ラティハン日記・掲示板

ラティハンに関係したいろいろな事の掲示板です。There are many varieties of bulletin boards related to Latihan.

ラティハンを始める人、やめる人

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ラティハンを始める人がいれば、やめる人もいる。

引き留めてもなかなか無理な話で、その人なりに出した結論は変わらない。

一生懸命に「お誘い」しても、長続きする可能性は低い。

始めたりやめたり、こればっかりはその人の自由意思にまかされている。


私もオープンする時は「ああでもない、こうでもない」といろいろと悩んだもの。

それで、よくよく考えてオープンした人が、そのあともずっと続いているかというと
そうでもなかったりする。

はた目、かーるい気持ちでオープンしたような人が、やめることなく
続いていたりする。


こればかりは相性の問題で、なかなかどうこうすることはできにくい。

その時のそれぞれの人の状況が、それに輪をかけてくる。

だから、10年20年続いている人は、本当に感謝すべきことなのである。


ラティハンにしろ何にしろ、せっかく生まれてきた世の中ですから、
「物は試し」の気持ちでやってみることは大切だと思う。

考えてばかりいても何も変わらないし。

やってみてだめならほかをあたる、霊的な道だろうと世の中のことだろうと
そうやってしか人間、前には進めないようだ。


たいがいの事は、それなりに考えて「あぶないかな」と思いつつやることは
そんなにひどいことにはならない。

かえって、「これなら大丈夫。」と思い込んだ道の方が危なかったりする。


それにしても、「どれかの道を選ぶ」というのは大変なことだとは思いますよ。

それでも「どれかの道」を選んで歩いていかないと、前にはすすみません。

人生とはやっかいなものですね。

PS
周りのラティハンのヘビーユーザーを見回してみると、やっぱりバパを直接知っている人が多い。

そうしてそれはまあ当然と言えば当然のこと。

あれだけすごい方にはそうそうお目にかかれるものではない。

そうしてまた「そうか、ラティハンを続ければあんな風になれるのか」などと誤解して、熱心にラティハンにいそしむ。

まあそうやって、なんだかんだで続いてきている様子です。


かたやバパを知らない人は、「さて、ラティハンを続けるとどんな風になるのかな」などと考えて先輩方を観察します。

そうすると、まったくいろいろな人がいて、それぞれが自分独自の思いをもって生きておられる様子。

まあ、おおざっぱにいえば皆さん、基本はお人好しでそれ以上でもそれ以下でもない、まあ普通の人にしか見えません。


さてそうであれば意見の食い違いやら何やらでもめることもあります。

そんな様子ですから、まったく普通の人のあつまり、町内会のあつまりと変わりはありません。

そうであれば、気の合う先輩もいるでしょうし、合わない方も出てきます。

まあそういうわけで、周りの先輩諸氏からはどうにもラティハンの効果、あるいは恩恵のようなものが感じられません。

そうしてそのような状況を新たに参加した新人さんは自分の価値基準をもって「ああ、これは大したことがないものだ」と判断します。

そうやって先輩方に対する失望の中で多くの人がラティハンから離れていった様に思われます。


そうやって離れていってしまった方々を批判するつもりはありません。

実際のところ、個人的にはそのような経験もしました。

それでは何故いままでラティハンを続けられたのでしょうか?

実際のところ、パパを知っていた、と言う事は大きな事であったでしょう。

バパを通じてですが、ラティハンと言うものが諸先輩方が表現しているレベルで終わるものではない、という確信がありました。

そうであれば、道の途上にある我々が理想的なありようからいくら離れていたとしても、まあその事で多少は失望はしますが、それでラティハンをあきらめる、見切りをつけると言う事はなかったのであります。(2017。6.24)

PS
ラティハンの魅力は何と言ってもその自由度の高さにあります。

宗教のように、特別に信じなければならない様な教義や信条、特定の儀式もありません。

それぞれの人がそれぞれの性質に従って受けるラティハンがそこにあるだけであります。


特定の宗教をお持ちの方はそれを信条にして生活されればよく、宗教ではなく科学、あるいは思想、一般的な常識などの内から好きなものを選んで自分の信条にされればよいのであります。

つまり現状のありようから何かを強制的に変える必要などはなくラティハンを始められるのであります。

この自由度の高さは特筆すべきものでありましょう。

霊的な道を名乗る他の道にはないものの様に思われます。


「それでは何も変わらず、ラティハンを受ける意味がないのでは?」といわれますか。

そうですね、ラティハンのスタートというものはそのようなものです。

しかしながらあなたがラティハンを継続するにつれて「ここはこうした方が良かろう」という修正項目があなたのラティハンから出てきます。

そのあたりがまずは分かれ目でしょうか。

「いいや、そうはいうものの、そこは変えれない」とあなたが言うならば、それこそ何も変わりません。

「そうだねえ、それでは変える努力をしましょう」ということになって、ようやくあなたのラティハンは次のステップに進む事が可能になるのでありました。


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スシラ ブディ ダルマ・3章 植物力の性質と働き

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さて次は植物力ですが、ここでの記述も1987年発行の「スシラ ブディ ダルマ」に準拠となります。

73~97ページ・・・植物力の説明、対象となる植物的な存在と食べる事によりそれらが人に与える影響について

         ・・・並行してラティハンがどのように進行、発展していくかについての記述

以下、順不同にて植物力の章で記述されている項目を並べておきます。

体を作る働き
食事の重要性と霊的な意味
植物にとっての「食べられることの意味」
植物力が人に与える影響
稲(お米)、野菜、ココ椰子の実、筍
村人の生活と運命
都会人の生活と運命
成功した人のまねをする人の末路
仕事の意味
同僚をねたむ者
ラティハンによる修正
死後に起こること
思考力は内部感覚に従うべき
物語の内容の真偽を知ること


植物力の説明で、対象となる植物的な存在とそれらを食べる事によりそれらが人に与える影響についてのより詳細な内容については以下の記事を参照願います。
植物力の説明(1)<--リンク
植物力の説明(2)<--リンク


