ラティハン日記・掲示板

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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力と人新世(アントロポセン)2

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せっかく人新世の話をしはじめたのですから、その続きをサイエンスの記事の中から少々引用します。
・・・・・
わずか数千年前まで地球の生物相のなかで非常にマイナーな存在にすぎなかったヒトという生物種が、現在は陸と海の上位捕食者となっている。

人類は地球の全生物生産量の約四分の一を自分たちの為に使っている。

この結果、人類は陸生脊椎動物の約三分の一を占め(単純な体重ベースで)、残り三分の二の大半は人間が食物とするために改良した一握りの家畜だ。

片隅に追いやれれた野生動物は5%に満たない。

また人類は地球上の陸地の大半に入植し、残された野生生物をあまねく再配置してきた。

人類は意図的に、あるいは意図せずに、動植物を地球全体に移動し、世界の生物相を均質化してきた。

(植物の均質化については農業革命が大きな影響力をもっていました。

19万数千年続いた狩猟採取時代の後の、数千年にわたる農耕の発明(農業革命)によって始まり現代にまでつながる農耕の時代。

これによって単位面積あたりの生産量は急増し、それが人口増加をささえたのであります。

しかしながら逆に小麦やコメ、トウモロコシは世界中にばらまかれ植物相の均一化をもたらしています。

そうしてこの様な農業革命に関しては植物力、動物力の人による利用という面が考えられます。

これはスシラ ブディ ダルマ に記述されているような植物力、動物力が人に与える影響というものと人間が切り離せない、ちょうど物質と人の思考が切り離せないのと同じように相互に影響を与えあう関係があると想定されます。)

こうして人類は多くの生物種を絶滅に追いやっており、今から200年を待たずに恐竜絶滅時と同規模の壊滅的な打撃を地球の生物多様性に与える可能性があります。
・・・・・
追伸
物質力の痕跡(生痕化石)としては、たとえば以下のもの。

地上に建設された都市を反映する形で、コンクリート製のビルディング群、ガラス、鉄筋、舗装道路、地下街、地下鉄。

アルミニウム、プラスチック(陸上及び海上、海中)、セラミックス、大気中のプルトニウム239と240、二酸化炭素、メタン、酸化窒素

今や南極にまで到達しているマイクロプラスチックと呼ばれるプラスチック小片のゴミ

そうして地球の今までの気候パターンを大きく変えつつある「地球温暖化」を引き起こしています。

追伸
テラフォーミング(terraforming)という概念があります。<--リンク

人為的に惑星の環境を変化させ、人類の住める星に改造すること[1]。

「地球化」、「惑星改造」、「惑星地球化計画」とも言われる。
・・・・・
実は地球は生物(主に植物、少し動物)によって今までもテラフォーミングされてきました。

そうしてこの時代になってテラフォーミングの主役が何時の間にか人間になってしまっていたのでした。

「人新世」とはそういう話でもあります。

PS
ここまで物質力について記述してきました。

そうして、すでに論じました様に「今の時代を特徴づけるものは物質力」なのであります。

「植物力、動物力、人間力というものが重要なものではない」、などと言うつもりはございません。

しかしながらこの三つの力は人間の誕生以来ずうっと同程度の重要さで人とかかわりあってきたものと思われます。

(少し訂正。植物力と動物力は農業革命に深く関与していたと思われます。

そうして、農業革命は一万年前ごろから始まったとすれば、この二つの力の人間にとっての重要性はその時点で飛躍的に増加した事になります。)<--リンク

それに対して物質力はこの200年程度の期間の内にそれこそ全世界を巻き込んでその強さを、その重要性を主張してきております。

そしてその主張のありさまは弱まることなく今後とも続いていくものと予想されます。

それゆえに過去のあらゆる教え、テクニック、体系、修練方法ではなくて、まさにこのラティハンがそのような時代に優れて適合しているものと思われます。

以下ご参考までに。
・我々はいま、歴史上4回目の「産業革命」を目の当りにしている<--リンク


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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力と人新世(アントロポセン)

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「人新世(じんしんせい)?何それ?」

まあそうなりますね。

「地球誕生からの時代を、発掘された化石や地層等から、相対的に区分する手法を用いて分類した時代区分を地質時代と呼ぶ。」のだそうです。

詳細は「地質時代」を参照願います。<--リンク

簡単にいえば地層を表層から剥いでいくと様々な遺物やら化石やら地層が表れてきます。

それらを整理して分類する「地球の誕生から現在に至る歴史を調べる学問としての地質学」があり、その結果が「地質時代」としてまとめられているのです。

それによりますれば、現在は11700年前に始まった「新生代、第四期、完新世」という事になっています。


さてそのような地質学者の間で今盛んに議論されているのが「現在はもはや完新世ではなく人新世(アントロポセン:Anthropocene「人類の時代」という意味)ではないのか?」というものです。

つまり、時代はここに至りて産業革命以降の人間の諸活動の結果として地球の大気と海の組成を変化させ、地形と生物圏を変えてしまった。

そうしてこの変化は全地球的な規模のものであり、地球全体の地層にその痕跡が刻まれたのではないのか?

そのような大変動を引き起こしているのではないのか?

そういう議論がされています。

そうして「日経サイエンス 2016年12月号 地層に刻まれる人類の時代」によれば「完新世から人新世への移り変わるタイミングとして1950年あたりが考えられる」としています。<--リンク

1950年といえばもちろんバパがラティハンを世界に広める努力を始めたタイミングでもあります。

さてこれは偶然の一致でありましょうか?


