ラティハン日記・掲示板

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バパのリンカネーション論(輪廻転生論)/上

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バパはどうやら輪廻転生、リンカネーションを認めていた様です。

そうしてそれはある特定の人について、たとえばダライ・ラマのような人についてだけ、というものではなく、すべての人に対してのものでした。

そうであればそれはまるでヒンドゥー教や仏教が認識している「生まれ変わり、死に変わりして生命(ジワJiwa:Jiva)が継続してゆく」という教えそのものであります。

さてバパは多くのトークでリンカネーションについて語っておられました。

そして今まではその事はあまり表には出てきていませんでした。

バパがイスラムであったせいか「これほどヒンドゥー教や仏教に近い認識を持つことはあるまい」という先入観があった為かと思われます。

しかしながら、そのような先入観はどうやら間違っていた様です。

そういう訳で、以下、バパのトークから関連する部分を引用します。

引用したトークのリスト
October 8, 1957 - Bapak
November 11, 1957 - Bapak
November 22, 1958 - Bapak
June 30, 1959 - Bapak
August 7, 1959 - Bapak
March 28, 1960 - Bapak
Q&Aの編集 1971 - Bapak
February 3, 1974 - Bapak
October, 16 1977 - Bapak
October 20, 1977 - Bapak
11月12日1977- Bapak
December 11, 1977 - Bapak
Febuary 3, 1980 - Bapak
April 8, 1984 - Bapak
April 21, 1984 - Bapak
July 8, 1984 - Bapak
June 11, 1985 - Bapak
2月27日 2015-Ibu
2月5日 2016 -Ibu
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October10月8日, 1957 - Bapak
だから、完璧に達した人間は、神の恵み、神の贈り物を受けた人は、死ぬ時に死ぬことはなく、むしろ生きることが始まったと言われています。

あなたが忘れることのない例として、私の子供たちよ、それはキリスト教の中で語られています。
そこではイエス自身が預言者です。
預言者イエスが死ぬことはありませんでしたが、彼は終わりのない生命を生き続けました。
これは単なる例です。 
(そしてそれは)バパが言っていることが真実であるかどうかを判断する際に考慮できる点です。

しかし、まだそのレベルに達していない人、またはバパが言っているように、彼らが死んだときに欲望の体(nafsu)を持っている人は、事実を全く理解できません。
その人は死んだことに気付かないでしょう。
これは、そのような人の内部は彼らの起源に戻り、本来の人間のレベル(ロハ二)に戻らないのです。
もともとその人はそのレベル(ロハ二)より下から来たからです。
その結果、彼らの欲望(ナフス)と共に残された人間は、想像していたものの中をさまよい、彼らが地上にいたときに彼らが多く考えた事柄の中でさまよいます。
(注:幽霊といわれる存在になる、とバパは言います。)

それはそうです。
それが、仏教において、生まれ変わり(reincarnation)が事実であると言われている理由です。
確かにそうです。
しかし、それは神への道に迷った人、または完璧への道に迷った人にのみ適用されます。

このため、仏教には以下の教えがあります。
人間はすでに高いレベルに達していれば、その人は輪廻転生から自由になり、この世界から自由になります。
これは、彼ら(仏教徒)が少し前にバパが生命力と呼ぶ精神(ロホ)の本当の性質を理解しようとする理由です。
それは物質的物体、植物、動物、および普通の人間存在に由来するものです。

これらの力についての知識が不足しているため、(真の)人間の魂やそのような高レベルに達していない人の魂は、その魂よりも強い力(注:4つの低次の諸力)が働く場所では簡単に迷うことがあります。
これが生まれ変わりです。
しかし、私たち自身が望むことは、可能な限り、もし神がそれを許せば、 もし神が私たちにこの贈り物をもたらせば - これ(輪廻転生reincarnation)を体験しません。

私たちは真の人間のレベルよりも低い場所に私たちが戻って行かないように神に願います。
言い換えれば、私たちが本当にどこに帰るべきかを知りたいと思っています。
そしてそれは完璧な人間の起源の場所です - 人々が通常それをインカンカミルinsan kamil と呼ぶような、それは完璧な人間、私たちが現在生きているこの世界からは分離している人間を意味します。
私たちは、死後、私たちがこの世に再びではなく、本当のこの世の後の生命を経験することを願っています。
(注:そのような魂のレベルに上昇する為のこの世の生活のやり方、すごし方が重要であるとバパは言います。)

この世界はこの世の後の生命世界ではありません。
このため、人々は通常、天国を語ります。

我々は、人間以下の力(4つの低次の諸力)により圧迫される事なく、そして私たち自身の欲望(ナフス)から自由になった後、これらの天の領域に入ることができます。
そしてこれ(ナフス)は私たちのレベルよりも低いレベルのこれらの力(4つの低次の諸力)との関係を絶えず利用しています。

訓練(ラティハン)では、私たちはどんなものでも、自分たちの欲望や、私たちより下のレベル、そして過去に人間によって創造されたもの、つまり言い換えれば、願望の力によって作られた、「イズム(~主義)」、またはスピリチュアリズム心霊主義)、またはそのように呼ばれる創作物との関係を持ちません。

これは、これらの欲望が、奇妙な能力を持つ人、他の人の力を上回る力を持つ人と見なされることを可能にすることを除いて、それ以外の目的はなく使い道はないからです。
このようなことの結果として、人は人間以下の力(注:4つの低次の諸力)に強く縛られ、非常に緊密に拘束されるようになります。
最後にそれら(注:4つの低次の諸力)が完全に道を塞ぎ、そうして完全な人間のために準備された天の領域に入ることができなくなります。

そういうものなのです。

November11月11日, 1957 - Bapak
このトレーニング(ラティハンlatihan)はそれとは対照的です。
これは崩壊し、内部から流出するので、あなたは徐々に人間の領域外の状態と接触しそれを知る様になります。
最終的にこの訓練(ラティハン)で、あなたはこの地球の外のものを知ることができます。

もう一方は、バパが言ったように、すべての種類の混乱を内部感覚にもたらします。
バパが似た様な例をあげるとするならば、すべてを自分の中に持っていくことは、あなたの家から物事がどのようになっているのか見る為に(外に)出て行くのではなく、家の中に入って自分を閉じ込めるようなものです。
それで、あなたが知っていることはすべてあなたの家にあります。

それが違いです。
ある日、あなたがそれを受け取ることができれば、あなたは自分自身で知り、この違いに気がつく様になります。
あなたはあなたの家から出て、この地球を包囲する生命の偉大さを知ることができます。
また(その時にはあなたは)この地球を越えるので、あなたは生まれ変わりの対象にはなりません。

私たちは長い間ここにいました。
私たちは疲れています。
それで、もしできるならば、出口を求めています。

もう一つのものは、瞑想の練習(注:バパが体験したもの)、そして自分自身を黙らせることは、本当に外に出る道を探しているのではなく、ホール(穴)への道を探しているのです。
バパが人間の自己の内部のホールや家を指しているとき、バパは人間の自己の中にあるものすべてを意味するのです。
人間の下にある諸力は、物質的または悪魔的、野菜または植物の力、動物、そして人間です。
(注:4つの低次の諸力の事)
これらのために、生まれ変わりがあります。

あなたがあなたの家の中だけにいて、後で死ぬと、あなたはここにいるかもしれません。
植物のレベルにいるかもしれませんし、動物レベルにいるかもしれないし、人間のレベルにいるかもしれません。
言い換えれば、ここに戻ってきます。(注:この地球という世界に戻る)
そしてあなたは正しい形ではなく間違った形で戻ってきます。