バパはスシラ ブディ ダルマを発表した後も多くのトークで植物力の性質とその働きについて語っています。

以下はそのようなトークから関連していると思われる部分の引用です。

そういう訳で以下のものはスシラ ブディ ダルマの植物力の章を補完するものとなります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

6章アスマランダーラ30~31節 1952年
それゆえ子供たちよ、植物たちの状況は前に述べた物質力の状況と似ている。
違っているのは、物質力は人間の思考のみに影響を与えるのに対して、植物のエッセンス(注:これが植物力の実体)の持つ力は人間の全身の感覚に影響を与えるという点である。
この二つの力はともに人間と密接な結び付きを持ち、人間とまじりあうが、しかしながら人間にとっては単に付随的な力にすぎない。
(注:そのような状況にしなくてはならない。それらの力に支配権を与えるとしたら、それは人間の側の間違いである。)

7月8日1970 - Bapak
第二に、野菜の生命力です。
人間の生活の中に参加している植物の生命力が人間自身の中で働く場合は、それはaluamahと呼ばれるnafsuとして現れます。
・・・・・
これは野菜の生命力に適用され、それがなければ人間がこの世に生きることはできません。
長期的には、肉と血、骨と骨髄、筋肉と腱、そして残りのすべてが植物によって維持されます。
もし野菜や穀物などを食べることがなかったとしたら、あなたは確かにあなたの現在の身体形状を持っていないでしょう。
そして多分あなたの形は影のようなものであったことでしょう。

12月5日 1970 - Bapak
野菜の生命力から生まれるナフスnafsuはアルアマaluamahである。
・・・
あなたがナフス・アルアマnafsu aluamahなしで住んでいたなら、あるいはそれがあなたを離れたならば、あなたは植物や野菜について何も知らない事になります。
他方であなたは地上に住むために植物(野菜や果物)を食べる必要があります。

11月26日 1972 - Bapak
・・・・・
次にあなたはまたナフス・アルアマnafsu aluamahによって満たされるか、または力が供給されています。
これはナバティアnabatiah又は植物の生命力から生じます。
あなたはナフス・アルアマnafsu aluamah、ナバティアnabatiahの生命力を本当に持っている必要があります
ナバティアnabatiahの生命力なしではあなたは食べるという事がことができません。
もしあなたが食べるという事ことができなかった場合は、あなたはあなたの肉と血を維持することができず、今ある様な人間であることはできませんでした。
だから、このナフスnafsuが必要です。

4月24日 1984 - Bapak
これは、ロホ ナバティ(植物力)です。
ご存知のように、多くの人々がこのような禁欲主義を実践しています。
食べ物が彼らの口に来る場合を除き、彼らは食べることを望まないだろうと言う人たちもあります。
そうです、食べ物はそのために仕事に努力する事がなければ、何もせずにただ口に来るということはありません。
・・・・・
なぜでしょうか?
野菜(ナバティ)の生命力を避けるためです。
それ(ナバティ)は怒りの情熱ナフス・アマラnafsu amarahを生じさせます。(引用注1
しかし人は、これら二つの生命力(物質力と植物力)なしでやっていくことはできません。
彼がそれらを持っていなかった場合、彼は人間ではないであろう。
彼は精霊やゴースト(幽霊)として知られているものになるであろう。
・・・・・
引用注1:このトークではバパは植物力にナフス・アマラnafsu amarahを結びつけています。
そうしてこの対応のさせ方はいつもバパが行っている植物力にナフス・アルアマnafsu aluamahを結びつける対応のさせ方とは違います。
それゆえ、これはたぶんバパのトークの時の思い違いであろうと思われます。

6月26日 1984 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、アルアマaluamahとアマラamarahで、貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。
・・・・・
二番目の影響は野菜です。
人間に作用する植物の力は、彼のためにも(物質力と)同様に必要不可欠なものです。
それらの野菜は人間が食べる食べ物を表すのです。
その食べ物がなければ、人間は存在できないし、人間の身体は存在しません。
・・・・・
兄弟姉妹の皆さん、世界には自分が食べる量を減らしたいという多くの人々がおります。
言い換えれば、食物への依存を減らしたいのです。
ここでもふたたび兄弟姉妹の皆さん、それは人間にとっては可能ではない何かがあります。
それが不可能な理由は、人間であるためには、あなたはあなたの存在の中で物質、植物、動物、人間という4つの要素を結合する必要があるからです。
・・・・・
これらの要素の内で一つでも欠けた場合は、もはやあなたは人間であることを意味しません。
したがって実際には、あなたはこれらの4つの要素を利用し、そしてそれに依存するように制約されています。
それにもかかわらず、一部の人々は完全に食べることをやめようとします。
その結果、もし彼らがそれを達成すれば、もはや彼らは人間ではなくなるでしょう。
彼らはデワ dewasのようになるでしょう。
(訳注:デワdewas インドネシアでは多くの神々が信仰されている。そうした神々の事を指す。)
神々は実際には(我々の様な)食事はしません。
彼らはエッセンス、物の中にあるエッセンスを吸収します。

