ラティハン日記・掲示板

ラティハンに関係したいろいろな事の掲示板です。There are many varieties of bulletin boards related to Latihan.

スシラ ブディ ダルマ・1章 4つの諸力の登場-1

人間を含んで4つの諸力は通常の3次元宇宙に存在し、目に見えます。

この4つとは物質(Rewani)にはじまり、植物(nabati,)、動物(hewani,)を経て人間(jasmani,)のレベルまでのことであることは、前回お話しました。

そして地球上での生活期間中に、ラティハンによってまずはジャスマニと呼ばれる人間本来の姿を取り戻すことが我々の最初の目的地になります。

その上のステージに行く道筋は、たぶんジャスマニを完全に自分のものにした人にはおのずと明らかにされるものでありましょう。

そうでありますれば、まずはジャスマニをめざして進むことが必要であり、まあその為のガイドブックがスシラ ブディ ダルマです。

そうはいっても、この本を読んだだけでは何事も起こりません。

そこにラティハンの実習が伴えばこそ、その成果が期待されるのであります。


さてスシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)は1952年にバパによって語られました。

そうして、今年は2016年になります。

スシラ ブディ ダルマが最初に語られてから64年が過ぎてしまいました。

そうして、その間に人類の持つ情報量、宇宙に関するもの、地球に関するもの、生命に関するものなどは飛躍的に増大しております。

従いまして、このシリーズではそのように新たに追加された情報と関連付けされた形でスシラ ブディ ダルマを語る事になります。


もともとのバパによって語られたスシラ ブディ ダルマは今も変わらずに、あるいは今後も変わらずにそこにあります。

しかしながら、そこに語られている内容に対する我々の理解のしかたは、当然のことながら時代の変化の影響を受けるでありましょう。

それが「時代の進みに歩調を合わせて進んでいきなさい。」というバパのメッセージでもあります。


4つの諸力の登場

バパによれば、「人間が地球で暮らすことになったときに4つの諸力が人間に与えられた。」ということです。(78・1・13クライストチャーチなど)

それまでのアダムの生活には4つの諸力は必要なかったのです。

ですから、この4つの諸力は地上生活用の生命力のワンセットになります。

それはちょうど人間が月面で暮らすときには、地球環境の一揃いを持っていく必要があることと相似的です。

ちなみにバパの言うアダムにはキリスト教で言う「原罪」はありません。

イスラムでは単に「アダムは神の指示で地上に降りて暮らし始めた」のであります。


さて、そのようにして神は一瞬で4つの諸力をアダムに与えたのであります。

まあしかしながら、我々が今持っている情報ではこの「一瞬」はとてつもなく長い時間の経過の後の「一瞬」です。

アダムに諸力を与える前にまずは宇宙を作り、地球を作り、そこに生命を誕生させなければなりませんでした。

それには138億年ほどの時間が必要であり、そうしてそのあとでようやく地球上にバパが言う所のアダムが住めるようになったのであります。<--リンク

そして聖書によればこの138億年はたったの6日間になるのではありますが、、、。


天文観測及び理論物理学によれば、真空の量子揺らぎから始まったビッグバンから四億年後に宇宙に初めて恒星が誕生し、そうしてそこから銀河が形成され、恒星の爆発による元素進化(核種変換)、恒星の世代交代のすえにようやく岩石質をもつ地球型惑星の誕生となります。<--リンク

我々の暮らしている地球を例に取りますれば、年齢は通説で46億年ほどです。<--リンク

つまりは最初の恒星の誕生から88億年経たないと太陽系、そして地球は誕生しなかった訳でありまして、結構な歴史がそこにはあったのであります。

そうして、その地球に最初の生命が誕生したのが40億年前であります。(単細胞生物)<--リンク

さて、この生命体の誕生をもって植物の誕生とするか、それとも光合成をする生命体の誕生まで待つかは議論がわかれますが、ここでは前者の立場をとります。

そうすると、ビッグバンで物質力が登場し、初めて宇宙に物質が作り出されました。

それから98億年たってようやく地球上に植物の登場とともに植物力が誕生したことになります。

そうして動物は10億年前に登場、植物力の登場から30億年かかってようやく動物力が登場です。

さて、最古の人類の登場は650万年まえ、動物力の登場から9.935億年かかっての人間力の登場であります。


これで4つの諸力の地球での年齢が明らかになりました。

物質力・・・138億歳(我々の暮らす宇宙の年齢と同じ)