(しかしながら)あなたが受け取ったものはそうではありません。
それは内部からきれいにしていきます。
もちろん、きれいにする事は家の中に何があるかによって異なります。
すべての種類のものが積み重なっていて、家の中に猫、ねずみ、犬、牛、水牛、花の鉢が並んでいるなら、当然のことながらきれいにするには多大な労力が必要です。

November 22, 1958 - Bapak
人間の内部にある魂の病気をどうやって表現することができますか?
魂は人間の中の内的な内容です。
それは人間が思考し、感じ、行動し、それを行うことを可能にする内容です。
しかし、人間のこの内容が本当に(完成された)人間の魂である、ということは決して確かな事ではありません。

これは、非常に高度なレベルで学んだり、すべての種類の資格や地位を持っているにもかかわらず、少なからずの人たちは、無意識のうちに、人間の行動規範に反して違反する行為を行うのであり、賢明な人ではないという証拠があります。
その理由は、自分たちの存在の内容、すなわち魂は、本当に神への約束を守ることができる(完成された)人間の魂ではないということです。

それは間違った低い魂で満たされています。
彼らの過失のために、彼らの強要され、妨害された行動のために、彼らの存在の中には間違った内容や魂、すなわち(完成された)人間(のレベル)に至っていない魂があります。

これは仏教で言及されています。
それは彼らが生まれ変わりと呼ぶものです。
つまり、人間の魂にはレベルがあり、人間の状態がまだ完全ではない場合、彼はおそらく上昇することはできず、また生まれ変わります。

ですから、これは重要なことですが、私たちを再び生まれ変わらせるブロックは取り除かなければなりませんが・・・(聞き取れない)・・・この世のものよりも万能です。

さて、なぜイスラム教とキリスト教には、生まれ変わりのようなものはないのでしょうか?
その理由は、キリスト教イスラムという名前が「完全な人間の状態」を意味するからです。

しかしながら、これらの宗教に従う人々はまだ(完全な人間ではありません)。
したがって、宗教は本当に生まれ変わりを好みませんが、かといってその信者は自分の宗教が必要とするものを常に完全に行う、と言う事ができている訳ではありません。
(注:つまり死に臨んで輪廻の輪から逃れられるかどうかは定かではない、、、と言う事になります。)

June6月30日, 1959 - Bapak
物質から人間まで - レベル1から4まで - 私たちは、思考の心、私たちの感情心、そして欲望を静めることによって、これらの4つの力を実際に見極めることが可能です。
これらの力は依然として人間の意志と結びついているからです。
だから、人々がまだ感情心と頭脳の力を利用している限り、彼らは元に戻って再び人間になる必要があると言われています。

これについてはあなたが読んでいるかもしれないのですが、生まれ変わりと呼ばれるものです。

しかし、あなたが神によって祝福され、より高いレベル(普通の人間より高貴な第5レベル)に上がることができるなら、あなたはこの世界に戻って再び人間になることを望まないでしょう。

実際には、人間は皆、あなた方もそうですが、満足感を持っていません。
あなた方に触れるすべてのものの影響を受けるからです。
たとえば、あなた方は寒さの影響を受け、冷たいものによって影響を受けます。
熱によって、熱いものによって、あなた方はこれとその影響を受けます。
あなた方はまだこれとそれに苦しんでいます。

August8月7日, 1959 - Bapak
物質力からロハ二まで、それらが働いた時に、それらが影響を内部感覚に与えた時にどのようになるかを感じ取る。
その世界に引き込まれた時にどうなるかを前もって知る事ができる。

このような仕方で私たちは、これらの力のそれぞれの世界に住むこと、その世界に滞在する事は、どの程度に心地よいかという真実を感じ、知る事ができます。
またこのような仕方で、あなた方はそのうちのどれが他のものと比べて、自分にとってより心地よく幸せであるかを間違いなく選ぶ事ができるでしょう。
ですからじぶんでは気がつかない内にある物体に、ある植物に、ある動物に、またはある人間に強制的に生まれ変わらせられるということにはならないでしょう。
その代りにあなた方は人々が完成した人間の世界と呼んでいる、あの祝福された世界(ロハ二)に帰還する事ができるでしょう。
(注:ロハ二の力を感じ取るには、その人がすでにロハ二 レベルに到達している事が前提となります。)

March3月28日, 1960 - Bapak
すべてがきれいで良ければその場合のみ、私たちはロハニ精神(ロハニ スピリット)を見つけることができます。
その場合のみこの精神が私たちの内部感覚に現れ、私たちがまだこの世にいる間に、我々は実際に私たちの人生がどのようであるのか、この世界についてだけでなく、死後に私たちの人生がどのようになるのかを体験することができます。

だから、一般的な人々の場合、あなた方の様に、まだ清潔ではなく、依然として欲望、感情心、思考心によって非常に支配されている場合は、ロハニの力を受け取り、感じることは本当に非常に難しい。

あなたがまだ低次の諸力、すなわち物質的、植物的、動物的、身体的な人間の力の影響を受けている限り、あなたが死ぬときにあなたは上ることができなくなります。
あなたが死ぬと、あなたが上ることは不可能です。
あなたはまだここに戻らなければなりません。

そしてここに戻ってきたら、あなたが人間として戻ってくることは確かではありません。
たとえばあなたは物質的な物体、植物、動物として戻ってくるかもしれません。

だからこそ、ここ(カルカッタ:インド)や他の場所で、動物は特別な扱いを受け、聖なるものとみなされます。
登ることができず、この地球に戻って動物の体に入った人の精神によって動物が占領された可能性があるからです。
これは通常、生まれ変わりと呼ばれるものです。

多くの人がいます 。
バパは彼らを非難しているわけではありませんが、まだ石を崇拝する人がたくさんいます。
彼らは自分の想像力で石を描き、それらのことを考え、自分たちよりも高いと考えます。
それで彼らは石を礼拝する。 
それはそれらの(崇拝対象となっている石の)祝福、恵み、恩恵、祈りを求めることを意味します。

これはなぜですか?
登ることができない人が石の中、物質的な物の中に戻ってきたことが本当に起こったからです。
その石にはある種の力があります。
しかし誰が石を強力にするのですか?
かなり単純に(言えば)、人々自身です。
特に偶像(石や金属、木材でできた聖なる者の像)の場合。
毎晩あなたはそれの前に自分自身を伏せ、花と香を置く。
毎晩あなたが眠りにつく前に、あなたはこれらのことを行い、結局それはあなた自身よりも強力になります。
・・・・・
それが、宗教において、神が使徒たちに、人々がそのように行動すべきではないという指示を授けた理由です。
彼らは人間としての自分自身のことにもっと注意を払うべきだということです。
人間の生死は自分の体の中にあります。

だから、あなたの体を外側から内側に、内側から外側に向けて見ないと、あなたの自己は、人間の目にも、神の力の前にも、何の価値もありません。
だから、私たちの内部感覚の観点からすれば、この人体はまったく役に立たないという事になります。

そして、この世界において、物質的なもの、植物、動物、そして人々自身の身体的な生命力よりも賢明で、より能力があり、より知性的なこのような完璧なからだ持つ神の創造物という人間存在を作り出した意味がなくなります。
これらが、なぜこの世界の一部の人々の生活が暗くなっているのかの理由、そしてなぜ彼らがこの世で生きて幸せになるかについて、彼らが失敗しているのかの理由です。

実際、人間は知性と良心を持つ存在としてこの世界に創造されてきましたが、これは私たちがより多くのことを成し遂げることができ、他の存在よりも崇高な性格を持つことができるということを意味します。
他の存在とは、すなわち、物質的な対象物、植物および動物の事です。