1月19日 1985 - Bapak
兄弟姉妹の皆さん、ロホ ナバティ(植物力)は人間に必要であり、そのナフスは彼らの中にもあることは明らかです。
彼らはそれを取り除きたい、そして彼らがそのようにできた場合には、彼らは食事をしなくなります。
・・・・・
もし彼らがロホ ナバティ(植物力)を捨てることができれば、
それは神が全能ではなかったことを意味します。
神はこれを人間の生命に伴うものとし、人間の生命に必要なものとしたからです。
・・・・・
ロホ ナバティ(植物力)、野菜のロホ、それがそれ自身で自然に成長するとき、それは草や木と呼ばれます。
しかし、人間がそれに近づくと、彼らはそれを必要とし、それらは人間の食べ物と呼ばれます。
それは米、小麦、リンゴと人間の生活のために重要であるその他のすべてのものです。
・・・・・
彼らはそれを必要とし、それらは人間の食べ物と呼ばれます。
それは、ナフス・アマラnafsu amarahを体現します。(引用注2
兄弟姉妹の皆さん、これなしで彼らは人間と呼ばれることはありません。
そうして、彼らは人間ではない場合、彼らはいったい何なのでしょうか?
・・・・・
(以下はこのトーク上記説明よりも前の段落での言及になります。)
この物質生命力、これは人々が最も低い力と呼ぶものであり、それらは脇に置くことができないものです。
物質的な生命力は人間自身の中にナフス・アルアマnafsu aluamahと呼ばれるナフスとして現れ、人々はその絆から自らを解放することができないものです。(引用注2
・・・・・
引用注2:このようにこのトークではバパは物質力にナフス・アルアマnafsu aluamahを結びつけ、植物力にナフス・アマラnafsu amarahを結びつけています。
そうしてこの対応のさせ方もいつもバパが行っている対応のさせ方とは真逆のものになっています。
ですのでここでもたぶんバパのトークの時の思い違いであろうと思われます。
あるいは、2回も思い違いをしたと考えるのが無理なら、他に理由があるものと思われます。
そういう訳で、この件はページを改めて考えたいと思います。<--リンク

5月9日 1985 - Bapak
神は全能であり、また人間にロホ ナバティroh nabati、植物の生命力を与えています。
もちろん、あなたがた全員が植物が何であるかを知っています。
果物を実らせる植物があり、そして米や小麦などの収穫することができる植物があります。
・・・・・
そして植物の生命力からナフス・アルアマnafsu aluamahは人間の存在内に具現化され、あなたがまだ生きている間にあなたはそれを取り除くことはできません。
肉、肌、血液は植物から栄養を取り入れ、それゆえ人間がナフス・アルアマnafsu alwamahを避けたり、捨てたりすることは不可能です。
・・・・・
6月9日 1985 - Bapak
物質力に加えて兄弟姉妹の皆さん、植物の生命力と呼ばれる人間の自己を包む別の力もあります。
それはあなたの肉、血、皮膚、神経、骨などに栄養を与える食品であり、それによってあなたはこの世界で人間として生きることができます。
あなたが食事をしていない場合は、あなたは目に見えるような人間としては存在していませんでした。
あなたがたはある種類の創造された者かもしれませんが、兄弟姉妹の皆さん、あなたがたは目には見えない生き物であったことでしょう。
それがあまりにも極端な断食や禁欲主義が奨励されたり、承認されたりしない理由です。
・・・・・
あなた方はそれを一定の限度内で行うことができます。
つまりあなた方はこの世でのあなた方の人生が繁栄するのを助けるためにそれを行うことができますが、それは正しい方法でなされなくてはなりません。
通常、食べ物や飲み物を控える人たちは、黒魔術のような人類にとって異質で奇妙な習慣に入りたがります。
しかしそれは神によって非難されるような罪にあたります。

6月17日 1985 - Bapak
二番目のものは植物の世界の生命力から生じます。
そして、この生命力は肉体を持っている人間を可能にするものです。
そう人間はこの生命力の助けを借りて、植物質を消費し、それから彼の血液、彼の肉、彼の骨髄、彼の骨と彼の存在を構成するすべてのものを作成することができます。
このすべては、植物質から作成されます。
そういう訳で非常に大きな植物の生命力の影響が人間にあります。
・・・・・
全能の神を十分に満足できるような形で礼拝するために自分自身を浄化しようとして、人間はこの生命力とこのナフスnafsuからも自分自身を解放しようとします。
彼らは禁欲主義によってこれを実行します。
食品を控えることで、飲み物を控えることで、そうしてそれはまるで彼等自身を拷問している様です。
しかしこれは完全に間違っています。
これは彼が求めているものを達成することができる手段ではありません。
確かに彼はそれによって植物の世界の生命力から自身を分離することができます。
しかしその結果は、彼が期待するものとは異なるものになります。
神は人間が求めているものは何でも人間に喜んで与えます。
しかし人間はそのようにすることで、魔法と呼ばれるものや、そのようなあらゆる種類の特異な結果を得るでしょう。
だから人間がそういうことに身を落とすことは神のせいではありません。
それは人間自身の責任であって、間違ったことを追求するため、間違った方向に行くのです。

6月24日 1985 - Bapak
さてこんどはナフス・アルアマnafsu aluamahについてです。
これは、野菜や植物の生命力に由来します。
そして人間はそれが彼らの内なる自己を乱すと言う事を悟るので、やはりこの力も避けようとします。

6月25日 1985 - Bapak
さてそれからナフス・アマラnafsu amarahだけではなく他のnafsuもあります。
これらはナフス・アルアマnafsu aluamahと呼ばれるものであり、それは植物の世界から来ています。
植物は人間の生活のために必要ですか?
これらは重要でありそうしてまた必要なものです。
そうして彼らは重要かつ必要であるだけでなく、この世界における人間の生活は人間が植物を食べるゆえに存在することができるのです。

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Susila Budhi Dharma ・ Chapter 2 Material force and money

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With the material force that created the universe working for people, people could understand the environment around themselves and the universe.

And the material force has been involved in so much discovery and inventions.

So, what we have created is the current science and technology civilization including life science and medical technology.


Another great involvement of material force appears in economic development.

And symbolic existence of economic development is money.

As money has come to exist, people have hoped for further economic development and pushed it forward.

In that sense, money is like a mass of the material force.


Normally, when you hear the explanation that "At the bottom of life force there is the material force", we tend to think that "No, I graduated from that level anymore".

However, most people who are older than elementary school students and who understand the value of money love money.

This will be the inevitable result of living in such a society that money is necessarily needed as we live.

And in this society where we live, money is said to have a versatile magic power where you can get whatever you like by having it.

This story also start with saying that human beings possess the material force that can find value in that piece of paper called bills.

(Naturally, for those who do not need money, this story is an unrelated story.

And those who are away from money are only saying that they will not be ruled in money.

They don't say that we can control the material force.)


Thus "we love money" is "material force love" if we change words.

This is a fact, there is no denying.

Obviously such as Bapak's comment that "human beings likes the material force" is based on this fact.


Well, this money, the identity is a printed matter on which scenes and people and so on are minutely painted on paper and figures are printed alongside it.

And it is the material force that can interact with human brain and that tells us this substitute is important and worth.

By the way, it seems that goats are the only ones that can understand the value of this printed material in animals.

But it is a recognition as a somewhat unequal food that is not good with a bit of stiff texture.<-- Link


In the case of a human being, he can understand what is behind this printed matter.

Then, he would be liked to own this.

It is because most things can be obtained by exchanging with this printed matter.


However there are two problems here.

The first is "It is good that we like money, but is it that we are loved from money?"

No, money is not a creature, so there are no likes or dislikes there,

If you say so, It is like something that admits "I am not loved from money"and "I do not understand money."

The second thing is " You like money, but aren't you drowning in it?" or "Isn't life bound to money?".


The ideal way that Bapak says is "We like money, and money likes us, but our master is us."

Only then will it be said that "I graduated from the level of the material force."

We will receive Latihan to become such a state.

And then, in order to become like that, we must receive education, and be trained and socially exerted.

Naturally there is no one in such born.

Without such social effort, You would not reach the state you would like.

It is obvious that this gift called Latihan is for peoples who work diligently, never for those who dream of getting the winning number of lottery.

As it turns out, no matter how much Latihan you recieve, bills will not come down from the air.

You get money in the usual way, and you should use it well.

PS  
The story of money can not be separated from the existence of society that is the premise, and it also can not be separated from the work of each individual (whether he belongs to any organization or the individual business owner) .

If so, these two themes ( jobs and money ) are also related to the material force.

Then, during a certain period of your life these two things ( jobs and money ) are the main theme , so you can not avoid them.

As Bapak says in this way, our lives can not be separated from the material force, so what kind of relationships will be made with the material force, what kind of understanding is about jobs and money, what kind of attitude we need to the jobs and the money, it is very important.

PS
Doesn't it have anything to do with Latihan and such story?

No , there are societies and money exists as there are four forces working and the universe exists and we exist.

Therefore, all of these things have something to do with the four forces.

Then, if Latihan is a thing that will normally return the relation between our ability and the four forces.

There is no wonder about understanding to jobs and money, even if it comes from Latihan.

PS
This article is a brief response of Bapak's idea , which direction you should go, what kind of occupation you should take, or the idea of lifework. <-- Link

Please read for your information.

PS
It is said that enterprises are also entering enterprises, but it is needless to say that this activity is closely related to the material force.

So for that reason, this page is for your reference. <-- Link

PS
One thing that is a bit old story as it relates to money.

According to "Exodus", it is said that Moses took 40 days until God granted the Ten Commandment lithograph on Mount Sinai, but the people of Israel who left at the foot were in time Losing patience with the passage of time, eventually, Moses came to think that he was dead.

People who became uneasy go out to consult with Aaron and appeal for the creation of a new god that leads the people as a measure of happiness.

Aron orders the submission of precious metals from all the people accordingly.

In this way the cast gold calf was completed. <-- Link
・・・・・
God who knew it told Moses to descend the mountain, and the golden calves were destroyed by the raging Moses, followed by fire.

In this way people used to like "worshiping what is visible in a concrete form" from the beginning of BC.

Well this "golden calf" has reached the present age, changing its appearance and form at each age.

Let's have a splendid example of money.

Each country produces its own money, people prefer it, and that is as if worshiping money.

Reference.
・ History of human and money <-- Link

PS
Another article describing the impact of the material force on humans is here. <-- Link
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[You can enter into the series of "Susila Budhi Dharma" from here. <-- Link]<--Sorry,Under construction

List of articles<--Link

スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力と人新世(アントロポセン)2

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せっかく人新世の話をしはじめたのですから、その続きをサイエンスの記事の中から少々引用します。
・・・・・
わずか数千年前まで地球の生物相のなかで非常にマイナーな存在にすぎなかったヒトという生物種が、現在は陸と海の上位捕食者となっている。

人類は地球の全生物生産量の約四分の一を自分たちの為に使っている。

この結果、人類は陸生脊椎動物の約三分の一を占め(単純な体重ベースで)、残り三分の二の大半は人間が食物とするために改良した一握りの家畜だ。

片隅に追いやれれた野生動物は5%に満たない。

また人類は地球上の陸地の大半に入植し、残された野生生物をあまねく再配置してきた。

人類は意図的に、あるいは意図せずに、動植物を地球全体に移動し、世界の生物相を均質化してきた。

(植物の均質化については農業革命が大きな影響力をもっていました。

19万数千年続いた狩猟採取時代の後の、数千年にわたる農耕の発明(農業革命)によって始まり現代にまでつながる農耕の時代。

これによって単位面積あたりの生産量は急増し、それが人口増加をささえたのであります。

しかしながら逆に小麦やコメ、トウモロコシは世界中にばらまかれ植物相の均一化をもたらしています。

そうしてこの様な農業革命に関しては植物力、動物力の人による利用という面が考えられます。

これはスシラ ブディ ダルマ に記述されているような植物力、動物力が人に与える影響というものと人間が切り離せない、ちょうど物質と人の思考が切り離せないのと同じように相互に影響を与えあう関係があると想定されます。)

こうして人類は多くの生物種を絶滅に追いやっており、今から200年を待たずに恐竜絶滅時と同規模の壊滅的な打撃を地球の生物多様性に与える可能性があります。
・・・・・
追伸
物質力の痕跡(生痕化石)としては、たとえば以下のもの。

地上に建設された都市を反映する形で、コンクリート製のビルディング群、ガラス、鉄筋、舗装道路、地下街、地下鉄。

アルミニウム、プラスチック(陸上及び海上、海中)、セラミックス、大気中のプルトニウム239と240、二酸化炭素、メタン、酸化窒素

今や南極にまで到達しているマイクロプラスチックと呼ばれるプラスチック小片のゴミ

そうして地球の今までの気候パターンを大きく変えつつある「地球温暖化」を引き起こしています。

追伸
テラフォーミング(terraforming)という概念があります。<--リンク

人為的に惑星の環境を変化させ、人類の住める星に改造すること[1]。

「地球化」、「惑星改造」、「惑星地球化計画」とも言われる。
・・・・・
実は地球は生物(主に植物、少し動物)によって今までもテラフォーミングされてきました。

そうしてこの時代になってテラフォーミングの主役が何時の間にか人間になってしまっていたのでした。

「人新世」とはそういう話でもあります。

PS
ここまで物質力について記述してきました。

そうして、すでに論じました様に「今の時代を特徴づけるものは物質力」なのであります。

「植物力、動物力、人間力というものが重要なものではない」、などと言うつもりはございません。

しかしながらこの三つの力は人間の誕生以来ずうっと同程度の重要さで人とかかわりあってきたものと思われます。

(少し訂正。植物力と動物力は農業革命に深く関与していたと思われます。

そうして、農業革命は一万年前ごろから始まったとすれば、この二つの力の人間にとっての重要性はその時点で飛躍的に増加した事になります。)<--リンク

それに対して物質力はこの200年程度の期間の内にそれこそ全世界を巻き込んでその強さを、その重要性を主張してきております。

そしてその主張のありさまは弱まることなく今後とも続いていくものと予想されます。

それゆえに過去のあらゆる教え、テクニック、体系、修練方法ではなくて、まさにこのラティハンがそのような時代に優れて適合しているものと思われます。

以下ご参考までに。
・我々はいま、歴史上4回目の「産業革命」を目の当りにしている<--リンク


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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力と人新世(アントロポセン)

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「人新世(じんしんせい)?何それ?」

まあそうなりますね。

「地球誕生からの時代を、発掘された化石や地層等から、相対的に区分する手法を用いて分類した時代区分を地質時代と呼ぶ。」のだそうです。

詳細は「地質時代」を参照願います。<--リンク

簡単にいえば地層を表層から剥いでいくと様々な遺物やら化石やら地層が表れてきます。

それらを整理して分類する「地球の誕生から現在に至る歴史を調べる学問としての地質学」があり、その結果が「地質時代」としてまとめられているのです。

それによりますれば、現在は11700年前に始まった「新生代、第四期、完新世」という事になっています。


さてそのような地質学者の間で今盛んに議論されているのが「現在はもはや完新世ではなく人新世(アントロポセン:Anthropocene「人類の時代」という意味)ではないのか?」というものです。

つまり、時代はここに至りて産業革命以降の人間の諸活動の結果として地球の大気と海の組成を変化させ、地形と生物圏を変えてしまった。

そうしてこの変化は全地球的な規模のものであり、地球全体の地層にその痕跡が刻まれたのではないのか?

そのような大変動を引き起こしているのではないのか?

そういう議論がされています。

そうして「日経サイエンス 2016年12月号 地層に刻まれる人類の時代」によれば「完新世から人新世への移り変わるタイミングとして1950年あたりが考えられる」としています。<--リンク

1950年といえばもちろんバパがラティハンを世界に広める努力を始めたタイミングでもあります。

さてこれは偶然の一致でありましょうか?


ラティハンは時代の要請に対応して現れたものであると言われています。

その時代というのは、科学技術、医療技術、情報技術、そうして貨幣経済に代表されるような、「物質力大優勢の時代」であります。

そしてその物質力の大きさ、規模、強さと言うものは全地球上の地層にその痕跡を残すまでに至っています。

そういうことは今までの地球史の中では存在したことがありませんでした。

それは地球が経験する、そうして当然の事ながら人類が経験する初めての出来事なのであります。


さてそのようにすさまじいまでの力を持った物質力のカウンターパート、カウンターバランスとしてラティハンが登場した様に思われます。

そうでありますれば、バパが言うように「ラティハンは単なる一個人の救済、あるいはある一グループの救済、そのようなレベルで終わるものではないし、終わらせてはいけないものである」という事は明白な事なのであります。

PS
ご参考までに。

「地球の歴史」(上・中・下)中公新書 鎌田浩毅 著 という地球の歴史について書かれた良い本が出た様です。

PS
1958年5月に出版された「Concerning Subud 」のなかですでにJ. G. Bennettさんは以下の記述をされています。<--リンク

これはラティハンの出現というものをそれなりの人類史のなかで位置付けようと試みた仕事の一つとして評価できるものと思われます。
・・・・・
5.人類の時代   (18Page)
近年、人間の生活の中の物質的な力は徐々に精神的な力を支配してきました。
こうして私たちは私たちの前に、私たちの時代の歴史の中で、人間の可能性の二重の性質の実証を持っています。
・・・・・

PS
ラティハン・クジワアン、省略してラティハン。

「霊的修練」とか「魂の修練」とかまあそういう意味合いのコトバです。

そうするとそのコトバを聞いた人は「そうか、霊的なものであって、この世の事とはあまり関係がないのだな」と思ってしまいます。

しかしながら本当はラティハンは「生命のラティハン」であって、そうでありますれば当然のことながら「この世の事を含む」のであります。

なぜならば人間の生命というものはこの世とこの世を超えた両方の世界に渡って存在している、というのがバパの主張でありますれば。

それは当然なのでありました。

そうして我々にとって「この世」とは今現在のこの地球での生活、物質力が大優勢である今のこの生活のことになります。

その状況においてさえ当然のことながらラティハンは働くもの、効果を現すものであります。

しかしながらそのことを理解せず、ただ単に他の霊的な修練と同様のものと考え、その様に扱うならばそれはラティハンの半分しか認識せず、半分しか生かしていない事になります。

まあそういう次第でバパは当然の様に「エンタプライズをしなさい。(そして成功させなさい。)そうすればこの世でのラティハンの使い方が分かるでしょう。」と言われたのでありました。

PS
ラティハンゆえにタナボタで成功が舞い込んでくるのではありませんね。

そこのところを我々は勘違いしやすいのです。

しかしながら実際はそうではなくて、我々は他の人達が行っているような通常の努力は同じようにしっかりと行う必要があります。

そうして、どうやらその努力の途上でラティハンの助力に気がつく様になるのです。<--リンク

そうやって結果的に物事が良い様に仕上がっていくのです。

つまりラティハンゆえのタナボタではなく、ラティハンとは一緒になって仕事を進める事が大切なのであります。

そして実際にご自分の仕事の上でそのようにラティハンを活用されて実績をだしておられる、あるいは出しておられた方々を存じ上げております。

そうであれば「このラティハンと言うものは我々の人生に有益なものである」といってもあながち間違いではないかなと思われます。

PS
ラティハンの道を歩くには本当に辛抱強さが必要です。

まずはオープンから。

そこですぐに動きが出る、反応が出る人もいればなかなか出ない人もいます。

まずはここが辛抱のしどころです。

そうして、動きが出るようになっても、今度はその動きの意味が我々にはさっぱりわからないときています。

「何でこんな動きをするのだ?」と疑問に思うのですが、答えはだあれも出してくれません。

バパがご存命のころは「それはこう言う事だ」と言ってもらえたのですが、それももはや過去のことであります。


それでもそのような動きは決して不快なものではなく、ラティハンを終わればさっぱりとリフレッシュされた気分になれるのです。

まあそうではありますが、ラティハンと言うのはそのように動きが出ても我々にはその内容が「理解不可能なもの」なのであります。

そうなるとこれは知性や思考心にとってはまことにやっかいなものになります。

自分のラティハンでありながら、さっぱり訳がわかりません。

人間と言うものは意味の分からない事を長い間続けられる様には出来ておりません。

そうしてその様な状況は、知性や思考心にとっては一種の拷問のようなものになってしまうのです。

それゆえにバパは可能な限り我々の所を訪れてはラティハンの状況を確認し、我々を励ましたのであります。


さてそこを突破すれば、そうして自分の内部でなにやら受けることができるようになると(注1)、知性やら思考心やらも少しは納得し始めます。

「ああこれは我々の手にはおえないものだ。」と。

「しかしながら、有益なものでもある。」としぶしぶながらでも納得するのです。

それでもまあそうなるには「多少の時間」が必要であります。


さてそれでは「多少の時間」というのは一体どれくらいの長さなのか?

これは人によって随分とばらつきがある様です。

そうでありますれば、「ラティハンの道を一生の道」と覚悟を決めるかどうかについてはどうしても「人生の選択の問題」になってしまう様です。

(注1)(6,9,1963)トークより引用
「全ての人間は、各自の内部に於いて導きを与えられているのです。
しかし人間は、自分のハートや思考を本当に静めることがなければ、決してこの導きを知ったり、感じたりすることはできまん。」

 

PS
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和尚さんが言うことには

さてそれで、ある時和尚さんが言うことには「静かにしていると、春がきて花が咲く」。

あるいは「あるがままのそのままでいい」と。

こういう言葉はすべてトラップですね。

一度落ち込むとなかなか出てこれない。

そういうようにできています。

あぶない言葉です。


でも、そういうトラップも一つの「入口」です。

迷路の中で迷ってしまって、出てこれないと「笑い話」になっちゃいますけれど。


トラップに落ちる時は、落ちるままにするのがいいでしょう。

迷路の中では、しっかりと迷いましょう。

そういうのが全て、トラップを見破るもとになります。


いろいろな「トラップ破り」がありそうです。

座りつづけて(瞑想を続けて)破る人もいたようですし、祈りつづけて破る人もいます。


ラティハンの道もその中の一つのようです。

頭やロジックだけではこんがらがって、迷路に迷うばかりです。

そんなときは、ラティハンにいそしむのが一番のようです。

PS
Wikiバグワン ページからの引用です。<--リンク
少々長いのですが、よろしくお願いします。

ラジニーシは、ラマナ・マハルシ(ラマナ・マハリシ)、ラーマクリシュナ、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ゲオルギイ・グルジエフとの比較において、みずからの姿勢について、次のように語った。

「人をほんとうに助けようとするならば、誤解されるのは避けられない。
ほんとうに助けようとするつもりがないなら、誤解されることもない。
崇拝や賞賛の的になれる。
ただ話をし、哲学を説くだけなら、人は怖がらない。
彼らの人生に立ち入ろうとしないなら。

複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。
それなら申し分のない体験になる。
それはエゴを強化してくれる。
それはエゴを養ってくれる。
だれもが知識を増やしたがっている。
それは微妙にエゴを肥やす。

だが、ほんとうにだれかを助けるつもりなら、厄介なことになる。
いまと違った生き方へと導かなければならない。
それは人のエゴの縄張りを侵すことになる。
幾世紀もの歴史を背負った習慣や構造を相手にすることになる。
これは反発を招く。
人々は敵意を向けてくる。
人々は怖がる。
助けようとする人物を敵と見なし、ありとあらゆる方法で悪評をたて、誤解を広めようとする。

一面的な働きかけしかしない教師たち。
彼らは美しい花ではあるが、あまり役に立たない。
ジッドゥ・クリシュナムルティは、過去40年あまり、話し続けてきた。
人々は彼に耳を傾ける。
多くの人が40年以上にわたって彼の言葉に耳を傾けてきたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。

もちろん、もっと知識は増している。
議論や理屈がもっと得意になっている。
議論の相手としてなら、とてもよろしい。
観念の領域での微妙きわまりない題材を論じるのに慣れている。
目覚め、瞑想、意識をはじめとする多彩なテーマについて、こと細かに議論する。
とても有能、とても利口になっている。
だが、あいも変わらず凡俗であり、あいもかわらず愚かである。

変わったのはひとつだけ。
クリシュナムルティから仕入れた知識によって愚かさを隠すことができるようになった。
クリシュナムルティは知識人の玩具になった。
彼はあえて人々の人生に踏み込もうとしなかったからだ。
それをするのはもちろん危険なこと、火を扱うようなことだが。

シュリ・ラマン(ラマナ・マハルシ)も、人々にとって、まったく申し分のない人物だった。
寺院で静かに坐る聖者。
人々はやってきて、花を捧げ、彼を礼拝する。
彼はただそれを見守るだけだ。
もちろん美しく見事な人物だが、一面的であったことは否めない。
人生を変えるほどの衝撃を与えなかった。
クリシュナムルティが人々の知性に訴えたのに対し、彼は人々の感情に訴えた。

ラーマクリシュナも同じだった。
多くの人たちが感動し、歓喜の涙を流した。
だが、それが彼らを変えることはなかった。
歓喜の涙は一時的なものだ。
家に帰れば、自分がまったく変わっていないことに気づく。

グルジエフはまさにパイオニアだった。
グルジエフとともに、人生における精神性の追求の新しい概念が生まれた。
彼はそれを「第四の道」(知性/感情/肉体のすべてに働きかける道)と呼んだ。
私もこの「第四の道」を追求する。

彼はひどく誤解された。
というのも、人に知識を授けたり、人の心を慰めたりには興味がなかった。
整然とした理論を提供したり、夢を見させてあげたりには興味がなかった。
涙や感激や感傷を誘ったりせず、尊敬も求めなかった。
彼は人に全面的な変容をもたらそうとした。

人に全面的な変容をもたらすには、ハンマーを使わなければならない。
人を形作っている多くの部分を削り落とす必要があるからだ。
人はひどい状態にあり、現状では、すべてがおかしなことになっている。
それを直さなければならない。
だが、人は自分の生き方にたいへん固執しているので、それを変えようとする人物、表面的に変えるのではなく核心において変えようとする人物は敬遠される。
怖がられる。
少数の勇気ある者だけが、グルジエフのような人物に近づいていく。
たいへんな勇気が必要だ。
だが、この勇気があってはじめて、人は生まれ変わることができる。

— Osho, “The Dhammapada” Vol. 2, #2 冒頭部分

さて、そういうわけでラティハンは「第五の道」ということになります。

そうしてそれは「ハンマーを使わずに人を変容させることが出来る道」であります。

PS
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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力とナフスamarah

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

スシラ ブディ ダルマの中では諸力とナフス(nafsu)の関係について、一般的な形で述べられています。

つまり外界からの刺激を受けて諸力が働き、そのことによって人の中でいろいろな欲望、動機が発生して、それが行動に結びつく、、、と説明されています。

しかしながらスシラ ブディ ダルマでは個々の諸力と個々のナフスの1対1関係については言及されていません。

それについてのバパの言及があるのはスシラ ブディ ダルマを受けてから5年ほど過ぎた後のトークが最初になり、以降複数のトークで語られる事になります。

それらのトークの中でバパは4つの諸力と4つのナフスの対応関係などについて語っているのであります。

したがいまして、以下に記述される内容はスシラ ブディ ダルマには記述されておりませんが、それを補完するものになります。


さて、ナフス(nafs)というコトバはコーランに出てくることから分かる様にもともとはイスラムのものです。

それをイスラム神秘主義者であるスーフィー達が発展させて使ってきました。

そうして、その言葉がスーフィーズムと共にインドネシアに伝わり、そこでまた独自の展開をしました。

それが今、ジャワで使われているナフス(nafsu)という言葉になります。

ジャワでのナフスの意味するところは、人の中に常に存在している欲望、願い、動機、衝動を表すのであります。

そうして、バパもまたそのような使い方を踏襲しています。

さて、通常の生活では大方はナフスによって動いています。

こうしなければいけない、こうしたい、という動機があって次に行動が発生するのであります。

そのような動機、希望、欲望、意思をナフスといいます。

そうして、そのナフスの後ろにあってナフスに力を与えているものとしての生命力、あるいは諸力というものをバパは想定しています。

その生命力(ロホ)は全部で9種類ある、というのがバパの説明でもありますし、ジャワ伝統的イスラムのとらえ方でもあります。

(但しジャワイスラムは「ナフスに力を与えているものがロホである」という立場はとってはいません。
しかしながら、ナフスとロホが人の中にありそれぞれが固有の働きをしている、ということは主張しています。)<--リンク


さて、もともとコーランで記述されているナフスは3つ(アマラ、ルアマ、ムトマイナ)でしたが、ジャワに伝わってスフィアが追加され4つに増えました。

そうして、最初の3つは人が持っている、あまり好ましくはない欲望として記述される事が多い様です。

そして唯一ムトマイナのみは常に「このましい欲望」として記述されています。


さて、物質力によって発生するナフスはamarah(アマラ)であるとバパは言います。

まずはコーランの記載から。

「またわたし自身、無欠とはいえませんが、主が慈悲をかけた以外の(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。
本当にわたしの主は寛容にして慈悲深くあられます」(ママ)」
[Q 12: 54](“nafs ammāra” 該当部分)。

スーフィー マスターのナジュムッディーン・クブラー(Najm al-Dīn Kubrā, d. 1220)、彼はナフスを三段階に分け、ルーフとスィッルとを合わせた五段階のラターイフ論を展開するのですがそこでは
「悪を命令する魂(nafs ammāra)」
となります。<--リンク

Wikiより世界標準の7つのナフス(Nafs)によれば、<--リンク
1. ナフス・アンマーラ  an-nafs al-ʾammārah  扇動の魂

そしてワヤン(Wayang)での4ナフスシステムからは、<--リンク
2、赤はアマラ amarah の欲望で怒りにつながる

あるクバティナン流派での分類では、<--リンク     
第二はアマラ amarah すなわち自尊心,

そうして、最後はあるトークでのバパの説明からは、<--リンク
スクマ(sukma、精妙体)の色      対応するナフス(nafsu,passion)
第二は赤                   amarah 自己中心主義


そうして、バパは多くのトークでナフス・アマラについて語っています。

以下はそこからの引用になります。

7,20, 1957 - Bapak  
amarahの光あるいは放射の性質は、赤色です。
amarahは、盲目的に作用し、何が良いのかを理解していません。

9,29, 1957 - Bapak
amarahは、金持ちになるか、自分のために富を獲得したがる欲求。

8,6, 1959 - Bapak
amarahはエゴイスティック、がめつく、傲慢です。

8,7, 1959 - Bapak
amarahは、自己中心主義です。

3,5, 1963 - Bapak
あなたは、あなたのハートとマインドの中に存在する情熱「ammara」が「常に正しくありたい」とする欲求であるためにそれに従うことができます。

それは勝つためであり、賢さを認めさせる為であり、自分だけの為に生きるのであり、その願いは要するに、他人を凌駕するとともに、他人の力を排除または減少させたいという欲望であります。

あなたはこの情熱の影響を受けているとき、あなたがそれを楽しむからではなく、口論したい、戦いたい、他の人とは違っていたい、一人でいたい、時にはあなた自身の家族から、またはあなたの妻や夫から分離されてまでもそうしたいからなのです。

要するに、実際に利己主義と貪欲という欲望のために、人間が低いレベルに落ちるようになり、そして彼らの内部感覚とハートの中で、非常に簡単に貧困の深淵に落ち込んでしまいます。

9,13,1963 - Bapak
amarahと呼ばれる怒りの欲望があります。
この欲望が人をを操作するとき、それは彼らが口論することになり、意地悪く、自己中心的で争いたがります。

7,8, 1970 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、aluamahとamarahです。
それは貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。

8,23, 1971 バパ
したがって、あなたは、あなたの一生の間にamarahを取り除くことはできません。
amarahとは意志や欲望の事です。
強い意志がなければ、欲望がなければ、あなたは、服を買うことができませんでした。
あなたが地球上で行うすべての事は意志や欲望のためです。

11,26, 1972 - Bapak
ナフスは、仕事をしてこの世界で生活費を稼ぐためのエネルギーを提供するので、我々にとっては非常に有用です。

5,27, 1976 - Bapak
このような人々はまだ影響を受け、さらに低次の諸力と怒り(amarah)と貪欲(nafsu angkara)の情熱によって汚されています。

11,20, 1976 - Bapak
しかし、amarahは次々に多くの様々な形の欲望や意志で満たされています。
たとえば、怒りや貪欲、お金持ちになりたい、あるいは有名または賢くなりたい、自分一人のために生きたい、自分の快適さと喜びを願います。

6,18, 1981 - Bapak
最初の二つ(Aluamanah, amarah)は、貪欲や怒りの情熱です。
それは「勝ちたい」という人の情熱で、他人を倒す事を望み、常に上になりたがって、そして他のだれよりも優れていたがります。

5,9, 1985 - Bapak
ナフス amarahは貪欲や怒りの欲望と呼ばれます。
それは、常に人類を苦しめ、非常に楽しみながら慣れた戦いを引き起こして、そして他の人々のニーズに全く感覚を持たず、自分のニーズのためだけに、人々を抑圧し、彼らの自由と独立を奪うことを好みます。
そのナフスは、実際にナフスraiwaniと呼ばれる物質力のナフスです。
このナフスは非常に密接に人の存在に人の心を通じて結び付けられています。

6,17, 1985 - Bapak
私たちは常にナフスamarahの作用によって妨げられ乱されています。
または物質力のナフス。

6,24, 1985 - Bapak
amarahは口論、競合、意見の相違、憎しみ、嫌悪、などなどを発生させる情熱です。
これは、人々をして紛争、嫌悪と不調和の状態にさせます。
amarahは競合を引き起こし、それは物質生命力の存在に由来します。

11,25, 2002 - Ibu
amarahと呼ばれるものは働くための性質であり、これは人間が働かなければならないことを意味しています。
だから、誰かが「仕事をしたくない」と言うのは間違いです。
仕事をすること、仕事を楽しむことは人間の本性の一部なのです。

2,25, 2005 Ibu
そして、情熱amarah、働きたいという我々の欲望です。

PS
もともとコーランの中に記述されているナフスはアンマーラ、ラウアーマ、ムトマインナだと思われます。

そうして、それぞれがイスラムを信仰する者のそれぞれの状態をしていているものと理解しています。

それがスーフィズムになりますと、ナフスと言うのは一人のスーフィーが修行をしていく時に経験していく意識の階段の様に扱われていきます。

それによれば、まずはアンマーラではじまり、ラウアーマを経てムトマインナに至るという順番になっています。

この場合、それぞれのナフスは魂の発展段階(あるいは意識の発展段階)を示すものとして扱われれます。

したがって一人の修行者の中に2つ以上のナフスが同時に存在する事はありません。

このことがジャワで一般に認識されているナフス(nafsu)とスーフィーズムで扱われているナフス(nafs)との間での大きな違いとなっています。


そうしてジャワにおきましては「人は皆4人の兄弟と一緒に生まれてくる。」という言い伝えがあり、その発展形としてスーフィズムのナフスを吸収していったという経緯があります。

その吸収過程で3つしかなかったナフスにスーフィヤがついかされジャワ固有の「4つのナフス」という体系が出来上がったのでありました。

そうであれば、ジャワにおきましては人の中に常に同時に4つのナフスが存在する事になったのであります。

そうしてまたバパも「常に人の中に存在する4つのナフス」という考え方を用いながらラティハンを説明していったものと思われます。


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