(太陽系、そして地球の年齢・・・46億歳)

植物力・・・40億歳

動物力・・・10億歳

ユカタン半島に隕石落下、これで恐竜が絶滅・・・0.6億年前)

人間力・・・0.065億歳

(ホモサピエンス、我々現生人類の直接の先祖登場・・・0.002億年前)
(イエスの誕生・・・0.00002億年前)
まあざっとこんな感じであります。

そうして、このような宇宙の歴史をベースにした見方をすると、「物質は死んだものであるから、進化などしない」などというものの見方はとんでもない見当違いであることがはっきりとするのでありました。

もし物質に進化する能力がなければ、ビッグバンの後の宇宙にはいかほどの時間が経過しようとも、単に水素ガスが濃淡を持って広がっている、限りのない空間がどこまでも続く風景があるだけでしょう。

その世界には光り輝く恒星はなく、銀河系はなく、従って太陽系もなく、地球は存在しません。

現状のような変化にとんだ銀河や、太陽系、地球が存在しているのは、すべからく物質がもつ「進化する能力」のおかげなのでありました。

 

 PS

さて、我々の天の川銀河には2000~4000億個の恒星がある、つまりはそれだけの数の太陽系があるといってもいいでしょう。<--リンク

そうして、すくなくとも一つの太陽系には人類が生息中であります。(我々の事です。)

平均的には銀河系につき1000億個の恒星があるようで、それだけあれば我々と同じような「地球と呼べる惑星」に人類が進化している可能性は大でありましょう。

そうして、地球から見える範囲の宇宙にはおよそ1000億個の銀河系があるようです。<--リンク

さあそうなると、一つの銀河にその銀河に固有の種類の人類が生息しているだけで、1000億種類の人類が地球から観測可能な範囲の宇宙に生息していることになります。

しかしながら、それぞれの銀河の進化レベル、太陽系、地球の進化レベルもありますし、人類固有の寿命(たぶん長くても1000万年程度かと。地球ではすでに650万年は経過。のこりは350万年程度。)もあります。

つまり、もう進化が進みすぎて衰退ーー>消滅した人類もあるでしょうし、戦争その他で自滅した人類も想定できます。<--リンク


あるいは生命環境はOKなのですが、恐竜が全盛期である地球もあるでしょう。
(ちなみに竜種は自然環境を破壊することもなく、地球を何百回も焼け野原にする核兵器開発に血眼にもならず、生存に必要なものを充足させるだけの欲望に従っていたため、その生存期間はおよそ1億年ほどあったと思われます。)


そのようなことをあれやこれや勘案しますと、今、現時点でこの見える範囲の宇宙には2億種類程度の人類が、いろいろな進化レベルで生息中と想定できます。

さて、そうでありますれば宇宙の創造主である「唯一の神」はこの2億種類の人類の面倒を同時に見ることになります。

そうして、この宇宙の大きさは地球から見える範囲を超えて広がっているのはあきらかでありますれば、今、現時点でこの宇宙に生息する人類の数はゆうに4億種類を超えるでありましょう。

そういうわけで、宇宙の創造主たる「唯一の神」はこの天の川銀河の片隅にある、地球という惑星に生息中の人類のみにかかわっている訳にはいかないのであります。

 PS

地球型惑星の数は、それこそ天文学的だ<--リンク

 

PS

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1 名前:ラティハン :2016/08/27(土)

上記では「人間を含んで4つの諸力は通常の3次元宇宙に存在し、目に見えます。」と書き出しましたが、正確には諸力そのものは目にはみえません。

目に見えるのは諸力が「依り代」としている巨岩などの物質そのもの、あるいは物質でできたもの、宝石やら短剣(クリス)、御札やら位牌、水(聖水)やら聖灰、植物体、動物体、人体であります。<--リンク

そうすると物質そのもの(原子、アトム)が諸力の元になるもの、3次元世界をこえた諸力が存在する次元をもっている、というふうに考えられます。

そうであればこそ、物質がそれらの諸力(ロホ、roh)によって「依り代」として使う事ができるのでありましょう。

さて、そのようでありますれば、地球が存在しただけでは地球上には物質力があるだけでした。

そこに植物体が登場してようやく植物力が安定的に存在し機能できるようになります。

同様に動物体が登場して動物力が働けるようになり、人体が登場して人間力が作用し始めたことになります。

このように地球上での目に見える存在としての「依り代」の登場をもってその力が登場したと考えることで、上記の数値が諸力の地球上における年齢となる訳であります。

(あるいは、諸力の登場が先に在って、それに合わせる形で物質、植物体、動物体、人体が現れたと考える事も可能であります。

そうして実はそのように考えるのが存在一性論の考え方であり、それを発展させたマルタバト・トゥジュ Martabat Tujuhの考え方になるのでした。)

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2 名前:ラティハン :2016/09/06(火)

上記で述べました様に「今、現時点でこの宇宙に生息する人類の数はゆうに4億種類を超える」でありましょうが、その中で我々と同等以上の科学レベルに到達している人類は我々が観測しているのと同じこの宇宙を観測しているでありましょう。

そうなりますと、銀河の後退速度の観測結果からおのずとビッグバン理論に到達することになります。

さらには重力の観測と考察から一般相対論にたどりつきます。

自分たちの太陽を考察すれば、核融合にたどり着き、ビッグバン理論と合わせ考察することで物質の恒星内部での進化に行き当たります。

他方で自分の周りの自然観察から光学理論、電磁気学量子論放射性同位体から核理論に到達します。

こうしてこの物質宇宙を支配している諸法則の理解に到達するのは必然の道のりなのであります。

さて、そのようにして発展してきたもう一つの地球には唯一神を信仰するような宗教は存在するのでしょうか?

あるいは、そもそも宗教なるもの、物質以上の霊的存在を認めるものは存在するのでしょうか?

もう一つの地球と通信が可能であれば確認できることではありますが、なにせ距離が離れすぎておりますので、このことはたぶん永遠に不可能でありましょう。

そうして、そのようにもう一つの地球に暮らす人類も考えているものと思われます。
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スシラ ブディ ダルマ・はじめに・2

こんなことを言っている団体もあります。<--リンク

Looking at the original Sanskrit roots and their meanings we can see the connections with both Hindu and Buddhist principles:
オリジナルのサンスクリット語のルーツとその意味を見ている私たちは、ヒンドゥー教仏教の原則の両方の接続を見ることができます:

Sila means virtue, good conduct, morality or ethical behaviour, and in Buddhism represents intentional action.
シラは美徳、善行、道徳や倫理的な行動を意味し、仏教に意図的なアクションを表します。

Budh means to know or to wake. In Buddhism, bodhi means enlightenment or awakening to the inner wisdom accessible to all, and the title Buddha simply refers to one who is awakened.
Budhは知っているか、目を覚ますことを意味します。仏教では、菩提は、すべてにアクセス可能な内なる知恵と悟りや覚醒を意味し、仏陀とは単に「目覚めた者」ということです。

Dharma has a wider range of meanings. For example, in Hinduism it is defined as duty or the natural order of the universe, whereas in Buddhism it refers to the teachings of the Buddha.
ダルマは、意味の広い範囲を持っています。仏教では、仏の教えを意味し、一方、例えば、ヒンズー教では、義務や宇宙の自然な順序として定義されています。

 

そうしてまたこんな風に言う人たちもいます。<--リンク

The first word, Susila means to act humanely.
最初の単語は、Susilaは人道的に行動することを意味します。

It describes someone with a soul, an inner feeling, that is human.
それは人間であり、魂、内側の感覚、との誰かを説明しています。

It describes someone who helps others, who cares for others, who works to put right a bad situation, who helps those who have less than they do;
それは彼らがよりも少ないを持っている人を助け権利悪い状況を、置くために働く他の人のために気に他の人を助け、誰かを記述する。

someone who loves other human beings and who does not discriminate between one person or another, because everyone is one - they are all human beings.
誰もがひとつであるため、他の人間を愛し、誰かが、1人または別の間を区別しない - 彼らはすべての人間である。

And having that attitude, having that feeling, opens the way for such a person and makes it easier for him or her to get everything they need to live in this world.
そしてその気持ちを持つ、その態度を持つ、そのような人のために道を開き、それが簡単に彼または彼女は、彼らがこの世界で生きるために必要なすべてを取得できるようになります。

 

あるいはこんな風にも訳します。<--リンク

Susila means good moral and ethical behaviour - our outer self;
Susilaはいい道徳的、倫理的な行動を意味 - 私たちの外側の自己;

Budhi refers to the atom of the Divine, or the ultimate power in the Universe, working in our inner self;
Budhiは、私たちの内なる自分で働いて、神の原子、または宇宙の究極の力を指し;

Dharma brings these two together,
through the practice of the spiritual latihan,
to create an integrated, harmonious whole human being.
ダルマは、これら二つをもたらし( 訳注:二つとはたぶんSusilaとBudhiのことと思われます)
精神的なlatihanの実践を通して、
統合された、調和のとれた人間の存在全体を作成します。

 

さてこの言葉、博学のベネットさんにかかるとこういうことになります。<--リンク

The ancient Sanskrit language from which these words are taken belongs to the Hemitheandric Epoch, and has not been a spoken language for nearly three thousand years.
これらの言葉が取られているから、古代サンスクリット語はHemitheandricエポックに属し、ほぼ3000年間、話し言葉ではなかった。

Nearly all the wisdom of the old Epochs has been lost, and we do not understand much of the symbolism of the Vedas and Brahmanas.
古いエポックのほぼすべての知恵が失われました、我々はヴェーダブラフマン(Brahmanas)の象徴の多くを理解していない。

Yet the three words Susila?Budhi?Dharma convey a deep and vivid meaning as they are interpreted by Pak Subuh.
彼らはパ スブーによって解釈されるように、まだ3言葉Susila-Budhi-ダルマは深く、鮮やかな意味を伝える。

Susila means literally to have good morals.
Susila、良い道徳を持っている、と文字通り意味します。

Pak Subuh describes it as "Right living according to the Will of God."
パ スブーは「正しい神の意志に従って生きている。」としてそれを説明します。

The word Budhi has baffled the commentators.
言葉Budhiはコメンテーターを困惑させている。

Some understand by it the Power of the Intellect, others Consciousness, and others again explain it as the inner agent, or will of man.
いくつかは、それによって知性の力、他の人の意識を理解し、他の人は再び内部のエージェント(代理人)、または人間の意志としてそれを説明する。

Pak Subuh takes it to mean "The inner force or power that resides within the nature of man himself."
パ スブーは "人間自身の本質内にある内側の力やパワー。"というように、それを取る。

It is not the individuality or self-hood of man, nor even his soul, but rather the limitless potentiality for development and progress that is the true motive power in the spiritual life.
それは個性や人間の自己自身の、あるいは彼の魂を指しておらず、むしろ精神的な生活の中で真の動力である発展と進歩のための無限の可能性を示しています。


Few Sanskrit words have been so misused as Dharma.
いくつかのサンスクリット語の言葉はとてもダルマとして誤用されています。

In the motto of the Theosophical SocietyーNasti Satyat para Dharmoーit is translated as religion.
神智学協会 - Nasti SatyatパラをモットーにDharmo - それは宗教として変換されます。

It is often taken to mean law, or the world order.
これは、しばしば、法律、または世界秩序を意味するものと解釈される。

Others again translate it as duty or even fate.
その他もう一度義務あるいは運命としてそれを翻訳します。

The Pali equivalent, Dhamma, occurs in one of the most ancient Buddhist scripturesーthe Dhammapadaーas the description of the way of life of the Bhikkhu or Buddhist mendicant priest.
パーリ語と同等、ダンマは、最も古い仏教の経典 - ダンマパダ-比丘や仏教の托鉢、司祭の生き方の記述のひとつとして記述されます。

Pak Subuh interprets Dharma to mean "Submission, surrender and sincerity in receiving the gift of Grace from the Almighty."
パ スブーはダルマを "服従、降伏と誠実さにより、全能からグレース(恵み)の贈り物を受け取ること。"と意味するように解釈します。


When the three words are combined, they denote the perfect harmony of the inner life (Budhi) and outer life (Susila) that is attained when our entire being is submitted to the Will of God as it is revealed to us through the highest centre of consciousness, seated not in the brain but in the soul.
三つの言葉を組み合わせた場合に、それが最高の中心を通って私たちに明らかにされているように、それらは私達の人間の全体は神の意志に提出されたときに達成される内側の生活(Budhi)と外生命(Susila)の完璧な調和を示し、意識はなく、脳内ではなく、魂に着席。

 