Q&Aの編集 1971 - Bapak
A Compilation 
生まれ変わりとラティハン

バパはあなたがラティハンで受け取ったような経験が実際に協会に存在することを確認します。
インドネシアや海外の多くの兄弟も同様の経験をしています。
これは我々のラティハンが非常に幅広く、すべてが自分の本性と合致することで満たすことができるからです。

あなたがすでに知っているように、ラティハンでは我々は、全能の神の力によって動かされます。
そしてラティハンの本質は、粗い部分から細かい部分へ、それからジワまで、全体を生き生きとさせることです。
それは最も低い位置から始めて最も高い位置に達します。
これは、私たちの体、粗い部分と微細な部分の両方が良好になることができるように、また私たちの欠点のために(本来あるべき位置から)陥落したジワdjiwaの為にも必要です。

私たちの生命の発展から、上記のように神から進んで、私たちは自動的に完成に向かって自分自身の変化と改善を体験します。

例えば、私たちがラティハンの中で受けたのは、以前は私たちが王、司祭、非常に豊かな人などとして住んでいたことがあれば、 あるいは以前は象、牛、蛇、虎、猿など動物としても生きていたと言う事です。
これらのすべては、私たちの内面的な性質が完璧な状態に改善できるように、きれいにされ、修理される必要があります。
そして最終的には私たちは過去の様に(昔生きた姿で)再び生きる必要はありません。

生まれ変わりについて教える宗教的な社会がありますが、生まれ変わりは実際には段階に過ぎません。
なぜなら、それは言われているように、もし人が美徳の段階にまで達したなら、彼は全能の神によって必要とされない限り、人として再び生まれ変わらないでしょう。

このすべてから、転生の問題は協会のラティハンに存在するが、以下の違いがあることは明らかです。
協会での生まれ変わりは、人間の生命過程であり、人間の欲望ではなく、神の力の働きで行われます。
それで、私たちは自分自身で簡単に浄化と改善を体験することができます

これの証拠はすでにラティハンで与えられている。
(ラティハンの中で)多くの兄弟たちが司祭、富豪、有名な男、貧しい男性、愚かな男性などとして自分自身を表している。
そして野生動物であったり、飼い慣らされている動物として(自分自身を)表している人たちもごく少数ではありません。

これらはすべて霊的な経験であり、本当に浄化される必要があります。
そして最終的には完璧な状態に達することができます。
それはすべて私達が今受け取ったラティハンに関連して目撃するかもしれない生まれ変わりの主題に関するものです。

したがって、あなたがこの問題のあなたの経験を(他の人に)説明したいのであれば、そうして下さい。
但し、それらが経験のみで構成されていることが明らかにされている場合に限ります。


February2月3日, 1974 - Bapak
古代史では、化身(incarnated)と呼ばれるものがこれに似ています。
しかし協会では、化身は固定的な確実性ではありません。
いいえ。この化身は現実に存在する必要がある種類のものではありません。
したがって、化身の性質は落ちる可能性があり、上昇する可能性もあります。
何故ですか?
この種の化身は自分のカルマによって引き起こされるからです。

(他方で)ラティハンでは、それはカルマのためではなく、自分の欠点のためだと(主張します)。
(通常の状態では人は)人を覆っているもの(ナフスnafsu)から分離して受け取り、感じることは決してできません。

October,10月16日 1977 - Bapak
たとえば、ブッダ
仏教では天国に行く人の事は誰も聞いていません。
あなたはブッダが天国に行くという事は聞きません。
仏教で経験していることは、あなたがこの世界に再び帰ってくることです。(注1)
これはまた、生まれ変わりとも呼ばれるものです。

したがって、アンワスと感情心と思考心と自分自身の力を使いたい人が達成したことは、常にこの世界に限られていることは明らかです。(注2)

しかし、アンワルの子孫はまったく異なっています。(注2)
なぜなら、彼らは全能の神の意志によって本当に天国に行くことができたからです。
そして天は想像上のものではなく、彼らが体験できる本当の天国でした。

例えば、イエス・キリストです。
3日後に十字架につけられた時、彼は大きな輝きと大きな光を経験しました。
これには誰もが見ることができる出来事が伴いました。 
地球が揺れ、激しい嵐が起きたのです。

October 20, 1977 - Bapak
神を礼拝する際に彼らの感情心と思考心を使って得たものは本物ではなく真実ではありませんが、逆にそれは人間の内部自我に損害を与え、人間は悪魔の世界に失われます。
そしてそれは物質的な生命力の世界です。

これはそういうことなので、兄弟姉妹の皆さん、バパはあなた方にそのような影響が及ばないようにあなた方に思い出させるだけです。
これらは物質的な影響、物質的な力の影響です。

それが仏教徒が生まれ変わることを望む理由です。 
彼らはまだこの世界に戻ることを望み、そうして彼らは、彼らが望むすべてを持っている人のような、豊かな人のような、権力を持つ優れた人々として戻ってくることができます。(注3)

11月12日 1977- Bapak
インドでも、アンワスの道は行きわたっています。
その道を進む人々は、 善い人生を送り、苦行を実行し、この世において厳しい自己否定を企て、それによって、「ミカ(Mika)」すなわち死後「この世を離れる」ことができるような人になれと他の人々に勧めています。(注4)
しかし、彼らにとって、 「この世を離れる」とは、死後に再びこの世に帰って来る立場になり、今度はどんな転生をするかを選べるようになるという意味です。
ですから、 おそらく、彼らは王様や金持ち、または大統領として戻って来る道を選ぶことでしょう。 (注4) 

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注1
仏陀は天国にはいかなかったかもしれませんが、転生はしませんでした。
輪廻からの解脱者としてmokṣa(モークシャ)あるいはニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)に上ったと言われています。<--リンク

そうしてこれが良く知られているように、仏教の目指す所であります。
仏教ではバパが言うように「良い暮らしをするために現世に戻るのが目的」とは言っていない様です。

注2
アンワス、アンワル、サン ヒャン シスSang Hyang Sisについてはこちらの記事を参照ねがいます。<--リンク

注3
仏教ではこの世を「苦」とみます。
そうして、この世からの離脱、輪廻転生からの離脱を希望するのです。<--リンク

そうであればどのような理由をもってバパは「仏教徒は現世に戻りたがる」と言うのでありましょう?
そのような主張をするバパについては理解に苦しむものであります。

注4
ミカ(Mika)については探しましたが、分かりませんでした。
現時点では詳細が不明なコトバです。

加えて「インドでも、アンワスの道は行きわたっています。」というのがヒンドゥー教の事をさすのであれば、「良い暮らしをする為に現世に戻りたがる」という指摘は誤解でありましょう。
ヒンドゥー教の生まれ変わりについてのスタンスはこちらの記事を参照願います。<--リンク

その記事にあるように『輪廻転生からの解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放される』のが目的である事が分かります。

 

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

ジワ(jiwa),ジーヴァ (jīva)の論

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

ジワ(jiwa),ジーヴァ(jīva)<--リンク

以下、文頭の部分ですが、追記となります。 

まずはジワ(Jiwa)というコトバから始めましょう。

ジワ(Jiwa)というコトバは、 サンスクリット語の jivás( Sanskrit : जीव , jīva)に由来し、語源は「息を吐く」。 <--リンク

それはラテン語のvivusと同じインドヨーロッパ語のルートを持ち、「生きている」という意味です。

ヒンドゥー教ジャイナ教では、 ジバ ( サンスクリット語 :जीव 、 jīva 、別のスペル Jiwa、 ヒンディー語 : जीव 、 jīv 、別のスペル jeev )は生き物であり、または生命力を吹き込まれたどんな存在でもよい。


