転生から離脱出来ないのであれば、せめて人として転生するようにしなさい」というものであります。
これはリンカネーションを認めるバパでありますれば、当然そのようなアドバイスになるかと思われます
そうしてまた、このスタンスはまったくチベット仏教徒のスタンスと同じであるようにも見えます。

注8
『ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。』

ここでは2代目は「8割~9割がたの会員は輪廻を離れる」と主張されているように見えます。
そうして、「輪廻を離れるのはロハ二に到達した会員だけ」とするバパの説明からすれば、我々の協会の8割の人はロハ二レベルだと言う事になります。
しかしながら、そのような事はどうやら現実ではない様です。
とするとこれは会員へのリップサービスかな、とも思ってしまうのでありました。

注9
ネパールでの化身(incarnated:肉体化)の例です。
ご参考までに。
・生き神「クマリ」に選ばれた3歳児、儀式経て任命 ネパール<--リンク

まとめ

バパがトークで「Tuhan Yang Maha Esa」(唯一の神)と言います。<--リンク
それを英訳者が「God Almighty」と英訳します。
そうして和訳が「唯一全能の神」となります。

バパは「イスラムだ」といます。
我々はそれを「バパは(オーソドックスな)イスラムだ」と理解します。
しかし実態はバパのイスラムはジャワ・イスラム(ジャワ伝統的イスラム)です。<--リンク

バパがアダムの話をします。
我々は「バパは旧約のアダムの話をしている」と理解します。
しかし実態はバパはイスラムでのアダム、そうしてジャワにある伝説・神話としてのアダムの話をしているのでした。<--リンク

さて、そういう訳で我々は「イスラムであるバパが仏教やヒンドゥー教が言っているような輪廻転生を認めるはずがない。」と自分たちで勝手に判断します。
しかしながら実はバパは輪廻転生を認めており、多くのトークでその事を語っていました。

論点整理(バパが言った事)

・輪廻転生は存在する。
・全ての人は輪廻の輪の中にいる。
・カルマによる転生(化身?)もある。
・バパは「人は自分の間違いによって転生する。」と主張している。
(注:間違いとは・・・地球上で使う力のみしか知らず、その結果、自分を地球と強く結びつけてしまう事)
・いままで積み重ねてきた間違い(カルマ)はラティハンによってきれいにできる。
(注:但し我々がラティハンによる浄化の邪魔をしない、という条件がつく。<--リンク)
・ラティハンによってロハ二 レベルまで到達すれば輪廻から離れる。

・四つの低次の諸力は地球上のみに限定されている。
・したがってそれらを主に使った修行方法では地球を離れる事は(輪廻を離れる事は)できない。
・サン ヒャン シスというのはそのような道の象徴である。

仏教徒ヒンドゥー教徒は輪廻からの解脱を目的とせず、常に良い暮らしのできる人間に転生する事が目的である。
(注:これはバパの誤解であると思われる。)

・四つの低次の諸力しか知らず、それだけを使い、人生を過ごした人が輪廻から離れる事はない。

イスラム、あるいはキリスト教、あるいはそれ以外のアブラハムの宗教は輪廻転生を好まない。
・しかしながら、それらの宗教に従う人たちはどのようにしたら輪廻から離れられるのかをしらない。
(注:したがってそれらの宗教に所属している人たちが輪廻を脱するかどうかは確実ではない。)

PS
こうしてバパの中では「唯一の神」という存在と「輪廻転生」という事柄が何の矛盾もなく共存しているのであります。

そうして実際にそれは、我々の常識的な考え方、あるいは広くよく知られている考え方とは違いますが、それにも関わらず、この二つのものが同時に存在する事はできない、とするような合理的な、あるいは妥当な理由はどこにも見当たらない様に思われます。


さて、ラティハンは性別、人種、思想、宗教を差別しません。
そうであればその先にある「天の領域」もまたそうでありましょう。

バパはそこをロハ二 レベル以上のジワ(魂)の行く先としました。
そうして人々はいろいろな名前でそこを呼びます。

いわく、天国、ロハ二のジワの天の住み家、輪廻から離れた魂(ジワ)の行く先、mokṣa(モークシャ)、ニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)等々。

バパが言うように、ジワが永遠のものであり、なおかつジワが輪廻転生をするのであれば、その輪廻を離れたジワが行く先も一つでありましょう。

そうして、その行く先の名前について言いあらそってみた所で、得るものはないもない様に思われます。


そうしてラティハンというものは人間のカルマを浄化し消滅させることにより、輪廻から離れる事を可能にするような、具体的で自然な、そうして強力な手段、方法であると見なす事ができそうです。

少々補足すれば「具体的である」というのは人間の想像力や集中力を使って人が何かを作り出す、何かを達成する、という必要はなく、ラティハンそのものが実体的であり人に求められる事は「それを受け取る」と言う事だけである、という意味になります。

「自然である」と言う意味は、ラティハンが本来の自分を目指すものであって、自分と違うものになる事を目指していない、という意味になります。

そうして「自然でありながら強力である」と言う事は、ラティハンが目指している方向、ラティハンがもたらしてくれる浄化の方向を自分が進むべき方向である、として認め「その方向でよし」とするならば、ラティハンは最終的にはその人を解放にまで導くほどに強いものである、という意味になります。

しかしながら、「いいやその方向は違う」といって自分の現状の姿を「是」とするならば、ラティハンが浄化したものを、また自分で元に戻すならば、そこで浄化は足踏み状態となり、ラティハンがそれ以上の浄化を強制的に行う、ということはないという事になります。(注10

つまりラティハンの道行きの中では「人の自由意思は尊重される」ということであり、一切の強制力は働きません。


余談になりますが、この事はこの世の成り立ちに深く関係している様にみえます。

つまり、輪廻転生というものはつまるところ自己責任での転生を認める、という世界構造であり、その大前提は「人の自由意思は尊重される」という事であると思われます。

注10
もちろん我々が感情心や思考心、あるいは通常ペルソナと呼ばれているような自我によって欲望される、あるいは希望されるような方向にラティハンの浄化の方向を導くという様な事は基本的に不可能です。
それゆえにラティハンの浄化、あるいは進歩を早めようとして、「よかれ」と思って我々が能動的に行う「すべての修行行為」は無駄であり、それどころかラティハンの邪魔をする、という結果に終わってしまうであろうとバパは言うのであります。
(但しこの内容は、ラティハンと切り離して行う、ラティハンの浄化や進歩とは関係を持たずそのような意図を持たない、精神的なあるいは身体的な練習、訓練、エクササイズの実習を妨げるものではないと思われます。)

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク