ラティハン日記・掲示板

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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力の性質と働き

スシラ ブディ ダルマの中では物質力の性質と働きについては、それぞれ例をあげて個別の形での説明をしています。

しかしながら、その説明では人の生活について与える影響についての全体像はなかなかつかみにくいのであります。

バパはスシラ ブディ ダルマを発表した後も多くのトークで物質力の性質とその影響について語っています。

以下はそのようなトークから関連していると思われる部分の引用です。

そういう訳で以下のものはスシラ ブディ ダルマを補完するものとなります。
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7,20, 1957 - Bapak   
今説明した物質力から普通の人間力までの力は 常に人に同行し、この世界では、人間の生活を強化します。
これらの力は、人間自身の中にも存在します。
バパはそのように、このような力は、人間の外側と、人間の内側、両方にあることを述べています。

これが外部から入力する力が内側にある力によって受け入れられ、相互作用することができる理由です。
そうして、それらが地球上の人間の生活のためのフレームワークを構成するようにします。

あなたはこれらの力が人間を支配する力を持っていないことを知っている必要があります。
しかしながら、人間は自分自身の情熱(ナフス)を有するので、(人間は影響を受けます) 。
・・・・・
物質力は人間の内部感覚の中に見いだせるものの中では最強です。
今バパが装備であると説明したもの、つまりナフスを使う事によってひとたび物質力が人間の内部で影響力を獲得すると、先ほど説明した人間レベルより下の三つのナフス、aluamah, amarah 、sufiyah.を使う事によって、その人の中身が物質力によってさらに補強されます。
・・・・・
人間の中で支配権を握っているのが物質力であり、そしてまた上記の三つのナフスであるために、人間の感じ方や働き方、行動し理解するための意欲を呼び出すやり方はほとんど全面的に物質力によって強さを与えられ、物質力によって満たされています。
このような理由で人類のこんなに多くの人が物質力の影響を自分の理解や意識から取り除けないでいるのです。
・・・・・
人間の内部感覚に影響を与える他の力、植物力や動物力、人間力についても同様なことが言えますが、しかしこれらの力は人間の内部でそれほど強くは働いておりません。
なぜなら人間の意志と欲望は他の力よりも物質力をより好んでいるからであります。


9,29, 1957 - Bapak
人間のパートナーになってきたこれらの力(低次の諸力)に加えて、人間は神の意志により、彼が必要とする欲求(ナフス)を有し、それが活動的になり、働くための気持ちを人の中に起こさせます。
これらの欲求(ナフス)の巣は、人の心にあります。
それは人間の意志の心の中にあります。

7,8, 1970 - Bapak
もし人が物質の生命力の影響を受けていなかった場合は、人は衣服や住宅の事は何も知らないだろう。
また人は車、電車、飛行機、などの生活を支えるものを作る事はできないであろう故に、この世界での人間の生活の方法を維持することができないだろう。

11,5, 1970 - Bapak
明らかに、あなたは物質力からなるナフスamarahを取り除くことができません。
もしあなたがそれなしでやった場合は、またはあなたはそれを後に残した場合は、あなたは、今のような家屋、衣料品、機器類などの物質的なものについて知らないだろう。
それはあなたの生活のために働くもの、たとえば遠隔地への旅行をスピードアップするような機器などです。
・・・・・
物質力のナフスがなければ、人は荒っぽくて毒を持つ動物の攻撃から身を守るための道具を使用することができないであろう。

8,23, 1971 バパ
あなた方は、もし人と物が分離した場合は、人は家、衣服、さらにはお金についての知識がないだろうと言う事がわかります。
もし神が「あなた方の中には物質力がなければならない」ということを命じていなかった場合は、あなた方は、物質的なものを知ること、考えること、あるいは注意をすることすらできないでありましょう。
だから物質はあなた方の外部だけでなく、明らかにあなた方の中も存在します。

11,26, 1972 - Bapak
ナフスは生命力にその起源を持っているためです。
物質力が人の内部自己(inner self)の中を循環するとき、物質力が人間の心や思考の中を循環する際に、それはナフスamarahの性質を帯びます。


ナフスはあなたに、生活の為の費用を得る必要があり、そのための仕事をする意欲を供給するので、人がこの世界で生きていく上では非常に有用です。

5,27, 1976 - Bapak
なぜこちらとあちらが一致せず、調和していないのか?
それはお金のため、生活に必要なものを手に入れる事が必要な為です。

人はお金のために神に祈るか、仕事がうまくいくことを神に祈るべきである、そうすれば彼は昇進できるだろう、、、とか、彼らは非常にお金持ちになれますようにと神に祈ります。
このような人々は、低次の諸力とamarahと貪欲の情熱によってまだ影響を受け、まだ汚されています。

5,21, 1981 - Bapak
物質力は人の心に関連しています。

6,18, 1981 - Bapak
この物質力、ロホ rewani、または悪魔的な生命力、それと一緒に働くことができる、あるいはそれとハートとマインドが並行して働ける。
こうして人は彼がこの世界で彼の人生のために必要なすべてのものを作成することができるのです。


6,26, 1984 - Bapak
人間と物質との間のつながりは、ハートとマインドによるものであり、したがって、ハートとマインドは、物質の力の源です。
物質の影響から逃れようと試みる100万人のうち、多分一人のみが成功することができます。
問題は次のとおりです。
この影響から自分を解放するためには、人は死ぬ必要がある、、、ということです。

1,19, 1985 - Bapak
物質力の影響によって人の内的な視界が暗くなります。

5,9, 1985 - Bapak
人々は物質的なものが好きです。
彼らは、彼らの心でそれらを作成します。
あるいはそれらを作り上げ、有用な対象物にそれらを形造ります。
だから、物質的な対象物は非常に密接に人間の思考する心に結びついています。
もしビルについて何も考えていなかったら、この建物はここには存在しなかったでしょう。
人の思考する心は、この世界で彼の人生のために非常に重要です。
・・・・・
物質力は人々をお互いに非常に積極的であるようにする為に、その結果として戦争が起こるまでになります。
・・・・・
その物質的なナフスが誰かをしっかりとつかんでいる場合、その人は、悪魔に魅せられていると言うことができます。

6,17, 1985 - Bapak
私たちはナフスamarah、または物質力のナフスの作用によって常に妨げられ、乱されています。
・・・・・
言い換えれば、そのナフスで、人の存在の中の生命力で、人は服や家を作るために物質的なものを使用することが可能となり、空中を飛ぶことが可能な乗り物や事物を作成することができるようになります。
そうして今日では、人は宇宙空間で要塞を建造するためにそれらを使用することができます。
そしてこれは、物質世界の範囲のことです。

6,24, 1985 - Bapak
そして、これらの物質力は、私たちの一部であり、その力が、私たちの周りの物質的な世界に私たちを関わらせることを可能にします。
そうして、そうでなければ私たちは全く生きていけないでありましょう。

私たちは建物を建てることができないだろう。
私たちはどのような種類の文明であれ、持つ事は出来ないでしょう。
・・・・・
どのように物質力が私たちの邪魔をすることができますか?
なぜ我々は物質力を管理することができませんか?
そのようにできない理由は、この物質力が私たちの思考に非常に近く、密着しているからです。
それは実際に私たちの周りにあるすべての物質的なものを作り出したものが、私たちの心であるからです。
それゆえに物質が私たちの思考に近いのです。
(引用注:思考によってほとんど思考と一体化している物質力を管理する事は出来ない、、、ということです。
それはちょうど靴ひもを持ち上げる事で、自分自身を空中に持ち上げる事が出来ないのと同じ理由であります。)
・・・・・
物質は必要性を満たし、それが強烈に我々の思考に縛られているので、そのために物質が私たちの思考の上に巨大な影響力を持っており、私たちを支配することができ、物質が私たちを支配する力を獲得することになります。
・・・・・
だから、この物質力は純粋に私たちがこの世界に住んでいる間の時間のための暫定措置であることは明らかなのです。
従って物質力がわたしたちの生死を握るような力を持つべきではありません。
・・・・・
明らかに、物質それ自体が思考を介してのみ力を獲得します。
もし何の思考もそこになかった場合には、物質は無力になります。
ちょうど石や木がそうであるように。
だから、思考が物質を強力な何かに変換しているのです。

7,2, 1985 - Bapak
物質力がなければあなたは、このような建物を建設できませんでした。
あなたは服を知らないでありましょう。
あるいはあなたは、ドルあるいはお金を知らないでしょう。
それらは物質であるために、それらは存在しています。
・・・・・
したがって、そのナフスは私たちの敵であり、ナフスの中では我々は、穏やかで平和的ではありません。
そして私たちは神を礼拝する時間を持つ事がありません。
その理由は、物質的なナフス、nafsu amarahの故にであります。

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こうして物質力は「我々がこの3次元の物質世界、地球の上で生きてゆく為には必須の存在であり、我々が十分に注意して管理しながら使うべき存在である」というのがバパの主張であります。

しかしながら、すべて物事は二面的であり、この有用なものには強い副作用があります。

そして、それを一言でいうとnafsu amarahということになるのでした。<--リンク

PS
それにしてもどうして二代目はナフスの事を低次の諸力と表現するのでしょうか?

バパは決して低次の諸力とナフスを同一視するような事はなさいませんでした。

たとえばFebrurary 14, 2003 - イブのトークから
・・・・・
私たちのこの世での生活の中で私たちは低次の諸力から自由になることはありません。

我々が知っているように、これらの低次の諸力は次のものです。

aluwamah, amarah、supiah、およびMutmainnah。

これらの力は本当に存在し、そしてそれは我々がこの世界での生活のために私たちに備わっているという事が神の意志です。
・・・・・

生命世界は7つの層をなして存在しており、そこには全部で9つのロホがそれぞれの働きを持って存在し、そうして4つの低次の諸力と4つのナフスにはそれぞれの対応関係がある、というのがバパの基本的な主張であります。<--リンク

確かにこの事は知覚し認識する事、そうして理解する事はなかなかに難しいことであり、状況を複雑にしている様にもみえますが、そうであるからといってバパの主張を変更されるような事を何故に「バパのコトバを変更してはならない」と主張される、まさにその本人であるところの二代目がなさるのか、とても理解に苦しむのであります。

そしてそれは実際の所「スシラ ブディ ダルマ」を無視し、あるいはバパの主張の根幹を無視しているようにも取られかねないものなのであります。

 

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PS
バパは熱心にエンタプライズの事、そうして社会とのかかわり合いの事を語られました。

そうして、前述したようにエンタプライズと物質力は結びつきが非常に強いのであります。

しかしながら二代目はエンタプライズの事を語るのにあまり熱心とは思えません。

物質力の事を語らない二代目の、そのあたりの事はこちらの記事も参考になります。<--リンク

PS
物質力を管理状態に置く事は人間の力では無理であります。

それでラティハンが存在するようになりました。

これは人間をこえた力が働く修練方法です。

「このような方法でない限り、もはやこの強大な物質力を制御すると言う事は出来ない」というのがバパの主張です。

そうして、ラティハンの結果として、物質力が制御される事の結果として、あるべき所、本来の場所に物質力が収まることで、過大な強制力を使って無理をするということではなく自然にナフスamarahで象徴されているような欲望が変化していく、抑えられていくのであります。


スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力とお金

宇宙を作りあげた物質力が人に働くことで人は宇宙を、自分の身の回りの環境を理解することができました。

そうして多くの発見、発明に物質力は関与してきました。

そうやって作りあげてきたのが生命科学、医療技術を含む現在の科学技術文明です。


もう一つの物質力の関与の大きなものは、経済の発展に現れています。

そして経済発展の象徴的な存在はマネーです。

お金が存在するようになって、人々はより一層の経済発展を望み、それを推し進めてきました。

その意味で、マネーは物質力のかたまりのような存在であります。


通常、「生命力の最下位にあるのが物質力である」という説明を聞くと、「いや、私はもうそのレベルは卒業したから、、、。」と思い込みがちです。

しかしながら、お金の価値がわかる小学生以上の年齢のほとんどの人はお金が大好きです。

これは生活していく上でお金が必ず必要となるような社会に暮らしていることの必然の結果でしょう。

そうして我々の暮らす社会では、お金はそれを持つ事によって何でも好きなものが手に入る、万能のマジックパワーを持つものとされています。

それらはまた、お札と呼ぶその紙切れに価値を見出すことができる物質力を人間が所有している、と言う事から始まる話でもあります。

(当然のことながら、お金を必要としない暮らしをしている方々にはこの話は関係のない話です。
そしてそのような方たちはお金から離れている、、、というだけであって、物質力をコントロール出来ている訳ではありません。)

こうして「お金大好き」の我々はコトバを変えますれば「物質力大好き」なのであります。

この事は事実であり、否定のしようがありません。

バパが「人間は物質力を好む」といったのは明らかにこの事も含めてのことでありましょう。


さてこのお金、正体は紙に風景やら人物やらが細密画され、それと並んで数字が印刷されている、印刷物にすぎません。

そして、この代物が大事なもの、価値があるものと教えてくれるのが人の頭脳と相互作用できる物質力であります。

ちなみに動物の中でこの印刷物の価値が分かるのはヤギさんぐらいなものでしょう。

でもそれは少々ごわごわした舌触りの良くない、あまり上等でない食べ物としての認識であります。<--リンク


人間の場合は、この印刷物の後ろにあるものが理解できます。

そうして、これを所有することが好きになります。

ほとんどのものは、この所有物と交換して手に入れる事が可能であるからですね。


ここで問題が2つ発生します。

一つ目は「我々がお金を好きなのは良いが、果たして我々はお金に好かれているのか?」ということです。

「いやいやお金は生き物ではないのだから、そこには好きとか嫌いとかは無い」と言われるようですと、「私はお金に好かれてはいない」、「私はお金のことを理解していない」、と認めている様なものであります。

二つ目は「好きなのはいいのですが、それにおぼれてはいませんか?」、「お金に人生をしばられていませんか?」ということです。


バパが言う理想的なあり方、それは「我々はお金を好み、そうしてお金も我々を好む。しかしながらその主人は我々である。」というものであります。

そうであって初めて「私は物質力のレベルを卒業した。」といえるのでしょう。

そのような状態になる為のラティハンであります。

そうして、そのようになる為に我々は教育を受け、社会的に訓練され努力しなくてはなりません。

生まれながらにしてそのような状態の人はいないのであります。

その様な社会的努力がなければ希望するような状態には到達しないでありましょう。


このラティハンと言う贈り物は、勤勉に働く人のためのものであり、けっして宝くじが当たる事を夢みて暮らしている人の為のものでない事は明らかなことであります。

結局のところ、いくらラティハンをしても空中からお札が降ってくる事は無いのでありますれば。

お金は通常の方法で手に入れ、そうして上手に使うべきものなのであります。


PS
お金の話はその前提となっている社会の存在とは切り離せませんし、そうしてまた各個人の仕事(いずれかの組織に所属するにせよ、個人事業主になるにせよ)とも切り離すことはできません。

そうであればまたこの二つのテーマも物質力と関係をもつものなのであります。

そうして、人生のある時期はこの2つのものが、仕事とお金というものが主要なテーマとなり、避けて通ることはできません。

このようにしてバパが言うように我々の生活は物質力とは切り離すことはできず、したがって物質力とどのような関係を作りあげるのか、仕事とお金についてどのような理解を持ち、どのような態度で臨んでいくのかはとても大事な事になるのでした。

PS
「仕事とお金の話などラティハンとは関係ないだろう?」ですって。

いえいえ、4つの諸力が働いて宇宙が存在し我々が存在しそうして社会がありお金が存在しています。

従ってこれらのものはすべて4つの諸力と何らかの関係を持っているのであります。

そうして、ラティハンこそは我々のありようと4つの諸力の関係を正常にもどしてくれるものなのでありますれば。

仕事とお金についての理解というものも、ラティハンから生じても何の不思議もないのであります。

追伸
自分の進むべき方向とかつくべき職業とか、あるいは天職とかいう考え方に対してのバパの一応の回答がここにあります。<--リンク

ご参考までにどうぞご一読を。

PS
企業をおこすこと、エンタプライズとも言いますが、この活動も物質力とは密接な関係にある事は言うまでもありません。

そういう訳で、このページもご参考までに。<--リンク

PS
お金に関係した、少々古い話を一つ。

出エジプト記』によると、モーセシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされているのだが、麓に残されたイスラエルの民は時間の経過と共に忍耐力を失い、ついには、モーセは死んだと思うようになった。

不安になった民はアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願する。

アロンはそれに応じ、全民衆から貴金属の提出を命じる。

こうして鋳造の金の子牛が完成したのである。<--リンク
・・・・・
それを知った神はモーセに山を降りるように言い、怒り狂ったモーセによって金の子牛は破壊され火にくべられた、、、と続きます。

こうして人々は紀元前の昔から「目に見える具体的な形をしたものを礼拝すること」が好みなのでありました。

さてこの「金の子牛」はその時代ごとに姿、形をかえながら現代にまで至っております。

その見事な例がマネーでありましょう。

それぞれの国ごとに独自のマネーを作り出し、人々はそれを好み、そのありさまはまるでマネーを礼拝しているかの様であります。
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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-2

バパが1952年に受けた「詩篇」がスシラ ブディ ダルマである。<--リンク

それは、今のインドネシア語よりも古く、そして複雑で微妙な事を表現できるコトバで受けられた。

そうして、「詩」であるからには当然のように「韻を踏んで」受けられたものであります。

(ちなみに、神秘的な内容あるいは霊的な真実を語るのに詩の形式を用いるのはインドネシアの伝統の様です。

そして、神秘主義とジャワの伝統的な文学との関係は近く、たとえばワヤン(Wayang)の演目(ラコンlakon)、あるいはsuluk文献(ジャワ神秘的な文学)、Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)などを上げる事ができます。

その意味ではスシラ ブディ ダルマはジャワの伝統にしたがった、すぐれた文芸作品でもあるのでした。)

そして後日、バパによって現代のインドネシア語に訳されたが、もともとが詩でありますれば、普通の文章とは異なった書き方になっています。

つまりは、あまりロジカルな文章の構成にはなっておらず、自由に関連した話題にいったりきたりと、そういう表現方法になっています。

あるいは、最初がこうで、次がこうなって、その次が、、、というように整然と並べられている論文のようではありません。

もちろん追いかける事ができるロジックはそこにはありますが、それと同時に我々からすればあいまいに見える表現も混在しています。


さて、スシラ ブディ ダルマ、4つの諸力について書かれたものであると同時にラティハンの道しるべにもなっています。

それからもうひとつ、人間の日常生活といわゆるクジワアンと呼ばれる魂とか霊性とか言われているものとの関連も書かれています。

この三つのテーマがお互いに関連しながら記述が進んでいくものでありますれば、注意していないと混乱してしまうのであります。

そうでありますれば、ここでの記述の仕方はなるべく話の筋道が整理されたように表現してみるものです。

とはいいながら、スシラ ブディ ダルマに書かれている事柄全てに言及するものではありません。

そして、そのような内容詳細については原典を読んでいただくのが妥当であると思われます。


もうひとつの注意事項としては、バパの次の言葉に要約されるかと思われます。

「スシラ ブディ ダルマは頭で理解すべき本ではない。

決してそうではない。

ただ読みなさい。

そうすれば後に、書かれている事柄の意味を悟る事が出来るであろう。」(1971:WCG)

この表現では前提となっている「ラティハンの継続的な実習」が抜けています。

しかしながら、それは協会ではデフォルト(表現されない前提)ですので、しかたありません。


そういう訳で、単に頭でスシラ ブディ ダルマの内容を追いかけてみても何も起こりません。

逆に、ラティハンの体験、そうして日常生活への反映・体験などが先にあり、「ああ、そうか、そういうことか」と書かれている内容については後から理解できるものなのです。

あるいは、今の自分の状況とスシラ ブディ ダルマの記述から判断して、次はこのような事に注意が必要である、、、とラティハンと日常生活のガイドブックとして使えるものなのです。


さて、スシラ ブディ ダルマには前述したような人間存在が登場するまでに果たした諸力の働きについての記述はなく、諸力と人間が相互作用していろいろな事が起こっている、、、と言うところから始まります。

それは、ラティハンの道しるべとしてのスシラ ブディ ダルマの性格によるものであり、ラティハンと人とのかかわり合いを記述していくものであるからです。

そうしてこれから以下の記述は1987年発行の「スシラ ブディ ダルマ」に準拠していきます。


6~18ページ・・・ラティハンを受けるにあたっての諸般の注意事項

18~72ページ・・・物質力の説明、対象となる物質存在や物事とそれらが人に与える影響について(注1

        ・・・並行してラティハンがどのように進行、発展していくかについての記述

以下、順不同にて物質力の章で記述されている項目を並べておきます。

武器
服飾品
農具
運命
仕事
貧富の差
財産(お金)
商人(物の売り買い)
死後の生
オフィスワーク
教育とラティハン
人生の理解
物の世界に落ち込むこと

注1物質力の説明(1~3)、対象となる物質的な存在や物事とそれらが人に与える影響について<--リンク


さて、話を進めるにあたってまずはバパが良く使う心理学的な用語のおさらいをします。

まずはラサディリ(rasa diri)。

内部感覚(inner feeling)と訳されております。

もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」です。

そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。

こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。


しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。

「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。

これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。

実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。

そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。

ちなみに人間の欲望はジャワ神秘主義の伝統に従って4つのナフス(nafsu)に分類されて固有の名称を与えられています。

そうしてそれぞれがその力を得る源泉としての固有の生命力が想定されていますが、上位の生命力は下位の生命力と関係しているナフスをも制御できるとされています。

つまりジャスマニと呼ばれる人間の生命力が本当にrasa diriをみたしているならば、その人の思考、感情、欲望は人間的である、、、と言える訳であります。

そうしてそのような人はけっして「われを忘れて、衝動的に物事をやったり言ったりはしない」でありましょう。

その人はどのような状況下であっても人間的にふるまえるのです。

まあこれがジャスマニレベルにあるのかどうかという一つの判断基準です。


さて、そういう訳でrasa diriというのは心理学的なそうして霊的な意味での人間というものの内的な本質、そうして諸力の活動の舞台になるものであります。

そうして、まさにこのrasa diriがいろいろな間違いや不純物で充満しているのがその人の欠点になるとバパは言います。

それゆえに上位の生命力がrasa diriに入る事ができず、つまりは本来の主人の代わりに低次の諸力が入れ替わり立ち替わりその場所を占領している、、、と警告しているのです。

それでラティハンがまずは浄化からはじまりますが、その浄化の対象がこのrasa diriなのでありました。


ちなみにrasaについては、たとえばThe Logic of Rasa in Javaのような解説もありますので、こちらもご参照ください。<--リンク


そして以下はBudi(ブディ)というコトバについてのWikiの説明からの引用になります。

インドネシアの哲学的伝統の最も幸運な特徴は、philosophiaのその一体的な理解(知恵の愛)です。

西洋哲学の伝統で発生した「推論 reasoning」と「感覚 feeling」の二分法は、インドネシアで発生しませんでした。

かわりに それは「推論」と「感覚」を統合し、ブディ(Budi)と呼ばれます。
・・・・・
このように、インドネシアに、科学、精神性、宗教、哲学と技術がブディの顕現と実現である一般的な単語kebudayaan、(文化)で指定されています。
・・・・・
我々インドネシア人は、明確な分離や分類をしない。

哲学と宗教、宗教と霊性、(宗教と精神性)、精神性と科学、そうして科学と芸術。

要するに、インドネシアの文化は、どのような厳格な唯物論または頑固な観念論を知りませんでした。

私たちの科学と哲学は、私たちの宗教、精神性と芸術のように美的、芸術的です。
・・・・・
 私たちのボロブドゥール寺院、suluk文献(ジャワ神秘的な文学)、伝統舞踊や彫刻、楽器、伝統的な家屋や武器は、私たちの哲学、科学と精神のように美しく上品です。

私たちのブディ(Budi)は「合理的に扱う事 rationalizing 」と「感じる事 feeling」を一緒に結び付けるゆえに。

Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)は、詩的審美と哲学的論理を組み合わせる、そうして、kakawinsは、(ヒンドゥー教仏教に触発されたジャワ詩的文学)であります。
・・・・・
 結論として、インドネシア人によって保持されているブディの認識論は、心と感覚をバランスさせ、物質と観念を正当に扱います。

したがって、インドネシアの哲学的伝統においては、合理主義と経験主義の間または観念論と唯物論の間には対立はありません。」

・・・以上、The_Inner_Faculty_of_Budi・Wikiからの引用でした。<--リンク

Budiというコトバと同様に、インドネシアでは生理学的な現象も心理学的な要因でおきる現象も霊的な事でおきる事象もあまりはっきりとした区別をしない様です。

そうして使われるコトバもそのようであり、我々の分類から見ると随分とあいまいに見える事があります。

そのような事も「それぞれの国が築き上げてきた文化の違いによるものである」と認識しておく事は理解する上で必要であると思われます。
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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-1

物質は地球上においては、原子レベルではその姿を自ら変える事は稀なことであります。

そのような、自ら変わる性質をもつ物質は放射性同位元素とよばれており、ウラニウムは人類にとって有用であるために特によく知られている放射性物質になりました。

放射性でない物質は地球の寿命とほぼ同じ程度のあと50億年ほどは安定して地球を形造ります。

しかしながら、今から50億年ほど経過すると太陽が巨大化しそのために地球は太陽に飲み込まれてしまうでしょう。<--リンク

地球を構成していた物質はそこでばらばらに分解され、ガス化します。

さて、そういう訳で地球の寿命の残りはあと50億年ほどであります。


そうして地球上での我々人間の肉眼で確認しやすい物質の変化といえば、「化学による物質合成」でありましょう。

たとえばプラスチック製品、合成繊維、洗濯用洗剤、塗料、などなど化学合成された物質で世の中は満たされております。

これらは皆、物質の持つ化学的な活性を人間が理解し生活に役立つように応用した結果であります。

そうしてそれらは皆、一見死んでいて動かない様に見えている物質の内部に活発な運動が、あるいは相互作用が存在している事を示しているのであります。

それらの運動・相互作用は速すぎて、あるいは小さすぎて人間の肉眼では捉えることはできませんが、物質力の「物質を理解し使いこなす」という力を使って人間はそのような運動を理解してきました。

そうしてさまざまな人工物を作り出していったのであります。


話が少々飛びますが、物質力の上の存在は植物力であります。

この力によって、地球上にはじめて生命がもたらされました。

その結果が植物の誕生です。

さてこの植物というものは、外部に存在するエネルギーを使って独自の方法で化学合成をおこないます。(注1)


そうやって、自分の体を構成する高分子を生み出しています。

そうではありますが、そのような化学合成が行える基本は物質そのものがもつ内部運動による化学活性が存在するからなのです。

そのように考えますと、上位の生命力はその下の生命力の活性状態を有効に使って、それとは質の異なる、上位の生命力の存在状態を作り出している様に見えます。

そうしてそのような階段状に進化・向上していくという構造が生命力の階層間の基本的な構造であるとするならば、人間力を超える次のレベルでも当然そうなっているように推測されるのであります。

(つまりは我々の意識状態というものは、我々が通常の日常生活で持っている様な、使っている様な、個人的な個別意識、エゴ(自己関心、自己利益重視)、あるいはパーソナリティというようなものを超えた意識状態に到達するのが次のステージの必然であるように思われるのであります。)


ところで我々人類の特徴を「物質力を使って人工物を作り出す種族である」と考える事ができます。

その場合、250万年~180万年まえあたりからそのような「人工物を作り出す」という兆候が見られ始めます。<--リンク

きりのいい所で、人類が人工物を作り始めたのは200万年前としましょうか。

その時点で明らかに人は自然を理解し、それに手を加え始めた、言いかえれば意識的に物質力を使い始めたのであります。

つまりは人は動物から人間へと変わった、それまでは人間の中には主に動物力までの力が働いていましたが、それ以降は同じ物質力ではありますが、人間が存在することになってようやく働き始めることができる部分の物質力を使い始めたのであります。

言い方をかえますれば、人間力の登場によって人は動物から人間になり、そうして次第に物質力のもつ2番目の相の力、自然を理解し、それに人の手を加えて人工的な何かを作り出す、ということを始めたのであります。

さて、そのように考えるとすれば、「アダムが地上暮らしを始めた、その時に4つの諸力が与えられた、」という話で象徴されているイベントは約200万年前ということになりそうです。(注2


この時以降、特に物質力の人によって、あるいは人の頭脳の働きによって、あるいはハートとマインドによって、活性化される部分が発揮する力が人の特徴となり、やがては人類の文明の爆発的な展開につながっていくのでありました。

特に2万年から現代にまでつながる文明の展開はこの力なしでは起こり得なかったでありましょう。

ちなみに日本の縄文文化のスタートは1万5千年前と言われています。<--リンク


この物質力を活性化させて使うという事は、逆に言いますれば、我々の頭脳が物質力によって刺激され、活性化されている、、、ということでもあります。<--リンク

つまり物質力と人の頭脳、思考力は非常に相性がいいのです。

いや、相性がいい、、、どころではなく、「もはや過剰に良すぎる、というレベルに来ている。」、その結果「人間に指導されるべき物質力が逆に人間を支配している」、というのがバパの主張であります。


宇宙が始まり展開してきたのは、まさに物質が始まり展開してきた、物質の、そうしてまた物質力の歴史そのものであります。

そうして、この物質と言うものがなければ宇宙は存在せず、銀河もなく、地球もなかったでありましょう。

ましてや、人類の歴史などというものはあるはずもなく、それらすべてが物質によるものなのであります。


他方で、バパによれば、生命力の階層のなかで物質力はベースになるものでありますが、その位置は一番低いところにあります。

そして、その物質力を基盤として植物力が存在し、動物力が存在し、最後に人間力に至るのがこの3次元世界の決まりであります。

そうして、この4つの諸力はアダムという主人公によって使われるものでなくてはならない、ここで言うアダムとは本来の人を象徴する存在でありますが、「4つの諸力のうちのどれか一つが主人公の座にすわっているのではだめですよ」、とバパは主張しているのであります。

そのような観点から、「現代では多くの人が主人公の座に物質力を座らせているようだ」、とバパは警告しています。

それでは本来の主人公はどうなっているかと言いますれば、物質力によって活性化した思考力やら意志力やら欲望によってぐるぐる巻きにされ、部屋の隅に放置されている、、、そんな状況の様です。

あるいは物質力の威力に目がくらみ、または物質力の魅力にとらわれてしまい、我をわすれた状態、本来の自分がお留守の状態ともいえますか。

(ちなみに物質力と人の頭脳、思考力との関係、相互作用について、このような観点で説明をされたのは、私が知る限りではバパが初めてであるように思われます。:注3


このような状況は当然、改善されなくてはいけません。

そうして、そのための手段、方法がラティハンであります。

物質力をいやがったり、さげすんだりする必要はありません。

もともと「生活に役だつように上手に使え」といって手渡された存在であります。<--リンク

ですから、うまく使えばいいのです。

ただし、物質力に酔っぱらっていてはいけません。

主人公はあくまで目を覚ましている事が求められているのであります。


(注1)木星の衛星エウロパの場合<--リンク

エネルギー源は熱であります。

そうして、水と多様な鉱物があれば生命誕生の可能性がある、、、とそのようにNASAは考えているのであります。


注2)アダムがいつごろから地上で暮らし始めたか?

ユダヤ民族の始まりをアダムとするのであれば、今から5000年ほど前ということになりそうです。(聖書より)

そうして、上記の200万年と5000年ではそれこそ「桁違いな話」になってしまいます。


あるいは、バパによれば700万年前にも地上には人類がいたとされています。(77・11・1 リマ)

そして地球史年表によれば650万年頃にヒト族とゴリラ族が分岐した様であります。<--リンク

そうでありますれば、バパの主張とWikiの主張はほぼ同じ様にみえます。

ただし300万年前のルーシーの姿からしますれば、人類といいましてもそれは現在の我々の姿からはかなり離れていたものと思われます。<--リンク


(注3)物質力の不思議

この宇宙で最も理解できないのは、それが理解できるということだ。」 アインシュタイン<--リンク

このアインシュタインのコトバが物質力の不思議を言い当てています。

我々は自然が、宇宙が理解できることをとりたてて「不思議だ」とは感じません。

生得的にそのような能力を持っている為に、「当然のことである」と感じているのです。

そうして、アインシュタインほどの思索の人でなければこの不思議さには思いが至らないのであります。


このアインシュタインの質問に対してバパは次のように答えるでありましょう。

「それは人間に思考力と物質力が与えられているからである」と。


アインシュタインの質問を今風に言いなおしますと「AI(人工知能)は自然を理解できるか?そうして発見と発明ができるのか?」というものになります。

このAIに対する質問の答えはいまだに出ておりません。

しかしながら、AIは思考は可能でありますが、物質力を使う事は出来ないと思われますので、バパの答えは「NO」となるものと思われます。

 

連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク
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1 名前:ウーサー :2016/10/29(土)

次のロハ二(Rohani)のステージには、何かの影響を受けて到達できる、、、というものではなさそうです。

ラティハンによって内部感覚が浄化され、整理され、そうしてロハ二の段階の生命力が入ってこれるぐらいの十分な広さが内部感覚に準備されてようやくそのようになるかと思われます。

そうして、その結果はと言いますれば、「生死の問題にけりがついた人の誕生」になるものと思われます。

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2 名前:ラティハン :2016/11/08(火)

もともと4つの諸力は「地上の生活に役だつように上手に使え」といって手渡された存在であります。

そうでありますれば、地上での人間の生活全般(仕事、家事、エンタプライズなど)にこれらの諸力がかかわり合いを持つ事は当然の成り行きです。

そしてその時のキーワードは「人間の存在」です。

我々の存在を通じてこれらの諸力が働き、その結果登場してきたのが我々の文化と社会でありましょう。

以下個人的な分類になりますが、各カテゴリーと諸力の関係を示します。

人間力:人間への理解ーー>社会、政治、法律、文化、宗教、芸術、教育、知識欲、結婚、福祉と争いごと(戦争)、ムトマイナー(nafsu mutmina)

動物力:動物への理解ーー>牧畜、酪農、漁業、動物との暮らし、種族保存本能、共存と食物としての利用、スピアー(nafsu supia)

植物力:植物への理解ーー>農業、林業園芸、植物との暮らし、共存と食物、食欲、生活材料としての利用(衣、住)、アルアマー(nafsu aluama)

物質力:物質への理解ーー>宇宙、地球の理解ーー>科学、技術、商工業、医療、金融、そうして経済発展と貧富の格差、金銭欲、地球温暖化、アマラー(nafsu amarah)


いずれの項目も人間の存在を抜きにしては考える事ができません。

そういう意味では、人間力の存在によって人間が登場し、そして登場した人間によってこれら4つの諸力が有効に使われてきたという事ができます。

そうではありますが、残念ながら時代は混迷を深めております。

これはバパに言わせれば、「4つの諸力を使うべき主人としての人間が、本来のあるべき立場を忘れたためである」と言う事になりそうです。

さてそういう訳で「スシラ ブディ ダルマ」の記述はそのような混迷の時代である「現代:1950年代のジャワ」から始まるのでありました。

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3 名前:メロンパン2016/11/18(金)

少々先走った話で恐縮なのでありますが、諸力がどのようにして我々に影響を与えるのか、その経路について。

物質力は見る、聞く、触るという3つの感覚器官が主な入口の様です。

つまりは我々が眠りから目覚めて、部屋の中を認識する、目覚めを意識したとたんに働き始める様です。

そうして、再び眠りに落ち込むまでその状態が続きます。

それゆえにバパが主張されているように、この世に目覚めて存在しているだけで、特に何をする訳でなくともすでに物質の世界におり、そうして人里離れた山の上、あるいは森の奥に行こうとも物質力の影響を受けるのであります。


植物力と動物力は通常は「飲み食いする」つまりは食事という行為に結びついています。

これは実際に「食べ物を体の中に取り込み消化、吸収する」行為になります。

そうして、その際に働く感覚は主に視覚、味覚、臭覚、そうして触覚(歯ざわり、舌触り、のどごしの感じ、胃の中での感覚など)でありましょう。

その上で個人的な経験を付け加えますれば、消化、吸収の過程でも人に対しての一定の影響力を持ちそうです。


そうして人間力は人と人が出会う事、関係し合う事でお互いに影響を与え、そして受取ります。

ここでは見る、聞く、触る、そうして臭覚と味覚、そういう意味では基本となる5つの感覚すべてが総動員される事になる訳であります。

・・・とまあ、そういうことになっている様です。

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スシラ ブディ ダルマ・1章 4つの諸力の登場-2

さて、ビッグバンとともに始まった我々の住まう宇宙ではありますが、単にドカンと爆発すればそれで自動的に生命が誕生できる宇宙が出来上がる訳ではありません。

究極の理論(万物の理論)として研究されている超弦理論によれば、考えられる宇宙の数(=真空の種類)はざっと10の500乗個あり、その中のどれかが我々が現実に住んでいる宇宙に相当するのでした。<--リンク

つまりはそのように物理法則と物理定数を決めてやらなくては、我々の宇宙は誕生できないのです。

その意味で、創造主の選択の余地は非常に大きく、そうしてもしこの宇宙しか作らなかったとしたら、慎重に物理法則を選び、物理定数はとてつもなく微妙な調整(ファイン チューニング)をしなければならなかった事になります。<--リンク


そうやって適切に選ばれた物理法則と十分にファインチューニングされた物理定数を決定した後で、創造主は「ポチッ」とビッグバンのボタンをクリックしたのでした。

クリックの度ごとに景色の異なる宇宙が創造されますが、いずれの宇宙でも生命が存在でき、人間までの進化が期待できる「地球という惑星」を生み出すことでしょう。

そうしてそれぞれの宇宙では優に2000億個を超える銀河を生み出し、2000億種類を超えるであろう人類を生み出す事になります。


さて、他の宇宙の事はさておき、我々の住んでいる宇宙の話に戻りましょう。

自然界に存在する基本的な力は4つであると物理学は教えています。

この四つの力は宇宙の発生と同時に発生し、その値(物理定数)が決まりました。

まずは核種変換をつかさどる「弱い力」と「強い力」。

この力の存在で物質は陽子1個の水素から陽子92個のウラニウムまで進化することが可能となりました。

その物質進化の結果、地球が生まれ、地上での原子力発電所も稼働できているのであります。

それからつぎはおなじみの「電磁気力」です。

このおかげで原子核の周りを電子がまわっている、いわゆる原子(アトム)とよばれる多様な物質ができあがりました。

原子が集まり、分子、そうして高分子、タンパク質などを構成できるのもこの力のおかげであります。

地球上の生命体の物質代謝、エネルギー代謝はこの力によって行われています。

そうして最後が「重力」です。

この力のおかげで宇宙は進化することができました。

水素とヘリウムガスが重力収縮することで恒星が生まれました。

そうして、それら恒星の中で物質変換がおこなわれ、物質が進化することができました。

そのおかげで地球が存在し、人類が存在できたのであります。

以上がこの3次元物質宇宙を支配している4つの基本的な力となります。

注1:現在の宇宙論ではこれ以外にダークマターダークエネルギーという、そのような物質とエネルギーを想定しないと現状の宇宙を説明できない、、、という認識に至っております。
ちなみにダークという言葉を日本語にしますと「暗黒」となりいかにも怪しげな響きをもちますが、これは単に「よく分かっていない、目には見えない」と言う程度で使われている言葉であります。)


さて、天の川銀河の中にも数多くの太陽系、そうして地球も存在することでありましょう。<--リンク

しかしながら、ハビタブルゾーン内に公転軌道が収まっているだけではたして人類にまで生命が進化できるかどうかは非常に疑問であります。<--リンク

そのあたりの事を以下「地球史年表」を見ながら再確認してみましょう。<--リンク


・41億年前 - 38億年前 後期重爆撃期

小惑星帯にあった隕石の元になる岩塊群の木星重力場による大掃除。

月の大部分のクレーターはこの時に作られた。

地球も同様に爆撃されたが、地殻変動により痕跡の多くは消えさった。

生命が進化した段階でクレーターを作るような隕石の落下が時たまあったとしたら、生命の進化は大いに妨げられた事になったでしょう。

木星によるお掃除終了後は、そのような確率が大幅に減少したのは確かなことでした。<--リンク

さらに重要なのはこの重爆撃で大量の水が地球にもたらされた事です。<--リンク

それによって現在の海が維持されています。


・45億5000万年前 月の形成

月の形成仮説の1つとして、地球に原始惑星が衝突して形成されたとするジャイアント・インパクト説がある。

月の働き<--リンク

月が生まれる前の地球の自転速度は今の3倍の8時間、今は月との引力や遠心力のお陰で速度が遅くなって24時間になっています。

もしもこの衝突が無くて月の誕生が無かったら、今でも地球の自転速度8時間のままで、もしそうだとすると学者の計算上では、地上は絶えず風速100mの風が吹き、その為に海の波高は30~50m、絶えず高波で平野は存在せず切り立った高地のみ、陸地は現在の1/3程度であとは海でした。

とても哺乳類が誕生できる環境ではなく、例え誕生してたとしても進化は非常に遅いものだったでしょう。

地球は月の引力とその遠心力によって北極南極を軸として自転している訳で、その月が無かったら地軸は安定せず、磁場も安定しなく、各所に磁極が移動、現在のような人間界の発展は難しかったと思われます。


地球の自転速度でいえば、早い場合は上記の様でありますが、たとえば金星の様に一回転するのに243日もかかりますと、これもまたひどい世界になります。

昼側は40度を超える高温になるでしょうし、夜側は氷点下に落ち込みすべて凍りつきます。

(ちなみに現状の地球の平均気温は15度Cです。この平均値は変わらないでしょうが、昼側が+25度の40度C、夜側がー25度のー10度Cになりそうです。)<--リンク

したがって、このような世界ではなかなか生物は高等生物まで進化できるとは思えません。

せいぜいが単細胞生物どまりかと思われます。


・32億年前 - 光合成をする生物が現れる。藍藻(シアノバクテリア)。

それまでは海中にも大気中にも酸素はなく、二酸化炭素の形であった。

これ以降、大気中に酸素が供給され、それがオゾンとなりオゾン層を形成することで太陽紫外線をカットして、生物の陸上進出が可能となった。


・それ以降

8億 - 6億年前 - 大規模な氷河時代であったとされる。

全地球凍結(スノーボールアース)時代を含んで、多くの氷河期と間氷期を繰り返す。

何回かの大規模な生物絶滅もあったがそれを生き延びたのが竜種と哺乳類、まあそういうことでした。

そうして竜種の絶滅のあとで哺乳類が繁栄し、それが人類に結びついていくのであります。


さて、最近の氷期が終わったのは、1万年ほど前です。<--リンク

現在は典型的な間氷期が1万2000年ほど続いています。

そうして、温暖化ガスの放出による地球温暖化がこのまま進むのか、それとも世界的な寒冷化をもたらす新しい氷期が間もなく始まるのかは、まだ不透明な状況ではあります。

いずれにしても、直近1万2000年の間氷期がこの地球文明の発展に大きく寄与した事は明らかであります。


さて、こうやって見てきましたように、単に公転軌道がハビタブルゾーンにあるだけで、その岩石型惑星に生命が誕生し、そうして人類にまで進化できるかどうかは、はなはだ疑問なのであります。

これが1000億の恒星、つまりは1000億の太陽系に一つの種類の人類が進化できる可能性があるかどうか、その程度の可能性と想定している理由であります。

地球生まれの我々にはこの地球環境はありふれたもの、大したことはないものの様に見えておりますが、なかなかどうして、奇跡と呼ぶにふさわしいほどの偶然が積み重なって生まれたものであります。

宇宙は広大でありますれば、この宇宙に我々人類のみが生息する、、、というのは思いあがりでありましょう。

しかしながら、この天の川銀河にも多くの太陽系、そうして多くの地球が存在するでしょうが、それらの地球に人間が進化しているかどうか、あるいはこれから進化できるかどうかは、なかなか難しいことであると思われるのです。

 

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1 名前:ラティハン :2016/09/22(木)

そのようにして奇跡的に誕生した地球であり、そうしてまた地球人類ではありますが、やがて終焉を迎えることになります。

そのあたり、「地球に定められし時」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
太陽を始めとする太陽系の惑星を作りだしたもともとのガスは、数多くの超新星爆発で作られたものでありました。

それゆえに、太陽も地球も、そうして地球生まれの我々も「星くずの集まり」なのであります。<--リンク

PS
こんな記事もありました。ご参考までに。

宇宙が自己認識する。」<--リンク

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 2 名前:ラティハン :2016/10/02(日)

以下4つの諸力の地球での年齢と人間の登場までの簡単なまとめ

1、物質力・・・138億歳(我々の暮らす宇宙の年齢と同じ)

(太陽系、そして地球の年齢・・・46億歳)

ビッグバンによって始まった我々が住まう宇宙を作りあげた力。

時間、空間、素粒子を生み出し、恒星、銀河、太陽系、そうして生命の誕生の舞台となった海と空と大地がある地球を生み出す。


2、植物力・・・40億歳

植物力によって我々の目にわかる形での地球上での生命の誕生が始まりました。

植物体は熱、あるいは化学物質、あるいは太陽光などをエネルギー源として(食べて)、自分の周りにある物質から自分の体を作り出しました。

そうして、そのようにして自分と同じ形のものを大量に作り出していくことが出来ました。


物質力によって生み出された地球上には酸素単体は存在せず、二酸化炭素の形で大気を作っていました。

二酸化炭素を吸収して酸素を吐き出すことで地球上の大気に酸素ガスを供給し続けているのも植物力の働きです。

これによってオゾンが生成され、有害な太陽紫外線がカットされることで後に生命が地上に進出可能になりました。

さらに大気中の酸素を呼吸に使う事で植物体よりも桁違いにエネルギー密度が高い動物体を作れるようにもなったのです。


3、動物力・・・10億歳

動物力によって植物体を食べることによってより効率的に自分の体を作り出す動物体が誕生します。

そうして、この捕食性の為に自らが自分の意志で移動できるのも動物体の大きな特徴であります。

自分の周りの環境を感じ取る力やそれに対応する力も植物体とはけた違いに高いのも動物体の特徴であります。

このために基本的に動物体は神経系を持つようになり、これが後に脳にまで進化していきます。

ユカタン半島に隕石落下、これで恐竜が絶滅・・・0.6億年前)


4、人間力・・・0.065億歳(650万歳)

人間力の登場によって動物は動物体から人体へと進化しました。

人間の特徴は、物質力を始めとして4つの諸力を理解し使うことが出来る点であります。

このもとになるものは大脳の発達でありましょう。

これによって人は自分の周りの物事を理解し、そうして自分に必要なように作り変える事ができました。

(ホモサピエンス、我々現生人類の直接の祖先登場・・・0.002億年前(20万年前)

(イエスの登場・・・0.00002億年前)


そうしてスシラ ブディ ダルマが語られる・・・64年前(1952年:バパ)

ちなみに5番目と6番目にあたる上位の生命力が働いたとしても、物理的形態としては我々のものと全く同じこの体に宿る事になります。<--リンク
(生命力としては相(フェーズ)が変わるのですが、今までの4つの諸力の場合とは違い、その影響は現状では物理的な形態には反映されない様です。
とはいえ、数千年オーダーで上位の生命力の影響を受けた場合は形態の変更が起こりうる可能性は排除できませんが、、、。)

そうしてそのような人類全体の変容というものを実際にバパは視野に入れていたと思われます。

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スシラ ブディ ダルマ・1章 4つの諸力の登場-1

人間を含んで4つの諸力は通常の3次元宇宙に存在し、目に見えます。

この4つとは物質(Rewani)にはじまり、植物(nabati,)、動物(hewani,)を経て人間(jasmani,)のレベルまでのことであることは、前回お話しました。

そして地球上での生活期間中に、ラティハンによってまずはジャスマニと呼ばれる人間本来の姿を取り戻すことが我々の最初の目的地になります。

その上のステージに行く道筋は、たぶんジャスマニを完全に自分のものにした人にはおのずと明らかにされるものでありましょう。

そうでありますれば、まずはジャスマニをめざして進むことが必要であり、まあその為のガイドブックがスシラ ブディ ダルマです。

そうはいっても、この本を読んだだけでは何事も起こりません。

そこにラティハンの実習が伴えばこそ、その成果が期待されるのであります。


さてスシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)は1952年にバパによって語られました。

そうして、今年は2016年になります。

スシラ ブディ ダルマが最初に語られてから64年が過ぎてしまいました。

そうして、その間に人類の持つ情報量、宇宙に関するもの、地球に関するもの、生命に関するものなどは飛躍的に増大しております。

従いまして、このシリーズではそのように新たに追加された情報と関連付けされた形でスシラ ブディ ダルマを語る事になります。


もともとのバパによって語られたスシラ ブディ ダルマは今も変わらずに、あるいは今後も変わらずにそこにあります。

しかしながら、そこに語られている内容に対する我々の理解のしかたは、当然のことながら時代の変化の影響を受けるでありましょう。

それが「時代の進みに歩調を合わせて進んでいきなさい。」というバパのメッセージでもあります。


4つの諸力の登場

バパによれば、「人間が地球で暮らすことになったときに4つの諸力が人間に与えられた。」ということです。(78・1・13クライストチャーチなど)

それまでのアダムの生活には4つの諸力は必要なかったのです。

ですから、この4つの諸力は地上生活用の生命力のワンセットになります。

それはちょうど人間が月面で暮らすときには、地球環境の一揃いを持っていく必要があることと相似的です。

ちなみにバパの言うアダムにはキリスト教で言う「原罪」はありません。

イスラムでは単に「アダムは神の指示で地上に降りて暮らし始めた」のであります。


さて、そのようにして神は一瞬で4つの諸力をアダムに与えたのであります。

まあしかしながら、我々が今持っている情報ではこの「一瞬」はとてつもなく長い時間の経過の後の「一瞬」です。

アダムに諸力を与える前にまずは宇宙を作り、地球を作り、そこに生命を誕生させなければなりませんでした。

それには138億年ほどの時間が必要であり、そうしてそのあとでようやく地球上にバパが言う所のアダムが住めるようになったのであります。<--リンク

そして聖書によればこの138億年はたったの6日間になるのではありますが、、、。


天文観測及び理論物理学によれば、真空の量子揺らぎから始まったビッグバンから四億年後に宇宙に初めて恒星が誕生し、そうしてそこから銀河が形成され、恒星の爆発による元素進化(核種変換)、恒星の世代交代のすえにようやく岩石質をもつ地球型惑星の誕生となります。<--リンク

我々の暮らしている地球を例に取りますれば、年齢は通説で46億年ほどです。<--リンク

つまりは最初の恒星の誕生から88億年経たないと太陽系、そして地球は誕生しなかった訳でありまして、結構な歴史がそこにはあったのであります。

そうして、その地球に最初の生命が誕生したのが40億年前であります。(単細胞生物)<--リンク

さて、この生命体の誕生をもって植物の誕生とするか、それとも光合成をする生命体の誕生まで待つかは議論がわかれますが、ここでは前者の立場をとります。

そうすると、ビッグバンで物質力が登場し、初めて宇宙に物質が作り出されました。

それから98億年たってようやく地球上に植物の登場とともに植物力が誕生したことになります。

そうして動物は10億年前に登場、植物力の登場から30億年かかってようやく動物力が登場です。

さて、最古の人類の登場は650万年まえ、動物力の登場から9.935億年かかっての人間力の登場であります。


これで4つの諸力の地球での年齢が明らかになりました。

物質力・・・138億歳(我々の暮らす宇宙の年齢と同じ)

(太陽系、そして地球の年齢・・・46億歳)

植物力・・・40億歳

動物力・・・10億歳

ユカタン半島に隕石落下、これで恐竜が絶滅・・・0.6億年前)

人間力・・・0.065億歳

(ホモサピエンス、我々現生人類の直接の先祖登場・・・0.002億年前)
(イエスの誕生・・・0.00002億年前)
まあざっとこんな感じであります。

そうして、このような宇宙の歴史をベースにした見方をすると、「物質は死んだものであるから、進化などしない」などというものの見方はとんでもない見当違いであることがはっきりとするのでありました。

もし物質に進化する能力がなければ、ビッグバンの後の宇宙にはいかほどの時間が経過しようとも、単に水素ガスが濃淡を持って広がっている、限りのない空間がどこまでも続く風景があるだけでしょう。

その世界には光り輝く恒星はなく、銀河系はなく、従って太陽系もなく、地球は存在しません。

現状のような変化にとんだ銀河や、太陽系、地球が存在しているのは、すべからく物質がもつ「進化する能力」のおかげなのでありました。

 

 PS

さて、我々の天の川銀河には2000~4000億個の恒星がある、つまりはそれだけの数の太陽系があるといってもいいでしょう。<--リンク

そうして、すくなくとも一つの太陽系には人類が生息中であります。(我々の事です。)

平均的には銀河系につき1000億個の恒星があるようで、それだけあれば我々と同じような「地球と呼べる惑星」に人類が進化している可能性は大でありましょう。

そうして、地球から見える範囲の宇宙にはおよそ1000億個の銀河系があるようです。<--リンク

さあそうなると、一つの銀河にその銀河に固有の種類の人類が生息しているだけで、1000億種類の人類が地球から観測可能な範囲の宇宙に生息していることになります。

しかしながら、それぞれの銀河の進化レベル、太陽系、地球の進化レベルもありますし、人類固有の寿命(たぶん長くても1000万年程度かと。地球ではすでに650万年は経過。のこりは350万年程度。)もあります。

つまり、もう進化が進みすぎて衰退ーー>消滅した人類もあるでしょうし、戦争その他で自滅した人類も想定できます。<--リンク


あるいは生命環境はOKなのですが、恐竜が全盛期である地球もあるでしょう。
(ちなみに竜種は自然環境を破壊することもなく、地球を何百回も焼け野原にする核兵器開発に血眼にもならず、生存に必要なものを充足させるだけの欲望に従っていたため、その生存期間はおよそ1億年ほどあったと思われます。)


そのようなことをあれやこれや勘案しますと、今、現時点でこの見える範囲の宇宙には2億種類程度の人類が、いろいろな進化レベルで生息中と想定できます。

さて、そうでありますれば宇宙の創造主である「唯一の神」はこの2億種類の人類の面倒を同時に見ることになります。

そうして、この宇宙の大きさは地球から見える範囲を超えて広がっているのはあきらかでありますれば、今、現時点でこの宇宙に生息する人類の数はゆうに4億種類を超えるでありましょう。

そういうわけで、宇宙の創造主たる「唯一の神」はこの天の川銀河の片隅にある、地球という惑星に生息中の人類のみにかかわっている訳にはいかないのであります。

 PS

地球型惑星の数は、それこそ天文学的だ<--リンク

 

PS

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1 名前:ラティハン :2016/08/27(土)

上記では「人間を含んで4つの諸力は通常の3次元宇宙に存在し、目に見えます。」と書き出しましたが、正確には諸力そのものは目にはみえません。

目に見えるのは諸力が「依り代」としている巨岩などの物質そのもの、あるいは物質でできたもの、宝石やら短剣(クリス)、御札やら位牌、水(聖水)やら聖灰、植物体、動物体、人体であります。<--リンク

そうすると物質そのもの(原子、アトム)が諸力の元になるもの、3次元世界をこえた諸力が存在する次元をもっている、というふうに考えられます。

そうであればこそ、物質がそれらの諸力(ロホ、roh)によって「依り代」として使う事ができるのでありましょう。

さて、そのようでありますれば、地球が存在しただけでは地球上には物質力があるだけでした。

そこに植物体が登場してようやく植物力が安定的に存在し機能できるようになります。

同様に動物体が登場して動物力が働けるようになり、人体が登場して人間力が作用し始めたことになります。

このように地球上での目に見える存在としての「依り代」の登場をもってその力が登場したと考えることで、上記の数値が諸力の地球上における年齢となる訳であります。

(あるいは、諸力の登場が先に在って、それに合わせる形で物質、植物体、動物体、人体が現れたと考える事も可能であります。

そうして実はそのように考えるのが存在一性論の考え方であり、それを発展させたマルタバト・トゥジュ Martabat Tujuhの考え方になるのでした。)

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2 名前:ラティハン :2016/09/06(火)

上記で述べました様に「今、現時点でこの宇宙に生息する人類の数はゆうに4億種類を超える」でありましょうが、その中で我々と同等以上の科学レベルに到達している人類は我々が観測しているのと同じこの宇宙を観測しているでありましょう。

そうなりますと、銀河の後退速度の観測結果からおのずとビッグバン理論に到達することになります。

さらには重力の観測と考察から一般相対論にたどりつきます。

自分たちの太陽を考察すれば、核融合にたどり着き、ビッグバン理論と合わせ考察することで物質の恒星内部での進化に行き当たります。

他方で自分の周りの自然観察から光学理論、電磁気学量子論放射性同位体から核理論に到達します。

こうしてこの物質宇宙を支配している諸法則の理解に到達するのは必然の道のりなのであります。

さて、そのようにして発展してきたもう一つの地球には唯一神を信仰するような宗教は存在するのでしょうか?

あるいは、そもそも宗教なるもの、物質以上の霊的存在を認めるものは存在するのでしょうか?

もう一つの地球と通信が可能であれば確認できることではありますが、なにせ距離が離れすぎておりますので、このことはたぶん永遠に不可能でありましょう。

そうして、そのようにもう一つの地球に暮らす人類も考えているものと思われます。
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スシラ ブディ ダルマ・はじめに・2

こんなことを言っている団体もあります。<--リンク

Looking at the original Sanskrit roots and their meanings we can see the connections with both Hindu and Buddhist principles:
オリジナルのサンスクリット語のルーツとその意味を見ている私たちは、ヒンドゥー教仏教の原則の両方の接続を見ることができます:

Sila means virtue, good conduct, morality or ethical behaviour, and in Buddhism represents intentional action.
シラは美徳、善行、道徳や倫理的な行動を意味し、仏教に意図的なアクションを表します。

Budh means to know or to wake. In Buddhism, bodhi means enlightenment or awakening to the inner wisdom accessible to all, and the title Buddha simply refers to one who is awakened.
Budhは知っているか、目を覚ますことを意味します。仏教では、菩提は、すべてにアクセス可能な内なる知恵と悟りや覚醒を意味し、仏陀とは単に「目覚めた者」ということです。

Dharma has a wider range of meanings. For example, in Hinduism it is defined as duty or the natural order of the universe, whereas in Buddhism it refers to the teachings of the Buddha.
ダルマは、意味の広い範囲を持っています。仏教では、仏の教えを意味し、一方、例えば、ヒンズー教では、義務や宇宙の自然な順序として定義されています。

 

そうしてまたこんな風に言う人たちもいます。<--リンク

The first word, Susila means to act humanely.
最初の単語は、Susilaは人道的に行動することを意味します。

It describes someone with a soul, an inner feeling, that is human.
それは人間であり、魂、内側の感覚、との誰かを説明しています。

It describes someone who helps others, who cares for others, who works to put right a bad situation, who helps those who have less than they do;
それは彼らがよりも少ないを持っている人を助け権利悪い状況を、置くために働く他の人のために気に他の人を助け、誰かを記述する。

someone who loves other human beings and who does not discriminate between one person or another, because everyone is one - they are all human beings.
誰もがひとつであるため、他の人間を愛し、誰かが、1人または別の間を区別しない - 彼らはすべての人間である。

And having that attitude, having that feeling, opens the way for such a person and makes it easier for him or her to get everything they need to live in this world.
そしてその気持ちを持つ、その態度を持つ、そのような人のために道を開き、それが簡単に彼または彼女は、彼らがこの世界で生きるために必要なすべてを取得できるようになります。

 

あるいはこんな風にも訳します。<--リンク

Susila means good moral and ethical behaviour - our outer self;
Susilaはいい道徳的、倫理的な行動を意味 - 私たちの外側の自己;

Budhi refers to the atom of the Divine, or the ultimate power in the Universe, working in our inner self;
Budhiは、私たちの内なる自分で働いて、神の原子、または宇宙の究極の力を指し;

Dharma brings these two together,
through the practice of the spiritual latihan,
to create an integrated, harmonious whole human being.
ダルマは、これら二つをもたらし( 訳注:二つとはたぶんSusilaとBudhiのことと思われます)
精神的なlatihanの実践を通して、
統合された、調和のとれた人間の存在全体を作成します。

 

さてこの言葉、博学のベネットさんにかかるとこういうことになります。<--リンク

The ancient Sanskrit language from which these words are taken belongs to the Hemitheandric Epoch, and has not been a spoken language for nearly three thousand years.
これらの言葉が取られているから、古代サンスクリット語はHemitheandricエポックに属し、ほぼ3000年間、話し言葉ではなかった。

Nearly all the wisdom of the old Epochs has been lost, and we do not understand much of the symbolism of the Vedas and Brahmanas.
古いエポックのほぼすべての知恵が失われました、我々はヴェーダブラフマン(Brahmanas)の象徴の多くを理解していない。

Yet the three words Susila?Budhi?Dharma convey a deep and vivid meaning as they are interpreted by Pak Subuh.
彼らはパ スブーによって解釈されるように、まだ3言葉Susila-Budhi-ダルマは深く、鮮やかな意味を伝える。

Susila means literally to have good morals.
Susila、良い道徳を持っている、と文字通り意味します。

Pak Subuh describes it as "Right living according to the Will of God."
パ スブーは「正しい神の意志に従って生きている。」としてそれを説明します。

The word Budhi has baffled the commentators.
言葉Budhiはコメンテーターを困惑させている。

Some understand by it the Power of the Intellect, others Consciousness, and others again explain it as the inner agent, or will of man.
いくつかは、それによって知性の力、他の人の意識を理解し、他の人は再び内部のエージェント(代理人)、または人間の意志としてそれを説明する。

Pak Subuh takes it to mean "The inner force or power that resides within the nature of man himself."
パ スブーは "人間自身の本質内にある内側の力やパワー。"というように、それを取る。

It is not the individuality or self-hood of man, nor even his soul, but rather the limitless potentiality for development and progress that is the true motive power in the spiritual life.
それは個性や人間の自己自身の、あるいは彼の魂を指しておらず、むしろ精神的な生活の中で真の動力である発展と進歩のための無限の可能性を示しています。


Few Sanskrit words have been so misused as Dharma.
いくつかのサンスクリット語の言葉はとてもダルマとして誤用されています。

In the motto of the Theosophical SocietyーNasti Satyat para Dharmoーit is translated as religion.
神智学協会 - Nasti SatyatパラをモットーにDharmo - それは宗教として変換されます。

It is often taken to mean law, or the world order.
これは、しばしば、法律、または世界秩序を意味するものと解釈される。

Others again translate it as duty or even fate.
その他もう一度義務あるいは運命としてそれを翻訳します。

The Pali equivalent, Dhamma, occurs in one of the most ancient Buddhist scripturesーthe Dhammapadaーas the description of the way of life of the Bhikkhu or Buddhist mendicant priest.
パーリ語と同等、ダンマは、最も古い仏教の経典 - ダンマパダ-比丘や仏教の托鉢、司祭の生き方の記述のひとつとして記述されます。

Pak Subuh interprets Dharma to mean "Submission, surrender and sincerity in receiving the gift of Grace from the Almighty."
パ スブーはダルマを "服従、降伏と誠実さにより、全能からグレース(恵み)の贈り物を受け取ること。"と意味するように解釈します。


When the three words are combined, they denote the perfect harmony of the inner life (Budhi) and outer life (Susila) that is attained when our entire being is submitted to the Will of God as it is revealed to us through the highest centre of consciousness, seated not in the brain but in the soul.
三つの言葉を組み合わせた場合に、それが最高の中心を通って私たちに明らかにされているように、それらは私達の人間の全体は神の意志に提出されたときに達成される内側の生活(Budhi)と外生命(Susila)の完璧な調和を示し、意識はなく、脳内ではなく、魂に着席。

 

PS
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