ジャイナ教のジバ jivaの概念は、ヒンドゥー教アートマンatmanと似ています。

しかし、いくつかのヒンドゥー教の伝統は、ジバ jivaを個々の自己と見なし、アートマンatmanはすべての生き物に存在する普遍的な不変の自己であり、そしてアートマンatmanの存在は形而上学的なブラフマンBrahmanの現れであるとして、2つの概念(ジバ jivaとアートマンatman)を区別します。 

ジャイナ教では、 ジバ jivaは物理的な死では死ぬことがない、生物(人間、動物、魚、植物など)の不滅の本質または魂です。

そして、アジバ(Ajiva )の概念は、「魂ではない」ことを意味し、物質(身体を含む)、時間、空間、非運動および動きを表します。

ジャイナ教では、 ジバjivaはサムサリ samsari (世俗的、生まれ変わりのサイクルで捉えられる)か、またはムクタmukta(解放された)のいずれかとなります。


ジャイナ教の宇宙論によれば、 jīvaまたは魂は感覚の原則であり、宇宙の一部を形成する基本物質の一つである。 <--リンク

そしてジャイナ教は、ジバ jīva(魂)とajiva ( 非魂 )と呼ばれる2つの独立した、永続的な、共存する未創造(作られたものではない)というカテゴリーに宇宙を分けます。

従ってジャイナ教のこの基本的前提は、この教えを二元主義の哲学にする。

ジャイナ教によれば、ジバ jīvaは、 カルマkarmaのプロセス、 転生 、および転生からの解放のプロセスがどのように機能するか(を説明するの)に必要不可欠な部分である。 


さて、南インドからの貿易は、約4世紀頃にヒンズー教を(ジャワに)もたらしました。<--リンク

それ以降、イスラムがジャワにもたらされるまでのおよそ1000年に渡ってヒンズー教と仏教がジャワで受け入れられていました。

そうでありますから、ヒンドゥー教の伝来に伴って「ヴェーダーンタ学派の教え」->「個々の魂:自己( Atman / Jivatman )」という概念が伝わったものと思われます。

そうして、このストーリーが一番可能性が高そうなのですが、JivatmanではなくJiva-->Jiwaとしてインドネシア語、ジャワ語に吸収されと思われます。

但しバリ・ヒンドゥー教ではJivatmanーー>Jiwatmanとして現在でも使われている模様です。<--リンク
(追記終了 2017年6月25日)
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以下、これまで記述していた内容です。

以下、インドネシアWikiのJiwaのページから引用<--リンク

Jiwa atau Jiva berasal dari bahasa Sanskerta yang artinya "benih kehidupan".
魂(Jiwa)や魂(ジヴァ Jiva:Jiwaの別スペル)は「生命の種」を意味するサンスクリット語から来ています。

Dalam berbagai agama dan filsafat , jiwa adalah bagian yang bukan jasmaniah (immaterial) dari seseorang.
様々な宗教や哲学では、魂は人の物理的ではない(物質的ではない)部分です。

Biasanya jiwa dipercaya mencakup pikiran dan kepribadian dan sinonim dengan roh, akal, atau awak diri. [1]
通常、魂( jiwa)が心(pikiran)と人格( kepribadian)を包含することを信じ、精神( roh)、心(akal)、または自分自身(awak diri)と同義です。 [1]

Di dalam teologi , jiwa dipercaya hidup terus setelah seseorang meninggal, dan sebagian agama mengajarkan bahwa Tuhan adalah pencipta jiwa.
神学では、魂は、誰かが死んだ後に生きることを信じて、ほとんどの宗教は、神が魂の作成者であることを教示しています。

Di beberapa budaya, benda-benda mati dikatakan memiliki jiwa, kepercayaan ini disebut animisme . [2]
いくつかの文化では、無生物は、この信念はアニミズムと呼ばれますが、魂を持っていると言われています。 [2]

Penggunaan istilah jiwa dan roh seringkali sama, meskipun kata yang pertama lebih sering berhubungan dengan keduniaan dibandingkan kata yang kedua. [3]
魂(Jiwa)と精神(Roh)という言葉の使用は、しばしば同じですが、最初の言葉は2番目の言葉に比べて日常と関連することが多いです。 [3]

(jiwaとrohはあまり厳密に区別されずに使われている、、、ような。:訳注)

Jiwa dan psyche bisa juga digunakan secara sinonimous, meskipun psyche lebih berkonotasi fisik, sedangkan jiwa berhubungan dekat dengan metafisik dan agama . [4]
魂(Jiwa)と精神(psyche)はまた同じ様に使用することができますが、精神はより物理的な意味合いですが、魂は形而上学と宗教に密接に関連しています。 [4]

Sedangkan menurut Kamus Besar Bahasa Indonesia , kata jiwa memiliki arti roh manusia (yang ada di di tubuh dan menyebabkan seseorang hidup atau nyawa.
一方、インドネシアの辞書によると、「魂」(Jiwa)という言葉は、人間(manusia)の精神(roh)(身体にあり、人の人生(nyawa)や生命(hidup)を引き起こす)を意味します。

Jiwa juga diartikan sebagai seluruh kehidupan batin manusia (yang terjadi dari perasaan, pikiran, angan-angan, dan sebagainya). [5]
魂(Jiwa)はまた、人間の内面の生活(感情、思考、想像などで起こる)全体として解釈されます。 [5]

Jiwa manusia, sebenarnya berbeda dengan jiwa makhluk yang lain seperti binatang, pohon, dan sebagainya.
人間の魂は、このようなように、動物、植物(木)などの他の生き物の魂とは、実際に異なっています。

(Jiwaは「生命の種」ですから、動物、植物を問わず生命のあるものはこれを持つ、、、というのが大前提の話ですね。:訳注)

Jiwa manusia bagaikan alam semesta, atau alam semesta itu sendiri, yang tersembunyi di dalam tubuh manusia dan terus bergerak dan berotasi.
人間の魂(Jiwa)は、宇宙のようなものであり、宇宙そのものであり、人体に隠されて動いて回転し続けます。


PS
ご参考までに・・・

生まれ変わり<--リンク

・精神の2つの面 エゴ、ジーヴァ、アートマン、ブラフマンの関係<--リンク

PS
バパの言われるジワとは「成長して展開していかなくてはならないもの」の様です。

そしてそれは我々には完成した形では与えられません。

ある意味この世の経験を通じて成長していくものの様です。

しかしながら、まずは眠っているジワをオープンで起こさなくてはなりません。

そうして、その後も継続的にラティハンを実習することでジワの覚醒状態を保っていなくてはならない様です。

そうしないとこの世の経験はジワには伝わりません。

そうしてジワの成長も起こらないようです。

さてそういうわけで、ある意味ジワにとっては「この世は夢のようなもの」なのかもしれませんね。

PS
以下、ジワについてのバパのトークです。<--リンク

(2月25日1963 バパ)
あなたが生まれる前に、あなたの体が人間として形成される前に、あなたの存在が何らかの内容を持つ前に、あなたの魂(ジワ)がそこにありました。
それが中に存在した最初のものです。
あなたの魂(ジワ)があなたの外形より前に来ていたことは明らかです。
あなたの人間としての性質やあなたの「人間の種子」はまだ水に似ていますが、魂はすでにそこにありました。
・・・・・
だから、魂は人間の生活に必要なすべてを持っています。
例えば、それはこの地球上の人間の外的な生活の中で起こっているすべてを聞くこと、見ること、嗅ぐこと、感じること、理解することができます。
さらに、いったん魂が体の形 - 外形 - によって覆われると、これらの機能の力と範囲は限られたものになります。(注6)