ラティハンは時代の要請に対応して現れたものであると言われています。

その時代というのは、科学技術、医療技術、情報技術、そうして貨幣経済に代表されるような、「物質力大優勢の時代」であります。

そしてその物質力の大きさ、規模、強さと言うものは全地球上の地層にその痕跡を残すまでに至っています。

そういうことは今までの地球史の中では存在したことがありませんでした。

それは地球が経験する、そうして当然の事ながら人類が経験する初めての出来事なのであります。


さてそのようにすさまじいまでの力を持った物質力のカウンターパート、カウンターバランスとしてラティハンが登場した様に思われます。

そうでありますれば、バパが言うように「ラティハンは単なる一個人の救済、あるいはある一グループの救済、そのようなレベルで終わるものではないし、終わらせてはいけないものである」という事は明白な事なのであります。

PS
ご参考までに。

「地球の歴史」(上・中・下)中公新書 鎌田浩毅 著 という地球の歴史について書かれた良い本が出た様です。

PS
1958年5月に出版された「Concerning Subud 」のなかですでにJ. G. Bennettさんは以下の記述をされています。<--リンク

これはラティハンの出現というものをそれなりの人類史のなかで位置付けようと試みた仕事の一つとして評価できるものと思われます。
・・・・・
5.人類の時代   (18Page)
近年、人間の生活の中の物質的な力は徐々に精神的な力を支配してきました。
こうして私たちは私たちの前に、私たちの時代の歴史の中で、人間の可能性の二重の性質の実証を持っています。
・・・・・

PS
ラティハン・クジワアン、省略してラティハン。

「霊的修練」とか「魂の修練」とかまあそういう意味合いのコトバです。

そうするとそのコトバを聞いた人は「そうか、霊的なものであって、この世の事とはあまり関係がないのだな」と思ってしまいます。

しかしながら本当はラティハンは「生命のラティハン」であって、そうでありますれば当然のことながら「この世の事を含む」のであります。

なぜならば人間の生命というものはこの世とこの世を超えた両方の世界に渡って存在している、というのがバパの主張でありますれば。

それは当然なのでありました。

そうして我々にとって「この世」とは今現在のこの地球での生活、物質力が大優勢である今のこの生活のことになります。

その状況においてさえ当然のことながらラティハンは働くもの、効果を現すものであります。

しかしながらそのことを理解せず、ただ単に他の霊的な修練と同様のものと考え、その様に扱うならばそれはラティハンの半分しか認識せず、半分しか生かしていない事になります。

まあそういう次第でバパは当然の様に「エンタプライズをしなさい。(そして成功させなさい。)そうすればこの世でのラティハンの使い方が分かるでしょう。」と言われたのでありました。

PS
ラティハンゆえにタナボタで成功が舞い込んでくるのではありませんね。

そこのところを我々は勘違いしやすいのです。

しかしながら実際はそうではなくて、我々は他の人達が行っているような通常の努力は同じようにしっかりと行う必要があります。

そうして、どうやらその努力の途上でラティハンの助力に気がつく様になるのです。<--リンク

そうやって結果的に物事が良い様に仕上がっていくのです。

つまりラティハンゆえのタナボタではなく、ラティハンとは一緒になって仕事を進める事が大切なのであります。

そして実際にご自分の仕事の上でそのようにラティハンを活用されて実績をだしておられる、あるいは出しておられた方々を存じ上げております。

そうであれば「このラティハンと言うものは我々の人生に有益なものである」といってもあながち間違いではないかなと思われます。

PS
ラティハンの道を歩くには本当に辛抱強さが必要です。

まずはオープンから。

そこですぐに動きが出る、反応が出る人もいればなかなか出ない人もいます。

まずはここが辛抱のしどころです。

そうして、動きが出るようになっても、今度はその動きの意味が我々にはさっぱりわからないときています。

「何でこんな動きをするのだ?」と疑問に思うのですが、答えはだあれも出してくれません。

バパがご存命のころは「それはこう言う事だ」と言ってもらえたのですが、それももはや過去のことであります。


それでもそのような動きは決して不快なものではなく、ラティハンを終わればさっぱりとリフレッシュされた気分になれるのです。

まあそうではありますが、ラティハンと言うのはそのように動きが出ても我々にはその内容が「理解不可能なもの」なのであります。

そうなるとこれは知性や思考心にとってはまことにやっかいなものになります。

自分のラティハンでありながら、さっぱり訳がわかりません。

人間と言うものは意味の分からない事を長い間続けられる様には出来ておりません。

そうしてその様な状況は、知性や思考心にとっては一種の拷問のようなものになってしまうのです。

それゆえにバパは可能な限り我々の所を訪れてはラティハンの状況を確認し、我々を励ましたのであります。


さてそこを突破すれば、そうして自分の内部でなにやら受けることができるようになると(注1)、知性やら思考心やらも少しは納得し始めます。

「ああこれは我々の手にはおえないものだ。」と。

「しかしながら、有益なものでもある。」としぶしぶながらでも納得するのです。

それでもまあそうなるには「多少の時間」が必要であります。


さてそれでは「多少の時間」というのは一体どれくらいの長さなのか?

これは人によって随分とばらつきがある様です。

そうでありますれば、「ラティハンの道を一生の道」と覚悟を決めるかどうかについてはどうしても「人生の選択の問題」になってしまう様です。

(注1)(6,9,1963)トークより引用
「全ての人間は、各自の内部に於いて導きを与えられているのです。
しかし人間は、自分のハートや思考を本当に静めることがなければ、決してこの導きを知ったり、感じたりすることはできまん。」

 

PS
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和尚さんが言うことには

さてそれで、ある時和尚さんが言うことには「静かにしていると、春がきて花が咲く」。

あるいは「あるがままのそのままでいい」と。

こういう言葉はすべてトラップですね。

一度落ち込むとなかなか出てこれない。

そういうようにできています。

あぶない言葉です。


でも、そういうトラップも一つの「入口」です。

迷路の中で迷ってしまって、出てこれないと「笑い話」になっちゃいますけれど。


トラップに落ちる時は、落ちるままにするのがいいでしょう。

迷路の中では、しっかりと迷いましょう。

そういうのが全て、トラップを見破るもとになります。


いろいろな「トラップ破り」がありそうです。

座りつづけて(瞑想を続けて)破る人もいたようですし、祈りつづけて破る人もいます。


ラティハンの道もその中の一つのようです。

頭やロジックだけではこんがらがって、迷路に迷うばかりです。

そんなときは、ラティハンにいそしむのが一番のようです。

PS
Wikiバグワン ページからの引用です。<--リンク
少々長いのですが、よろしくお願いします。

ラジニーシは、ラマナ・マハルシ(ラマナ・マハリシ)、ラーマクリシュナ、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ゲオルギイ・グルジエフとの比較において、みずからの姿勢について、次のように語った。

「人をほんとうに助けようとするならば、誤解されるのは避けられない。
ほんとうに助けようとするつもりがないなら、誤解されることもない。
崇拝や賞賛の的になれる。
ただ話をし、哲学を説くだけなら、人は怖がらない。
彼らの人生に立ち入ろうとしないなら。

複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。
それなら申し分のない体験になる。
それはエゴを強化してくれる。
それはエゴを養ってくれる。
だれもが知識を増やしたがっている。
それは微妙にエゴを肥やす。

だが、ほんとうにだれかを助けるつもりなら、厄介なことになる。
いまと違った生き方へと導かなければならない。
それは人のエゴの縄張りを侵すことになる。
幾世紀もの歴史を背負った習慣や構造を相手にすることになる。
これは反発を招く。
人々は敵意を向けてくる。
人々は怖がる。
助けようとする人物を敵と見なし、ありとあらゆる方法で悪評をたて、誤解を広めようとする。

一面的な働きかけしかしない教師たち。
彼らは美しい花ではあるが、あまり役に立たない。
ジッドゥ・クリシュナムルティは、過去40年あまり、話し続けてきた。
人々は彼に耳を傾ける。
多くの人が40年以上にわたって彼の言葉に耳を傾けてきたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。

もちろん、もっと知識は増している。
議論や理屈がもっと得意になっている。
議論の相手としてなら、とてもよろしい。
観念の領域での微妙きわまりない題材を論じるのに慣れている。
目覚め、瞑想、意識をはじめとする多彩なテーマについて、こと細かに議論する。
とても有能、とても利口になっている。
だが、あいも変わらず凡俗であり、あいもかわらず愚かである。

変わったのはひとつだけ。
クリシュナムルティから仕入れた知識によって愚かさを隠すことができるようになった。
クリシュナムルティは知識人の玩具になった。
彼はあえて人々の人生に踏み込もうとしなかったからだ。
それをするのはもちろん危険なこと、火を扱うようなことだが。

シュリ・ラマン(ラマナ・マハルシ)も、人々にとって、まったく申し分のない人物だった。
寺院で静かに坐る聖者。
人々はやってきて、花を捧げ、彼を礼拝する。
彼はただそれを見守るだけだ。
もちろん美しく見事な人物だが、一面的であったことは否めない。
人生を変えるほどの衝撃を与えなかった。
クリシュナムルティが人々の知性に訴えたのに対し、彼は人々の感情に訴えた。

ラーマクリシュナも同じだった。
多くの人たちが感動し、歓喜の涙を流した。
だが、それが彼らを変えることはなかった。
歓喜の涙は一時的なものだ。
家に帰れば、自分がまったく変わっていないことに気づく。

グルジエフはまさにパイオニアだった。
グルジエフとともに、人生における精神性の追求の新しい概念が生まれた。
彼はそれを「第四の道」(知性/感情/肉体のすべてに働きかける道)と呼んだ。
私もこの「第四の道」を追求する。

彼はひどく誤解された。
というのも、人に知識を授けたり、人の心を慰めたりには興味がなかった。
整然とした理論を提供したり、夢を見させてあげたりには興味がなかった。
涙や感激や感傷を誘ったりせず、尊敬も求めなかった。
彼は人に全面的な変容をもたらそうとした。

人に全面的な変容をもたらすには、ハンマーを使わなければならない。
人を形作っている多くの部分を削り落とす必要があるからだ。
人はひどい状態にあり、現状では、すべてがおかしなことになっている。
それを直さなければならない。
だが、人は自分の生き方にたいへん固執しているので、それを変えようとする人物、表面的に変えるのではなく核心において変えようとする人物は敬遠される。
怖がられる。
少数の勇気ある者だけが、グルジエフのような人物に近づいていく。
たいへんな勇気が必要だ。
だが、この勇気があってはじめて、人は生まれ変わることができる。

— Osho, “The Dhammapada” Vol. 2, #2 冒頭部分

さて、そういうわけでラティハンは「第五の道」ということになります。

そうしてそれは「ハンマーを使わずに人を変容させることが出来る道」であります。

PS
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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力とナフスamarah

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スシラ ブディ ダルマの中では諸力とナフス(nafsu)の関係について、一般的な形で述べられています。

つまり外界からの刺激を受けて諸力が働き、そのことによって人の中でいろいろな欲望、動機が発生して、それが行動に結びつく、、、と説明されています。

しかしながらスシラ ブディ ダルマでは個々の諸力と個々のナフスの1対1関係については言及されていません。

それについてのバパの言及があるのはスシラ ブディ ダルマを受けてから5年ほど過ぎた後のトークが最初になり、以降複数のトークで語られる事になります。

それらのトークの中でバパは4つの諸力と4つのナフスの対応関係などについて語っているのであります。

したがいまして、以下に記述される内容はスシラ ブディ ダルマには記述されておりませんが、それを補完するものになります。


さて、ナフス(nafs)というコトバはコーランに出てくることから分かる様にもともとはイスラムのものです。

それをイスラム神秘主義者であるスーフィー達が発展させて使ってきました。

そうして、その言葉がスーフィーズムと共にインドネシアに伝わり、そこでまた独自の展開をしました。

それが今、ジャワで使われているナフス(nafsu)という言葉になります。

ジャワでのナフスの意味するところは、人の中に常に存在している欲望、願い、動機、衝動を表すのであります。

そうして、バパもまたそのような使い方を踏襲しています。

さて、通常の生活では大方はナフスによって動いています。

こうしなければいけない、こうしたい、という動機があって次に行動が発生するのであります。

そのような動機、希望、欲望、意思をナフスといいます。

そうして、そのナフスの後ろにあってナフスに力を与えているものとしての生命力、あるいは諸力というものをバパは想定しています。

その生命力(ロホ)は全部で9種類ある、というのがバパの説明でもありますし、ジャワ伝統的イスラムのとらえ方でもあります。

(但しジャワイスラムは「ナフスに力を与えているものがロホである」という立場はとってはいません。
しかしながら、ナフスとロホが人の中にありそれぞれが固有の働きをしている、ということは主張しています。)<--リンク


さて、もともとコーランで記述されているナフスは3つ(アマラ、ルアマ、ムトマイナ)でしたが、ジャワに伝わってスフィアが追加され4つに増えました。

そうして、最初の3つは人が持っている、あまり好ましくはない欲望として記述される事が多い様です。

そして唯一ムトマイナのみは常に「このましい欲望」として記述されています。


さて、物質力によって発生するナフスはamarah(アマラ)であるとバパは言います。

まずはコーランの記載から。

「またわたし自身、無欠とはいえませんが、主が慈悲をかけた以外の(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。
本当にわたしの主は寛容にして慈悲深くあられます」(ママ)」
[Q 12: 54](“nafs ammāra” 該当部分)。

スーフィー マスターのナジュムッディーン・クブラー(Najm al-Dīn Kubrā, d. 1220)、彼はナフスを三段階に分け、ルーフとスィッルとを合わせた五段階のラターイフ論を展開するのですがそこでは
「悪を命令する魂(nafs ammāra)」
となります。<--リンク

Wikiより世界標準の7つのナフス(Nafs)によれば、<--リンク
1. ナフス・アンマーラ  an-nafs al-ʾammārah  扇動の魂

そしてワヤン(Wayang)での4ナフスシステムからは、<--リンク
2、赤はアマラ amarah の欲望で怒りにつながる

あるクバティナン流派での分類では、<--リンク     
第二はアマラ amarah すなわち自尊心,

そうして、最後はあるトークでのバパの説明からは、<--リンク
スクマ(sukma、精妙体)の色      対応するナフス(nafsu,passion)
第二は赤                   amarah 自己中心主義


そうして、バパは多くのトークでナフス・アマラについて語っています。

以下はそこからの引用になります。

7,20, 1957 - Bapak  
amarahの光あるいは放射の性質は、赤色です。
amarahは、盲目的に作用し、何が良いのかを理解していません。

9,29, 1957 - Bapak
amarahは、金持ちになるか、自分のために富を獲得したがる欲求。

8,6, 1959 - Bapak
amarahはエゴイスティック、がめつく、傲慢です。

8,7, 1959 - Bapak
amarahは、自己中心主義です。

3,5, 1963 - Bapak
あなたは、あなたのハートとマインドの中に存在する情熱「ammara」が「常に正しくありたい」とする欲求であるためにそれに従うことができます。

それは勝つためであり、賢さを認めさせる為であり、自分だけの為に生きるのであり、その願いは要するに、他人を凌駕するとともに、他人の力を排除または減少させたいという欲望であります。

あなたはこの情熱の影響を受けているとき、あなたがそれを楽しむからではなく、口論したい、戦いたい、他の人とは違っていたい、一人でいたい、時にはあなた自身の家族から、またはあなたの妻や夫から分離されてまでもそうしたいからなのです。

要するに、実際に利己主義と貪欲という欲望のために、人間が低いレベルに落ちるようになり、そして彼らの内部感覚とハートの中で、非常に簡単に貧困の深淵に落ち込んでしまいます。

9,13,1963 - Bapak
amarahと呼ばれる怒りの欲望があります。
この欲望が人をを操作するとき、それは彼らが口論することになり、意地悪く、自己中心的で争いたがります。

7,8, 1970 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、aluamahとamarahです。
それは貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。

8,23, 1971 バパ
したがって、あなたは、あなたの一生の間にamarahを取り除くことはできません。
amarahとは意志や欲望の事です。
強い意志がなければ、欲望がなければ、あなたは、服を買うことができませんでした。
あなたが地球上で行うすべての事は意志や欲望のためです。

11,26, 1972 - Bapak
ナフスは、仕事をしてこの世界で生活費を稼ぐためのエネルギーを提供するので、我々にとっては非常に有用です。

5,27, 1976 - Bapak
このような人々はまだ影響を受け、さらに低次の諸力と怒り(amarah)と貪欲(nafsu angkara)の情熱によって汚されています。

11,20, 1976 - Bapak
しかし、amarahは次々に多くの様々な形の欲望や意志で満たされています。
たとえば、怒りや貪欲、お金持ちになりたい、あるいは有名または賢くなりたい、自分一人のために生きたい、自分の快適さと喜びを願います。

6,18, 1981 - Bapak
最初の二つ(Aluamanah, amarah)は、貪欲や怒りの情熱です。
それは「勝ちたい」という人の情熱で、他人を倒す事を望み、常に上になりたがって、そして他のだれよりも優れていたがります。

5,9, 1985 - Bapak
ナフス amarahは貪欲や怒りの欲望と呼ばれます。
それは、常に人類を苦しめ、非常に楽しみながら慣れた戦いを引き起こして、そして他の人々のニーズに全く感覚を持たず、自分のニーズのためだけに、人々を抑圧し、彼らの自由と独立を奪うことを好みます。
そのナフスは、実際にナフスraiwaniと呼ばれる物質力のナフスです。
このナフスは非常に密接に人の存在に人の心を通じて結び付けられています。

6,17, 1985 - Bapak
私たちは常にナフスamarahの作用によって妨げられ乱されています。
または物質力のナフス。

6,24, 1985 - Bapak
amarahは口論、競合、意見の相違、憎しみ、嫌悪、などなどを発生させる情熱です。
これは、人々をして紛争、嫌悪と不調和の状態にさせます。
amarahは競合を引き起こし、それは物質生命力の存在に由来します。

11,25, 2002 - Ibu
amarahと呼ばれるものは働くための性質であり、これは人間が働かなければならないことを意味しています。
だから、誰かが「仕事をしたくない」と言うのは間違いです。
仕事をすること、仕事を楽しむことは人間の本性の一部なのです。

2,25, 2005 Ibu
そして、情熱amarah、働きたいという我々の欲望です。

PS
もともとコーランの中に記述されているナフスはアンマーラ、ラウアーマ、ムトマインナだと思われます。

そうして、それぞれがイスラムを信仰する者のそれぞれの状態をしていているものと理解しています。

それがスーフィズムになりますと、ナフスと言うのは一人のスーフィーが修行をしていく時に経験していく意識の階段の様に扱われていきます。

それによれば、まずはアンマーラではじまり、ラウアーマを経てムトマインナに至るという順番になっています。

この場合、それぞれのナフスは魂の発展段階(あるいは意識の発展段階)を示すものとして扱われれます。

したがって一人の修行者の中に2つ以上のナフスが同時に存在する事はありません。

このことがジャワで一般に認識されているナフス(nafsu)とスーフィーズムで扱われているナフス(nafs)との間での大きな違いとなっています。


そうしてジャワにおきましては「人は皆4人の兄弟と一緒に生まれてくる。」という言い伝えがあり、その発展形としてスーフィズムのナフスを吸収していったという経緯があります。

その吸収過程で3つしかなかったナフスにスーフィヤがついかされジャワ固有の「4つのナフス」という体系が出来上がったのでありました。

そうであれば、ジャワにおきましては人の中に常に同時に4つのナフスが存在する事になったのであります。

そうしてまたバパも「常に人の中に存在する4つのナフス」という考え方を用いながらラティハンを説明していったものと思われます。


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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力の性質と働き

スシラ ブディ ダルマの中では物質力の性質と働きについては、それぞれ例をあげて個別の形での説明をしています。

しかしながら、その説明では人の生活について与える影響についての全体像はなかなかつかみにくいのであります。

バパはスシラ ブディ ダルマを発表した後も多くのトークで物質力の性質とその影響について語っています。

以下はそのようなトークから関連していると思われる部分の引用です。

そういう訳で以下のものはスシラ ブディ ダルマを補完するものとなります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

7,20, 1957 - Bapak   
今説明した物質力から普通の人間力までの力は 常に人に同行し、この世界では、人間の生活を強化します。
これらの力は、人間自身の中にも存在します。
バパはそのように、このような力は、人間の外側と、人間の内側、両方にあることを述べています。

これが外部から入力する力が内側にある力によって受け入れられ、相互作用することができる理由です。
そうして、それらが地球上の人間の生活のためのフレームワークを構成するようにします。

あなたはこれらの力が人間を支配する力を持っていないことを知っている必要があります。
しかしながら、人間は自分自身の情熱(ナフス)を有するので、(人間は影響を受けます) 。
・・・・・
物質力は人間の内部感覚の中に見いだせるものの中では最強です。
今バパが装備であると説明したもの、つまりナフスを使う事によってひとたび物質力が人間の内部で影響力を獲得すると、先ほど説明した人間レベルより下の三つのナフス、aluamah, amarah 、sufiyah.を使う事によって、その人の中身が物質力によってさらに補強されます。
・・・・・
人間の中で支配権を握っているのが物質力であり、そしてまた上記の三つのナフスであるために、人間の感じ方や働き方、行動し理解するための意欲を呼び出すやり方はほとんど全面的に物質力によって強さを与えられ、物質力によって満たされています。
このような理由で人類のこんなに多くの人が物質力の影響を自分の理解や意識から取り除けないでいるのです。
・・・・・
人間の内部感覚に影響を与える他の力、植物力や動物力、人間力についても同様なことが言えますが、しかしこれらの力は人間の内部でそれほど強くは働いておりません。
なぜなら人間の意志と欲望は他の力よりも物質力をより好んでいるからであります。


9,29, 1957 - Bapak
人間のパートナーになってきたこれらの力(低次の諸力)に加えて、人間は神の意志により、彼が必要とする欲求(ナフス)を有し、それが活動的になり、働くための気持ちを人の中に起こさせます。
これらの欲求(ナフス)の巣は、人の心にあります。
それは人間の意志の心の中にあります。

7,8, 1970 - Bapak
もし人が物質の生命力の影響を受けていなかった場合は、人は衣服や住宅の事は何も知らないだろう。
また人は車、電車、飛行機、などの生活を支えるものを作る事はできないであろう故に、この世界での人間の生活の方法を維持することができないだろう。

11,5, 1970 - Bapak
明らかに、あなたは物質力からなるナフスamarahを取り除くことができません。
もしあなたがそれなしでやった場合は、またはあなたはそれを後に残した場合は、あなたは、今のような家屋、衣料品、機器類などの物質的なものについて知らないだろう。
それはあなたの生活のために働くもの、たとえば遠隔地への旅行をスピードアップするような機器などです。
・・・・・
物質力のナフスがなければ、人は荒っぽくて毒を持つ動物の攻撃から身を守るための道具を使用することができないであろう。

8,23, 1971 バパ
あなた方は、もし人と物が分離した場合は、人は家、衣服、さらにはお金についての知識がないだろうと言う事がわかります。
もし神が「あなた方の中には物質力がなければならない」ということを命じていなかった場合は、あなた方は、物質的なものを知ること、考えること、あるいは注意をすることすらできないでありましょう。
だから物質はあなた方の外部だけでなく、明らかにあなた方の中も存在します。

11,26, 1972 - Bapak
ナフスは生命力にその起源を持っているためです。
物質力が人の内部自己(inner self)の中を循環するとき、物質力が人間の心や思考の中を循環する際に、それはナフスamarahの性質を帯びます。


ナフスはあなたに、生活の為の費用を得る必要があり、そのための仕事をする意欲を供給するので、人がこの世界で生きていく上では非常に有用です。

5,27, 1976 - Bapak
なぜこちらとあちらが一致せず、調和していないのか?
それはお金のため、生活に必要なものを手に入れる事が必要な為です。

人はお金のために神に祈るか、仕事がうまくいくことを神に祈るべきである、そうすれば彼は昇進できるだろう、、、とか、彼らは非常にお金持ちになれますようにと神に祈ります。
このような人々は、低次の諸力とamarahと貪欲の情熱によってまだ影響を受け、まだ汚されています。

5,21, 1981 - Bapak
物質力は人の心に関連しています。

6,18, 1981 - Bapak
この物質力、ロホ rewani、または悪魔的な生命力、それと一緒に働くことができる、あるいはそれとハートとマインドが並行して働ける。
こうして人は彼がこの世界で彼の人生のために必要なすべてのものを作成することができるのです。


6,26, 1984 - Bapak
人間と物質との間のつながりは、ハートとマインドによるものであり、したがって、ハートとマインドは、物質の力の源です。
物質の影響から逃れようと試みる100万人のうち、多分一人のみが成功することができます。
問題は次のとおりです。
この影響から自分を解放するためには、人は死ぬ必要がある、、、ということです。

1,19, 1985 - Bapak
物質力の影響によって人の内的な視界が暗くなります。

5,9, 1985 - Bapak
人々は物質的なものが好きです。
彼らは、彼らの心でそれらを作成します。
あるいはそれらを作り上げ、有用な対象物にそれらを形造ります。
だから、物質的な対象物は非常に密接に人間の思考する心に結びついています。
もしビルについて何も考えていなかったら、この建物はここには存在しなかったでしょう。
人の思考する心は、この世界で彼の人生のために非常に重要です。
・・・・・
物質力は人々をお互いに非常に積極的であるようにする為に、その結果として戦争が起こるまでになります。
・・・・・
その物質的なナフスが誰かをしっかりとつかんでいる場合、その人は、悪魔に魅せられていると言うことができます。