いったん魂がそこにあり、「人間の種」となるものに付随するようになると、魂の覆いまたは容器となったこの実体が徐々に発達する。
その発展は生まれてくる時まで続く。
つまり、9ヶ月間です。
そして、それが生まれたとき、人間 - あなた方ひとり一人 - は(注:外観上は)完全な人間(の姿)です。

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク


 

雑記帳23・アブラハムの宗教に従う人たち

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

イスラムやクリスチャン、そうしてユダヤ教などのアブラハムの宗教に従う人たちがラティハンを修しています。

(ラティハンを修するイスラムの多くはインドネシア人で、クリスチャンは欧州と南北アメリカ大陸各国とオーストラリア、ニュージーランド、そうしてユダヤ教イスラエルとなります。)

バパがイスラムでしたから上記のような方たちはバパのトークの多くの部分に共感をもてたものと思われます。

そうして、バパもそれをよしとされたようです。


さて、上記のような信仰を持っている方たちは「唯一の神を信じなさい」という要求に対しては当然ながら、「わが意を得たり」と反応したのであります。

自分たちが従ってきた宗教はバパによっても認められたと感じたでありましょう。

そうしてバパも「今まで従ってきた宗教にこれからも従って行きなさい」といわれましたから。

ラティハンを受けるようになっても、従来の信仰には何の影響もなかったものと思われます。

そうしてバパがいう「ラティハンは神への礼拝である」というコトバは心地よく彼らの耳には聞こえたでありましょう。

従来通りの自分の信仰をもちながら、従来通りの宗教が教える礼拝を実践しながら、その上にさらにラティハンという「新しい神の礼拝方法」も実行できる、と言うのは何と素晴らしいことであるか!

そのように感じてもおかしくはありません。


さてそれで、ラティハンが到達すべきステージ、ロハニ、あるいは理解のステージにはどれくらいの方が到達できたのでありましょうか?

ラティハンというものはそれ自体で、それぞれの人が進むべき道を示してくれるものであります。

そうして人は其の道を歩くことによってのみ、内部が成長し、自分のジワを認識できるようになるのであります。

そのようにして成長してゆく時に、あるところまではそれまで自分が持っていた宗教はシェルターのようにその人を守ってくれますが、あるところからはそのように「外部にある教え」の頼るのではなく、内部から来る導きに従う必要が出てきます。

そうしてそのように内部から来る導きに従う事ができなければ、ラティハンの進歩というものはそこで足踏み状態になるでありましょう。

そうでありますから単に「ラティハンは神への礼拝である」というコトバを喜び、そうして自分の宗教を信仰している、というステージで満足してしまっては、それではラティハンがもたらしてくれる成長を実現することは、実感することはできないものと思われます。


さて、この話のポイントはなんでしょうか?

「ある特定の宗教のよき信者さんである、と言う態度と、ラティハンでロハニのステージに、あるいは理解というステージに到達する、ということははたして両立する事なのか?」という問いかけであります。

個人的な見解ではありますが、そこには意識して乗り越えなくてはならない壁が存在している様に見えるのです。

単純に素直にある宗教の教えを守って生活しラティハンを続けている、というだけでは、それは悪くはないのですが十分ではないと思われるのですよ。

PS
いくら慣れ親しんだ服であってもそれはやはり既製服であります。

それはけっしてオーダーメイドの服を超える事はないのであります。

しかしながら、「いや俺はこの服が好きなんだ」というならば仕方ありません。

その人は其の服を着続けることでありましょう。

PS
さてそれでバパのトークは、バパが与えてくれたガイドラインは既製服でしょうか?

それともオーダーメイドの服ですか?

まあその判断は読者の方々にお任せすることにいたしましょう。

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。


PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

雑記帳14・宗教的寛容性

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

世界は宗教的寛容性の欠如の為に苦しんでいる様にみえる。

彼らは我々とは違う、というものだ。

双方がお互いの相違点を上げて差別し、非難しあう。

そこからは何も生まれないし、その先にあるのは暴力沙汰だけである。


さて、他方でラティハンはそのような差別やら非難やら相違点やらという世界とは別物である。

そこにあるのはただ我々は同じものである、という感覚である。

そうしてそこに、ラティハンが人類の中に広まる事による、人類の平和共存の可能性が見えているのであります。


ところで、ラティハンがそうであるのに、何故にラティハンの入り口で、ある特定の人たちにとって困難になるような状況を設定するのか?

宗教的にはとても「寛容である」といえる状況ではない様にするのか?

それはさかのぼってみれば、本来は無色透明なラティハンというものにイスラムの、あるいはアブラハムの宗教の匂いや影をつけてしまったバパのトークゆえの様にみえる。

バパは熱心なイスラムであったがゆえにそのことをあまり責めるつもりはない。

しかしながら、素直にいわせていただくならば、「バパの事実上、宗教的には不寛容に見える態度がそのまま現在の協会に引き継がれている」様にみえる。

そうしてこの事は、「ラティハンが目指すものは、ラティハンが表現しているものは、宗教的な寛容性である」という事実とは明らかに矛盾しているのであります。

PS
オープンの前にイスラム流のあからさまな信仰告白をしなくてはならない、というのはこれはバパが導入したバパ流の「けじめのつけ方」でありましょう。

「今からは誠実にラティハンを実習していきます。」という一つの態度表明かと思われます。

しかしながらいかんせん、インドネシアでは誰にとっても、何の抵抗もなく出来る事が、この日本では人口の1%以下の人にしかそうはなりません。

そのような信仰告白は我々日本人にとっては本当になじみがない作法なのであります。


そうして、その信仰告白のコトバに特別な力があって、それが魔法の呪文のように作用してラティハンが始まる訳ではないのです。

もしそうならば、そのコトバはオープンの必要条件になりますが、そうではない事例がたしかに見られています。

そうであれば、そのコトバをいう事は必要条件ではなく、せいぜいがバパ流の「望ましい条件」という所が相当であると思われます。

PS
さてそれで、宗教的な寛容ということは、日本人にとっては朝飯前、大得意とする所であるはずなのですがねえ。

何故かみなさん、ガッチガチであります。

PS
↓関連記事です。
雑記帳19・人と人とを結びつけるもの<--リンク

PS
バパが生まれたインドネシアという国、そしてその当時の政治的な、宗教的な状況ゆえにバパがあまり宗教的には寛容でないようにふるまわざるを得なかった、そのような外的な状況は確かにあったかと思われます。

それゆえに、バパがあまり寛容でなかったという事に対してはそれを責める、というものではありません。

しかしながら、我々が体験してきているラティハンの広さ、その一体感にてらしてみれば、何も我々が単に「バパがそうであったから」という理由で不寛容な態度を持ち続ける必要性はどこにもないように思われます。