6,17, 1985 - Bapak
私たちはナフスamarah、または物質力のナフスの作用によって常に妨げられ、乱されています。
・・・・・
言い換えれば、そのナフスで、人の存在の中の生命力で、人は服や家を作るために物質的なものを使用することが可能となり、空中を飛ぶことが可能な乗り物や事物を作成することができるようになります。
そうして今日では、人は宇宙空間で要塞を建造するためにそれらを使用することができます。
そしてこれは、物質世界の範囲のことです。

6,24, 1985 - Bapak
そして、これらの物質力は、私たちの一部であり、その力が、私たちの周りの物質的な世界に私たちを関わらせることを可能にします。
そうして、そうでなければ私たちは全く生きていけないでありましょう。

私たちは建物を建てることができないだろう。
私たちはどのような種類の文明であれ、持つ事は出来ないでしょう。
・・・・・
どのように物質力が私たちの邪魔をすることができますか?
なぜ我々は物質力を管理することができませんか?
そのようにできない理由は、この物質力が私たちの思考に非常に近く、密着しているからです。
それは実際に私たちの周りにあるすべての物質的なものを作り出したものが、私たちの心であるからです。
それゆえに物質が私たちの思考に近いのです。
(引用注:思考によってほとんど思考と一体化している物質力を管理する事は出来ない、、、ということです。
それはちょうど靴ひもを持ち上げる事で、自分自身を空中に持ち上げる事が出来ないのと同じ理由であります。)
・・・・・
物質は必要性を満たし、それが強烈に我々の思考に縛られているので、そのために物質が私たちの思考の上に巨大な影響力を持っており、私たちを支配することができ、物質が私たちを支配する力を獲得することになります。
・・・・・
だから、この物質力は純粋に私たちがこの世界に住んでいる間の時間のための暫定措置であることは明らかなのです。
従って物質力がわたしたちの生死を握るような力を持つべきではありません。
・・・・・
明らかに、物質それ自体が思考を介してのみ力を獲得します。
もし何の思考もそこになかった場合には、物質は無力になります。
ちょうど石や木がそうであるように。
だから、思考が物質を強力な何かに変換しているのです。

7,2, 1985 - Bapak
物質力がなければあなたは、このような建物を建設できませんでした。
あなたは服を知らないでありましょう。
あるいはあなたは、ドルあるいはお金を知らないでしょう。
それらは物質であるために、それらは存在しています。
・・・・・
したがって、そのナフスは私たちの敵であり、ナフスの中では我々は、穏やかで平和的ではありません。
そして私たちは神を礼拝する時間を持つ事がありません。
その理由は、物質的なナフス、nafsu amarahの故にであります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こうして物質力は「我々がこの3次元の物質世界、地球の上で生きてゆく為には必須の存在であり、我々が十分に注意して管理しながら使うべき存在である」というのがバパの主張であります。

しかしながら、すべて物事は二面的であり、この有用なものには強い副作用があります。

そして、それを一言でいうとnafsu amarahということになるのでした。<--リンク

PS
それにしてもどうして二代目はナフスの事を低次の諸力と表現するのでしょうか?

バパは決して低次の諸力とナフスを同一視するような事はなさいませんでした。

たとえばFebrurary 14, 2003 - イブのトークから
・・・・・
私たちのこの世での生活の中で私たちは低次の諸力から自由になることはありません。

我々が知っているように、これらの低次の諸力は次のものです。

aluwamah, amarah、supiah、およびMutmainnah。

これらの力は本当に存在し、そしてそれは我々がこの世界での生活のために私たちに備わっているという事が神の意志です。
・・・・・

生命世界は7つの層をなして存在しており、そこには全部で9つのロホがそれぞれの働きを持って存在し、そうして4つの低次の諸力と4つのナフスにはそれぞれの対応関係がある、というのがバパの基本的な主張であります。<--リンク

確かにこの事は知覚し認識する事、そうして理解する事はなかなかに難しいことであり、状況を複雑にしている様にもみえますが、そうであるからといってバパの主張を変更されるような事を何故に「バパのコトバを変更してはならない」と主張される、まさにその本人であるところの二代目がなさるのか、とても理解に苦しむのであります。

そしてそれは実際の所「スシラ ブディ ダルマ」を無視し、あるいはバパの主張の根幹を無視しているようにも取られかねないものなのであります。

 

連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

 

PS
バパは熱心にエンタプライズの事、そうして社会とのかかわり合いの事を語られました。

そうして、前述したようにエンタプライズと物質力は結びつきが非常に強いのであります。

しかしながら二代目はエンタプライズの事を語るのにあまり熱心とは思えません。

物質力の事を語らない二代目の、そのあたりの事はこちらの記事も参考になります。<--リンク

PS
物質力を管理状態に置く事は人間の力では無理であります。

それでラティハンが存在するようになりました。

これは人間をこえた力が働く修練方法です。

「このような方法でない限り、もはやこの強大な物質力を制御すると言う事は出来ない」というのがバパの主張です。

そうして、ラティハンの結果として、物質力が制御される事の結果として、あるべき所、本来の場所に物質力が収まることで、過大な強制力を使って無理をするということではなく自然にナフスamarahで象徴されているような欲望が変化していく、抑えられていくのであります。


スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力とお金

宇宙を作りあげた物質力が人に働くことで人は宇宙を、自分の身の回りの環境を理解することができました。

そうして多くの発見、発明に物質力は関与してきました。

そうやって作りあげてきたのが生命科学、医療技術を含む現在の科学技術文明です。


もう一つの物質力の関与の大きなものは、経済の発展に現れています。

そして経済発展の象徴的な存在はマネーです。

お金が存在するようになって、人々はより一層の経済発展を望み、それを推し進めてきました。

その意味で、マネーは物質力のかたまりのような存在であります。


通常、「生命力の最下位にあるのが物質力である」という説明を聞くと、「いや、私はもうそのレベルは卒業したから、、、。」と思い込みがちです。

しかしながら、お金の価値がわかる小学生以上の年齢のほとんどの人はお金が大好きです。

これは生活していく上でお金が必ず必要となるような社会に暮らしていることの必然の結果でしょう。

そうして我々の暮らす社会では、お金はそれを持つ事によって何でも好きなものが手に入る、万能のマジックパワーを持つものとされています。

それらはまた、お札と呼ぶその紙切れに価値を見出すことができる物質力を人間が所有している、と言う事から始まる話でもあります。

(当然のことながら、お金を必要としない暮らしをしている方々にはこの話は関係のない話です。
そしてそのような方たちはお金から離れている、、、というだけであって、物質力をコントロール出来ている訳ではありません。)

こうして「お金大好き」の我々はコトバを変えますれば「物質力大好き」なのであります。

この事は事実であり、否定のしようがありません。

バパが「人間は物質力を好む」といったのは明らかにこの事も含めてのことでありましょう。


さてこのお金、正体は紙に風景やら人物やらが細密画され、それと並んで数字が印刷されている、印刷物にすぎません。

そして、この代物が大事なもの、価値があるものと教えてくれるのが人の頭脳と相互作用できる物質力であります。

ちなみに動物の中でこの印刷物の価値が分かるのはヤギさんぐらいなものでしょう。

でもそれは少々ごわごわした舌触りの良くない、あまり上等でない食べ物としての認識であります。<--リンク


人間の場合は、この印刷物の後ろにあるものが理解できます。

そうして、これを所有することが好きになります。

ほとんどのものは、この所有物と交換して手に入れる事が可能であるからですね。


ここで問題が2つ発生します。

一つ目は「我々がお金を好きなのは良いが、果たして我々はお金に好かれているのか?」ということです。

「いやいやお金は生き物ではないのだから、そこには好きとか嫌いとかは無い」と言われるようですと、「私はお金に好かれてはいない」、「私はお金のことを理解していない」、と認めている様なものであります。

二つ目は「好きなのはいいのですが、それにおぼれてはいませんか?」、「お金に人生をしばられていませんか?」ということです。


バパが言う理想的なあり方、それは「我々はお金を好み、そうしてお金も我々を好む。しかしながらその主人は我々である。」というものであります。

そうであって初めて「私は物質力のレベルを卒業した。」といえるのでしょう。

そのような状態になる為のラティハンであります。

そうして、そのようになる為に我々は教育を受け、社会的に訓練され努力しなくてはなりません。

生まれながらにしてそのような状態の人はいないのであります。

その様な社会的努力がなければ希望するような状態には到達しないでありましょう。


このラティハンと言う贈り物は、勤勉に働く人のためのものであり、けっして宝くじが当たる事を夢みて暮らしている人の為のものでない事は明らかなことであります。

結局のところ、いくらラティハンをしても空中からお札が降ってくる事は無いのでありますれば。

お金は通常の方法で手に入れ、そうして上手に使うべきものなのであります。


PS
お金の話はその前提となっている社会の存在とは切り離せませんし、そうしてまた各個人の仕事(いずれかの組織に所属するにせよ、個人事業主になるにせよ)とも切り離すことはできません。

そうであればまたこの二つのテーマも物質力と関係をもつものなのであります。

そうして、人生のある時期はこの2つのものが、仕事とお金というものが主要なテーマとなり、避けて通ることはできません。

このようにしてバパが言うように我々の生活は物質力とは切り離すことはできず、したがって物質力とどのような関係を作りあげるのか、仕事とお金についてどのような理解を持ち、どのような態度で臨んでいくのかはとても大事な事になるのでした。

PS
「仕事とお金の話などラティハンとは関係ないだろう?」ですって。

いえいえ、4つの諸力が働いて宇宙が存在し我々が存在しそうして社会がありお金が存在しています。

従ってこれらのものはすべて4つの諸力と何らかの関係を持っているのであります。

そうして、ラティハンこそは我々のありようと4つの諸力の関係を正常にもどしてくれるものなのでありますれば。

仕事とお金についての理解というものも、ラティハンから生じても何の不思議もないのであります。

追伸
自分の進むべき方向とかつくべき職業とか、あるいは天職とかいう考え方に対してのバパの一応の回答がここにあります。<--リンク

ご参考までにどうぞご一読を。

PS
企業をおこすこと、エンタプライズとも言いますが、この活動も物質力とは密接な関係にある事は言うまでもありません。

そういう訳で、このページもご参考までに。<--リンク

PS
お金に関係した、少々古い話を一つ。

出エジプト記』によると、モーセシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされているのだが、麓に残されたイスラエルの民は時間の経過と共に忍耐力を失い、ついには、モーセは死んだと思うようになった。

不安になった民はアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願する。

アロンはそれに応じ、全民衆から貴金属の提出を命じる。

こうして鋳造の金の子牛が完成したのである。<--リンク
・・・・・
それを知った神はモーセに山を降りるように言い、怒り狂ったモーセによって金の子牛は破壊され火にくべられた、、、と続きます。

こうして人々は紀元前の昔から「目に見える具体的な形をしたものを礼拝すること」が好みなのでありました。

さてこの「金の子牛」はその時代ごとに姿、形をかえながら現代にまで至っております。

その見事な例がマネーでありましょう。

それぞれの国ごとに独自のマネーを作り出し、人々はそれを好み、そのありさまはまるでマネーを礼拝しているかの様であります。
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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-2

バパが1952年に受けた「詩篇」がスシラ ブディ ダルマである。<--リンク

それは、今のインドネシア語よりも古く、そして複雑で微妙な事を表現できるコトバで受けられた。

そうして、「詩」であるからには当然のように「韻を踏んで」受けられたものであります。

(ちなみに、神秘的な内容あるいは霊的な真実を語るのに詩の形式を用いるのはインドネシアの伝統の様です。

そして、神秘主義とジャワの伝統的な文学との関係は近く、たとえばワヤン(Wayang)の演目(ラコンlakon)、あるいはsuluk文献(ジャワ神秘的な文学)、Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)などを上げる事ができます。

その意味ではスシラ ブディ ダルマはジャワの伝統にしたがった、すぐれた文芸作品でもあるのでした。)

そして後日、バパによって現代のインドネシア語に訳されたが、もともとが詩でありますれば、普通の文章とは異なった書き方になっています。

つまりは、あまりロジカルな文章の構成にはなっておらず、自由に関連した話題にいったりきたりと、そういう表現方法になっています。

あるいは、最初がこうで、次がこうなって、その次が、、、というように整然と並べられている論文のようではありません。

もちろん追いかける事ができるロジックはそこにはありますが、それと同時に我々からすればあいまいに見える表現も混在しています。


さて、スシラ ブディ ダルマ、4つの諸力について書かれたものであると同時にラティハンの道しるべにもなっています。

それからもうひとつ、人間の日常生活といわゆるクジワアンと呼ばれる魂とか霊性とか言われているものとの関連も書かれています。

この三つのテーマがお互いに関連しながら記述が進んでいくものでありますれば、注意していないと混乱してしまうのであります。

そうでありますれば、ここでの記述の仕方はなるべく話の筋道が整理されたように表現してみるものです。

とはいいながら、スシラ ブディ ダルマに書かれている事柄全てに言及するものではありません。

そして、そのような内容詳細については原典を読んでいただくのが妥当であると思われます。


もうひとつの注意事項としては、バパの次の言葉に要約されるかと思われます。

「スシラ ブディ ダルマは頭で理解すべき本ではない。

決してそうではない。

ただ読みなさい。

そうすれば後に、書かれている事柄の意味を悟る事が出来るであろう。」(1971:WCG)

この表現では前提となっている「ラティハンの継続的な実習」が抜けています。

しかしながら、それは協会ではデフォルト(表現されない前提)ですので、しかたありません。


そういう訳で、単に頭でスシラ ブディ ダルマの内容を追いかけてみても何も起こりません。

逆に、ラティハンの体験、そうして日常生活への反映・体験などが先にあり、「ああ、そうか、そういうことか」と書かれている内容については後から理解できるものなのです。

あるいは、今の自分の状況とスシラ ブディ ダルマの記述から判断して、次はこのような事に注意が必要である、、、とラティハンと日常生活のガイドブックとして使えるものなのです。


さて、スシラ ブディ ダルマには前述したような人間存在が登場するまでに果たした諸力の働きについての記述はなく、諸力と人間が相互作用していろいろな事が起こっている、、、と言うところから始まります。

それは、ラティハンの道しるべとしてのスシラ ブディ ダルマの性格によるものであり、ラティハンと人とのかかわり合いを記述していくものであるからです。

そうしてこれから以下の記述は1987年発行の「スシラ ブディ ダルマ」に準拠していきます。


6~18ページ・・・ラティハンを受けるにあたっての諸般の注意事項

18~72ページ・・・物質力の説明、対象となる物質存在や物事とそれらが人に与える影響について(注1

        ・・・並行してラティハンがどのように進行、発展していくかについての記述

以下、順不同にて物質力の章で記述されている項目を並べておきます。

武器
服飾品
農具
運命
仕事
貧富の差
財産(お金)
商人(物の売り買い)
死後の生
オフィスワーク
教育とラティハン
人生の理解
物の世界に落ち込むこと

注1物質力の説明(1~3)、対象となる物質的な存在や物事とそれらが人に与える影響について<--リンク


さて、話を進めるにあたってまずはバパが良く使う心理学的な用語のおさらいをします。

まずはラサディリ(rasa diri)。

内部感覚(inner feeling)と訳されております。

もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」です。

そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。

こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。


しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。

「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。

これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。

実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。

そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。

ちなみに人間の欲望はジャワ神秘主義の伝統に従って4つのナフス(nafsu)に分類されて固有の名称を与えられています。

そうしてそれぞれがその力を得る源泉としての固有の生命力が想定されていますが、上位の生命力は下位の生命力と関係しているナフスをも制御できるとされています。

つまりジャスマニと呼ばれる人間の生命力が本当にrasa diriをみたしているならば、その人の思考、感情、欲望は人間的である、、、と言える訳であります。

そうしてそのような人はけっして「われを忘れて、衝動的に物事をやったり言ったりはしない」でありましょう。

その人はどのような状況下であっても人間的にふるまえるのです。

まあこれがジャスマニレベルにあるのかどうかという一つの判断基準です。


さて、そういう訳でrasa diriというのは心理学的なそうして霊的な意味での人間というものの内的な本質、そうして諸力の活動の舞台になるものであります。

そうして、まさにこのrasa diriがいろいろな間違いや不純物で充満しているのがその人の欠点になるとバパは言います。

それゆえに上位の生命力がrasa diriに入る事ができず、つまりは本来の主人の代わりに低次の諸力が入れ替わり立ち替わりその場所を占領している、、、と警告しているのです。

それでラティハンがまずは浄化からはじまりますが、その浄化の対象がこのrasa diriなのでありました。


ちなみにrasaについては、たとえばThe Logic of Rasa in Javaのような解説もありますので、こちらもご参照ください。<--リンク


そして以下はBudi(ブディ)というコトバについてのWikiの説明からの引用になります。

インドネシアの哲学的伝統の最も幸運な特徴は、philosophiaのその一体的な理解(知恵の愛)です。

西洋哲学の伝統で発生した「推論 reasoning」と「感覚 feeling」の二分法は、インドネシアで発生しませんでした。

かわりに それは「推論」と「感覚」を統合し、ブディ(Budi)と呼ばれます。
・・・・・
このように、インドネシアに、科学、精神性、宗教、哲学と技術がブディの顕現と実現である一般的な単語kebudayaan、(文化)で指定されています。
・・・・・
我々インドネシア人は、明確な分離や分類をしない。

哲学と宗教、宗教と霊性、(宗教と精神性)、精神性と科学、そうして科学と芸術。

要するに、インドネシアの文化は、どのような厳格な唯物論または頑固な観念論を知りませんでした。

私たちの科学と哲学は、私たちの宗教、精神性と芸術のように美的、芸術的です。
・・・・・
 私たちのボロブドゥール寺院、suluk文献(ジャワ神秘的な文学)、伝統舞踊や彫刻、楽器、伝統的な家屋や武器は、私たちの哲学、科学と精神のように美しく上品です。

私たちのブディ(Budi)は「合理的に扱う事 rationalizing 」と「感じる事 feeling」を一緒に結び付けるゆえに。

Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)は、詩的審美と哲学的論理を組み合わせる、そうして、kakawinsは、(ヒンドゥー教仏教に触発されたジャワ詩的文学)であります。
・・・・・
 結論として、インドネシア人によって保持されているブディの認識論は、心と感覚をバランスさせ、物質と観念を正当に扱います。

したがって、インドネシアの哲学的伝統においては、合理主義と経験主義の間または観念論と唯物論の間には対立はありません。」

・・・以上、The_Inner_Faculty_of_Budi・Wikiからの引用でした。<--リンク

Budiというコトバと同様に、インドネシアでは生理学的な現象も心理学的な要因でおきる現象も霊的な事でおきる事象もあまりはっきりとした区別をしない様です。

そうして使われるコトバもそのようであり、我々の分類から見ると随分とあいまいに見える事があります。

そのような事も「それぞれの国が築き上げてきた文化の違いによるものである」と認識しておく事は理解する上で必要であると思われます。
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