そうしてラティハンも「宗教的には寛容である」という態度を支持している様に見えるのでありました。

PS
・エジプト300人超死亡テロ事件 礼拝中のイスラム教徒標的に衝撃<--リンク

これはもうほとんど「唯一自分たちの理解のみが正しいと考えている教条主義者たち」の末期的症状であります。


PS
・イスラム教徒墓難民 九州土葬用施設なく 偏見や抵抗感…新設に壁<--リンク

この記事からわかる様に、我々日本人のもっている「宗教的寛容性」というのは「あまり宗教の事を意識しない、という寛容性」の様です。

つまり「あなたが何を信仰されていようがそれはあなたの自由だ。しかし、ニッポンの常識やら生活習慣には従ってもらう。」という程度のものです。

従って我々にはもうなじみが無くなってしまった「土葬」という風習には、そのような行為には抵抗感を持つのです。

それでも「宗教が違う」といって暴力沙汰になるよりは随分と「マシ」とは思われます。

まあしかしそれでもかつては我らが国も「土葬の国」でありました。

それからすればこれは「慣れの問題」とも言えそうであります。

PS
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バパのカルマ論/下

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク
ベネット(John G. Bennett)さんグルジェフの高弟としてグルジェフの体系での修練にいそしんでおられました。<--リンク

そうしてそこにラティハンがもたらされました。<--リンク

当初はベネットさん、ラティハンに満足されていた様子でしたが、次第に飽き足らなくなり、グルジェフの体系とラティハンとを共用する事を始めます。

要するに「グルジェフの体系を能動的に用いることによりラティハンの進歩を加速することができる」と考えた訳であります。

しかしながら結果はベネットさんの予想に反して「グルジェフの体系はラティハンの進歩に寄与しなかった」模様であります。

そうして、バパによれば「ラティハンの進歩を早めることができるような、いかなる訓練体系も存在しない」のであります。

そのような状況下で我々にできる当面の事は「ラティハンが浄化したものを極力元に戻さない」という「受動的な立場の協力」しかありえません。<--リンク

そうしてプアサ(断食)であれプリハティンであれ、「ラティハンが許容する限度までしか」行えないのであります。

その限度を超えた場合は「ミックスmix」といわれている「ラティハンと他の修練体系を一緒に用いる事の間違い」として指摘される事になります。

ちなみにベネットさんの立場は「アダムが人間の完成形である」というものではなく、「宇宙を作り出した意思の下で霊的にも人間は順次進化していく存在である」というものの様でした。

それゆえにベネットさんの立場というのは上記のようなバパのスタンスとは方向が反対のものであったことになります。(そうしてそれは多分グルジェフからの影響もあったと思われます。)

PS
以下ご参考までに。
・獲得形質は遺伝する?<--リンク
・ミーム(人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報)<--リンク

PS
文明が発生し、社会が発展するのに従って我々の性格、個性、気質もまた変化してきたものと思われる。

たとえば農耕が主な社会では農耕にあった性格、気質を持つものが「すぐれたもの」として認められたでしょう。

そうなるとそのような気質、性格がその社会の中では選択圧となり、最終的にはDNAレベルまでの変化として固定されます。

同様に遊牧を生業とする社会ではその社会に適応した性格、個性が生き残ります。

こうして社会の在り方が人の性格や気質に影響をあたえ、そのなかのある部分はDNAによって固定されます。

そうやって社会が進んでいき、工業化、商業化、情報化、そうしてマネー化した現代社会では、人の持つ性格や気質が前の時代とは異なったものにになっているのは、ある意味「歴史の必然」でありましょう。

人類全体がそのようにして受けてきた影響、変化と言うものは明らかに我々が持っている「内部感覚」にもそれなりの影響を与えてきた事は明らかであります。

そういう部分まで含めての「内部感覚にたまった間違いのすべて」がラティハンでの浄化対象になっているものと思われます。

しかしながらそのような負債、「社会の変化に従って必然的に生じてくるような誤り」というものの責任を単に「両親の行動の誤りの結果である」としてしまう見方というのは、少々人間にとっては厳しすぎる判断基準の様に思われるのであります。

追伸
社会の進展に伴って生じる内部感覚の変化については6月6日1963年のリオデジャネイロ トークにも記述があります。

PS
さて仏教、あるいはヒンドゥー教、そうしてジャイナ教でもカルマによる輪廻(サンサーラ)、それも終わる事のない輪廻を説きます。

そうして、カルマによる輪廻という考え方の本質はなんでありましょうか?

それは「行動の選択ができる主体がいる。」ということであります。

そうでなければ、すべては事前に決定された、単なるお話の再現にしかなりません。

そうではなくて、「舞台の上の主人公の主体的な選択が可能である」、という世界構造でなければ「カルマによる輪廻」という構造は意味を持たないものになります。

さて、人はとりあえず主体的な選択はできそうです。

ところで動物は主体的な選択が可能なのでありましょうか?

動物に輪廻転生することもある、というカルマ論であるならば「YES」と答えるほかに選択はありません。

さて、本当に人間以外の動物に主体的な選択ができるのでしょうか?

このことは動物界を含んだ輪廻を想定している、カルマー輪廻論がもつ、大きな疑問点の一つであります。


ところでバパによりますれば「我々には自分自身の間違いによって動物力の世界に落ち込む可能性もある」とされています。

しかしながら、「動物力の世界に落ち込んだ我々の意識はその世界に適応したものになり、人間であった時の様な認識力や判断力を持たないであろう」とされています。

つまり「自主的に判断を行えるような自由意思は持たなくなる」というように理解されます。

このことをカルマー輪廻論に当てはめると、「動物はカルマを積まない、積めない」ということになります。

つまりそこで固定されていることになり、何らかの外部からの働きかけがない限りその状況はいつまでも継続されていくもの思われます。

さて、その外部からの働きかけというのはなんでありましょうか?

それが実のところ、このラティハンになるのでありました。

PS
バパによる「人の誕生の説明から見たカルマ論」

夫婦が子作りの行為によって子供をさずかる場合にいわゆる受精卵に魂(Jiwa)がやどると説明されています。

さてその場合に、その魂(Jiwa )はどこから来るのでしょうか?

一つの可能性は「転生すべき魂である」というものです。

バパは特定の条件下での魂(Jiwa)の転生を認めておられます。

もう一つの可能性は、「いまだ人と言う存在になったことがない魂(Jiwa)が供給される」というものです。

バパによれば、いずれにせよ「魂(Jiwa)というものは神の手作りのものであって、それは永遠のものである。」ということになります。


さて、人の形になる為には肉体とその人の魂(Jiwa)だけでは不足であります。

そこに追加される必要のあるものは、内部感覚と物質力から人間力に至る4つの諸力のパッケージです。

そうしてこの2種類のパッケージはどうやら両親から伝えられるものの様です。

両親から贈られる内部感覚がなければ人間としての存在になりえませんから、それは必要なのでありますが、その時に両親が犯したであろう間違い、さらにはその先の先祖が犯したであろう間違いの痕跡も引き継ぐ事になります。

こうしてバパがカルマと呼ぶものが親から子供に代々引き継がれてゆくことになる、そのように説明するのが「バパのカルマ論」となります。

ちなみに両親に供給される子供の魂(Jiwa)のレベルは通常は子供が持つ事になる内部感覚のレベルに適合したものになっている模様です。

それから両親から伝えられた4つの諸力のパッケージが内部感覚の中を還流することで、その子供の人生に必要となる4つのナフスが生まれる事になります。<--リンク

PS
個人が背負っているカルマ(間違い)の総量について

バパは7代までの先祖とはリンクがある、という主張をされます。
(何故に7世代なのか、バパは根拠を提示されませんが、俗に日本仏教では「7代たたる」とかいいますね)

両親からはじまってその先祖7世代、7世代目には128人(64夫婦)になります。

それを全て合計しますと両親までで254名となります。

さてそうしますと我々は254名が犯した間違いをすべて背負わないといけないのでしょうか?
(間違いの相続率が100%ですとそうなります。)


いやいや、そいつは少しむごすぎますね。

両親が犯した間違いの総量を2として、そのうちの半分の1が子供に引き継がれるとします。
(間違いの相続率を50%と仮定していることになります。)

そうしますと7世代合計でその間違いの総量は254、、、ではなく7になると思われます。

つまり各世代ごとの間違いの総量は2でそのうちの半分の1が子供に引き継がれるという事になります。

この考え方での計算結果詳細はまた後日にでも追記しておきます。

間違いの相続率を50%にしてもラティハンを始めるまでに我々が犯したであろう間違いの総量1に対して、身に覚えのない間違いが7はある、、、ということになりますので、さて恐るべきはカルマの蓄積であります。

追記
解けない謎!6代でも8代でもなく、なぜ7代なのか?
そうして、本州のみならず沖縄でも、加えてインドネシアのバパまでが「7代」という理由は何?

答え1<--リンク
人間が一度に感知することの出来る数の限界が七つだからです。
つまりその場合の七には「最たるもの」という意味があります。

ちなみにこの七を超えた数である八には「数えきれないほど多い」
という意味があります。

八百万の神、大江戸八百八町、八百屋、嘘八百
使われている八はそういう意味です。


大辞林 第三版の解説<--リンク
ねこをころせばしちだいたたる【猫を殺せば七代祟る】
猫は執念深い動物なので、殺すと子孫七代までも祟るという俗説。


祖霊<--リンク
家系と祖霊[編集]
祖先の霊から共同体の神へ
沖縄地方では7代で神になるとされていた

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク


ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク


バパのカルマ論/上

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「最初の人間はアダムである」という、これはアブラハムの宗教の体系の基礎であります。

そしてムスリムであるバパも当然ながらこの立場をとります。

そうしてイスラムは「人の原罪」を認めませんから、バパにとっては「完全な人」の象徴としては「アダム」ということになります。(7,10,1980)

さてそうではありますが、現在の我々の社会、人間のありようをみますればとても「我々は完全な人である」とはいえないありさまです。

そうなりますと、どこかで人は「堕落した」あるいは「劣化した」とするしかありません。

その原因は何か?

「それは人の間違った行動の結果である。」というのがバパの答えです。

そうしてそれをバパは「カルマ( karma)である」と呼ぶ場合もあります。(7,10,1980)


アダムが「完全な人」ならば、その行動も完全であって、カルマを積むことはなく、したがってアダムの子供たちも「完全な人」ではなかったのか?

そのような疑問は当然のことながら問われる事になります。

答えは「完全な人であっても、人間である事の制約はまぬがれない。」というものでありましょう。

つまり「カルマは積まれる。」という事になります。

そういう訳で、子孫が増えるに従って、代を重ねるにしたがって「間違いの総量は多くなり、それが子孫に順次伝えられていく」というのが「バパのカルマ論」となります。

この「間違いの総量」、あるいはカルマがまずはラティハンの浄化対象となります。

そうして、この「代々にわたって伝えられてきたものの大小が、多い少ないがラティハンの進歩の状況をも左右しているのだ」とも言われています。(たとえばスシラ ブディ ダルマ など)

これがきれいにならないと、言葉を変えますれば「アダムの状態」にもどらなといけません。

そのためにこの時代にラティハンが現れたのであります。(3,13,1965)、(6,18,1981)、(7,17,1981)


さて、「人が積むことになる間違い」というのは何であるのか、トークから引用しましょう。

「間違っている」とは、他の人々を傷つけたり、他の人々の自由を奪ったり、心の安らぎを奪ったり、などをすることを意味します。
あるいは、他の人に属するものを(自分のものとして)取りあげることです。(6,18,1981)

そのように行動しないことは、現代社会においては非常に難しいことになっています。

時代が進歩するにつけ、社会が複雑になるに従い、我々が自分の利益を優先する程度につれてこのように行動しないことはより一層難しくなるばかりであります。

さて、そうでありますれば、時代の進歩というのは「良くない事」なのでありましょうか?

時代は進歩せず、アダムが誕生して、そのまま「知恵の実」を食べずに、ただただ「イノセントでいた」方がよかったのでありましょうか?


それでは「今の様に宇宙が進展してきたという事実に意味はない」ということと同じでありましょう。

「ビッグバンは不要であった」と主張するようなものであります。

地球が誕生し、人が生まれ、そうして社会が発展することに、したことに意味がある、、、とするならば、ラティハンはただ単に「アダムの時代に帰れ」というものではありますまい。

そうではなくて、我々の社会がこのように発展した、その中にあってなおかつ「アダムのような内的状態である事」に意味があるのでありましょう。

それが「この時代に現れたラティハンの持つ意味」であると思われます。

追記:「人間の初源の状態は高貴でありそこに戻らなくてはならない」という考え方はジャワの伝統の中にも見いだせるものです。
これについては・Gumelaring Jagadの第1節を参照願います。<--リンク

PS
バパはイスラムでありながら転生を認めたり、カルマを認めたりしています。<--リンク

そして転生やカルマというのは極めて仏教的、ヒンドゥー教的な世界観であります。

これはやはり仏教やヒンドゥー教がまずはジャワを席巻し、そのあとでイスラムが広まって現在に至っているという歴史的な経緯によるものでありましょう。<--リンク

そうして「バパのイスラム」はそれほどに包容力が大きいという事ができそうです。<--リンク


ところで、バパが主張するような「親から子供に引き継がれるカルマ」という考え方はもともとの仏教やヒンドゥー教にあるカルマの考え方の中には無いようであります。

これは日本では俗説として「親の因果が子に報い」とも言われているものでありますが、それは誤解の様であります。<--リンク

本来のカルマというものは徹底して個人的なものであって、親のカルマと子供のカルマは独立した存在であるというものの様です。<--リンク


しかしながら、このカルマについてのバパの認識というものは一概に「間違っている」とは言えないと思われます。

その状況というのは、いわゆる遺伝学でいわれている「表現型=遺伝因子(DNA)+環境因子」というものと相似的です。

つまり現実に我々が抱え込んでいる「間違いの総量」というものは、カルマと言われるような「個人的な因果律によるもの」と、暮らしている国や社会、そうして両親が作る家庭環境などの「環境要因」の和になっていると思われるのです。

式で表せば「間違いの総量≒個人的な因果律によるもの+暮らしている環境要因」とまあ、こんな感じでしょうか。

そういう訳で、両親の影響というものは無視できるようなものでは無いことは明らかなのであります。


さてそうではありますがバパが主張している様な「生まれてくる子供は両親からの過ち(カルマ)を引き継いでいる」という考え方は一般的なイスラムの中にもない、という事には注意しておく必要があります。

イスラムでは「生まれてくる子供には何の罪、汚れもない」としているのであります。<--リンク

PS
通常は輪廻転生と対になって使われるカルマというコトバですが、バパがつかう「カルマ」ということばの中にはカルマによって必然的に引き起こされるような仏教、あるいはヒンドゥー教が想定しているような輪廻(サンサーラ)というものは含まれていない様です。(2,3,1974)<--リンク

しかしながらそのことばには「因果応報」という意味合いは含まれているのです。(3,17,1983)、(7,25,1977)

追記(9.21.2017)
上記(2,3,1974)トークの解釈にミスがありました。

基本的にバパは「全ての人は輪廻している」、つまりサンサーラは存在している、という認識の模様です。

但しその原因をバパはカルマとは呼ばずに「その人の間違い」と呼んでいます。

PS
ジャイナ教でのカルマの扱いは「非常に微細な物質であって霊魂に浸透して霊魂の本来の透明で純粋な性質を曇らせるとも考えられている。
カルマは一種の汚染であって、霊魂を様々な色(レーシュヤー leśyā)で汚染するとされる。」<--リンク

つまりはカルマとは「汚染」あるいは「汚れ」であるとしています。

他方でバパがいう所の「内部感覚(inner feeling)に積もり積もった間違いの総量」というのはそのような物質的なイメージではありません。<--リンク

それは当初はちゃんと整理整頓されていた広い場所が乱雑にものがちらかった状態になった、というイメージであります。

すこし固く言うと「エントロピーが増えた状態」ともいえます。

それは何か「汚れ」というものが外から持ち込まれた、、、というのではなく、前はきれいなパターンをしていたものが、ぐちゃぐちゃのパターンに変化してしまった、というようなものであります。


さて、この状態から元の「きれいに整頓された」、あるいは「きれいなパターン」に戻さないといけないのですが、これを人がやるのは無理であろう、、、とバパは言います。

なにせどこからどう手を入れて直していけばいいのか、目の前のものをどこに戻せばいいのか、皆目見当がつかない状態でありますれば。

とうてい人の手におえる代物ではありません。

いや、たとえば「これをこう直すのがよかろう」と人が直したつもりになっても、それは「修正」にはなっておらずかえって「改悪した」という結果になる事が予想できます。

まあそういうわけで、ここはラティハンにまかせるより他に手はないのであります。


そうしてラティハンの出番になるのですが、「ここをこう直しましたよ」と逐次の報告が上がってきます。

そのとき我々は「おおそうか、それでOKだ。」というのであれば、物事は速やかに進行していきます。

しかしながら「いいや、それではだめだ。気に入らない。」とナフス君がでしゃばるとそこでストップがかかりますね。

「これまでやってきたように行動するのが私のポリシーだ」という訳であります。

そして通常の日常行動は基本的に「ナフス君の管理下にある」のでありますから、ラティハンはそこまではでしゃばりません。

こうやってラティハンがせっかく修正したものを我々はまた元に戻すのでありました。

そうしてこの事を我々は「人間には自由意思がある」と表現するのであります。

その結果と言いますれば、結局のところラティハンを受けていようがいまいが、人は自分の認めたところ、意図したところまでにしか到達しない、到達できない、ということになるのであります。<--リンク


そしてカルマですか。

当然ながらそうして残念ながらそのような状況の下では、なかなか減少する、解消するという訳にはいかない様であります。

追伸
多くの人と人が「袖をすり合わせる」様にして暮らしているのが現代社会です。

そうして、そのような状況下では単なる思い違いによってでさえ簡単に社会全体がかかえる悪意、カルマの総量は増えてしまいます。

たとえばそのような例で、かつ身近に起こっているものを一つ紹介します。<--リンク

PS
以下(3,13,1965)トークから、カルマとその解消についての引用になります。
・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。

そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。

それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。

それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
 私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・

さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。

 

PS
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ラティハンを始める人、やめる人

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ラティハンを始める人がいれば、やめる人もいる。

引き留めてもなかなか無理な話で、その人なりに出した結論は変わらない。

一生懸命に「お誘い」しても、長続きする可能性は低い。

始めたりやめたり、こればっかりはその人の自由意思にまかされている。


私もオープンする時は「ああでもない、こうでもない」といろいろと悩んだもの。

それで、よくよく考えてオープンした人が、そのあともずっと続いているかというと
そうでもなかったりする。

はた目、かーるい気持ちでオープンしたような人が、やめることなく
続いていたりする。


こればかりは相性の問題で、なかなかどうこうすることはできにくい。

その時のそれぞれの人の状況が、それに輪をかけてくる。

だから、10年20年続いている人は、本当に感謝すべきことなのである。


ラティハンにしろ何にしろ、せっかく生まれてきた世の中ですから、
「物は試し」の気持ちでやってみることは大切だと思う。

考えてばかりいても何も変わらないし。

やってみてだめならほかをあたる、霊的な道だろうと世の中のことだろうと
そうやってしか人間、前には進めないようだ。


たいがいの事は、それなりに考えて「あぶないかな」と思いつつやることは
そんなにひどいことにはならない。

かえって、「これなら大丈夫。」と思い込んだ道の方が危なかったりする。


それにしても、「どれかの道を選ぶ」というのは大変なことだとは思いますよ。

それでも「どれかの道」を選んで歩いていかないと、前にはすすみません。

人生とはやっかいなものですね。

PS
周りのラティハンのヘビーユーザーを見回してみると、やっぱりバパを直接知っている人が多い。

そうしてそれはまあ当然と言えば当然のこと。

あれだけすごい方にはそうそうお目にかかれるものではない。

そうしてまた「そうか、ラティハンを続ければあんな風になれるのか」などと誤解して、熱心にラティハンにいそしむ。

まあそうやって、なんだかんだで続いてきている様子です。


かたやバパを知らない人は、「さて、ラティハンを続けるとどんな風になるのかな」などと考えて先輩方を観察します。

そうすると、まったくいろいろな人がいて、それぞれが自分独自の思いをもって生きておられる様子。

まあ、おおざっぱにいえば皆さん、基本はお人好しでそれ以上でもそれ以下でもない、まあ普通の人にしか見えません。


さてそうであれば意見の食い違いやら何やらでもめることもあります。

そんな様子ですから、まったく普通の人のあつまり、町内会のあつまりと変わりはありません。

そうであれば、気の合う先輩もいるでしょうし、合わない方も出てきます。

まあそういうわけで、周りの先輩諸氏からはどうにもラティハンの効果、あるいは恩恵のようなものが感じられません。

そうしてそのような状況を新たに参加した新人さんは自分の価値基準をもって「ああ、これは大したことがないものだ」と判断します。

そうやって先輩方に対する失望の中で多くの人がラティハンから離れていった様に思われます。


そうやって離れていってしまった方々を批判するつもりはありません。

実際のところ、個人的にはそのような経験もしました。

それでは何故いままでラティハンを続けられたのでしょうか?

実際のところ、パパを知っていた、と言う事は大きな事であったでしょう。

バパを通じてですが、ラティハンと言うものが諸先輩方が表現しているレベルで終わるものではない、という確信がありました。

そうであれば、道の途上にある我々が理想的なありようからいくら離れていたとしても、まあその事で多少は失望はしますが、それでラティハンをあきらめる、見切りをつけると言う事はなかったのであります。(2017。6.24)

PS
ラティハンの魅力は何と言ってもその自由度の高さにあります。

宗教のように、特別に信じなければならない様な教義や信条、特定の儀式もありません。

それぞれの人がそれぞれの性質に従って受けるラティハンがそこにあるだけであります。


特定の宗教をお持ちの方はそれを信条にして生活されればよく、宗教ではなく科学、あるいは思想、一般的な常識などの内から好きなものを選んで自分の信条にされればよいのであります。

つまり現状のありようから何かを強制的に変える必要などはなくラティハンを始められるのであります。

この自由度の高さは特筆すべきものでありましょう。

霊的な道を名乗る他の道にはないものの様に思われます。


「それでは何も変わらず、ラティハンを受ける意味がないのでは?」といわれますか。

そうですね、ラティハンのスタートというものはそのようなものです。

しかしながらあなたがラティハンを継続するにつれて「ここはこうした方が良かろう」という修正項目があなたのラティハンから出てきます。

そのあたりがまずは分かれ目でしょうか。

「いいや、そうはいうものの、そこは変えれない」とあなたが言うならば、それこそ何も変わりません。

「そうだねえ、それでは変える努力をしましょう」ということになって、ようやくあなたのラティハンは次のステップに進む事が可能になるのでありました。


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