PS
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スシラ ブディ ダルマ・はじめに

バパの数少ない直接の著作物の一つである「スシラ ブディ ダルマ Susila Budhi Dharma」はラティハンの道しるべであります。<--リンク

そうしてその本はまた「層をなして存在している生命世界についてのバパのとらえ方」を表したものでもあります。

ちなみにバパが使った「スシラ ブディ ダルマ」というコトバはサンスクリット語であり、Gonda,Jは次のように訳しております。


The language used is often based on Sanskrit words: Susila = chaste,ethical; Budhi = Buddhi = intelligence; Dharma = norm, customary observance (J.Gonda).<--リンク

訳)使用される言語は、多くの場合、サンスクリット語の単語に基づいています:Susila =貞淑、倫理、; Budhi =菩提=知性、ダルマ=規範、慣習遵守(J.Gonda)注1

Gonda,J.:"Sanskrit in Indonesia" (New Delhi 1973)


さて、バパによれば「生命世界は7つの層からなっている」ということになります。

人間を超えた上の3つは通常の3次元世界を超えており、目には見えません。

人間を含んで下の4つは通常の3次元宇宙に存在し、目に見えます。

この4つとは物質(Rewani)にはじまり、植物(nabati,)、動物(hewani,)を経て人間(jasmani,)のレベルまでのことです。

そうして、この4つの世界について詳細に記述したものが「スシラ ブディ ダルマ」であります。


さて生命世界を多重の層の重なりとしてとらえるのは神秘主義あるいは宗教では一般的です。<--リンク

仏教しかり。

キリスト教イスラム教でもそうであります。


そうして15~16世紀にワリ達がジャワに伝えた神秘的なイスラムの教えでもそうでありました。<--リンク

そこではすでに植物、( nabati,) 動物、 (hewani,) 肉体、人体的、(jasmani,)  霊的、(rohani )というレベル分けが出てきます。<--リンク


それを引き継ぐ形で発展してきたインドネシア独自の「伝統的イスラム」の世界では9つのロホを想定している様です。<--リンク

そこでは上記4つの層に相当するものが、Roh Rohani、Roh Jasmani、Roh Nabati、Roh Rewani (物質精霊、物質力)になっています。<--リンク

数は同じ4つですが動物、(hewani,)がRoh Rewani (物質精霊、物質力)に置き換わっていますね。

それでは動物はどこにいったかといいますと、どうやらJasmani(人間)の管轄下に統合されている様です。


それに対してバパの分類では動物と物質をそれぞれ一つのレベルとして認めています。

それで分類はRoh Rohani(霊的)、Roh Jasmani(人間)、Roh hewani(動物)、Roh Nabati(植物)、Roh Rewani(物質、素材) ということになりますね。


さあこれでようやく準備が終わりました。

次からはもう少し具体的に物質力(Roh Rewani)の章から見ていきましょうか。

注1:susila 道徳的教え Dharma 清浄、正直、愛情があり堅固である心 「ジャワの宗教と社会」福島真人著P331,P334より引用


PS
バパのビデオクリップです。<--リンク
お楽しみください。

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1 名前:ラティハン :2016/07/26(火)

ジャカルタ エンサイクロペディアによれば<--リンク

susila berarti "budi pekerti baik";
道徳「良い道徳」を意味し;
budhi berarti "daya kekuatan pribadi yang ada pada setiap manusia';
Budhiは「個人的な強さがすべての人にあり」という意味。
dharma berarti "penyerahan, ketawakalan dan keiklasan terhadap Tuhan Yang Maha Esa".
だるまは「全能の神の提出、ketawakalanとkeiklasan」を意味します。
・・・となります。

さてジャカルタ エンサイクロペディアでは7層の生命世界についても少々ふれています。

roh rewani, daya hidup kebendaan;
rewani精神、素材の生命力;
roh nabati, daya hidup tumbuh-tumbuhan;
野菜精神、植物の生命力。
roh hewani, daya hidup binatang;
動物精神、動物の生命力;
roh jasmani, daya hidup manusia;
肉体の精神、人間の生命;
roh rohani, daya hidup pendeta;
精神的な魂、聖職者の生命力。
roh rahmani, daya hidup rasul-rasul;
Rahmaniスピリット、使徒たちの生命力。
roh robani, daya hidup Yang Mahakuasa.
Robaniスピリット、全能の生命力。
Ketujuh daya hidup ini ada di dalam diri manusia dan merupakan kesatuan "daya hidup besar".
第七の活力は人とユニオン「偉大な生命力」にあります。
Tiga daya hidup (rewani; nabati, hewani) berada di bawah daya hidup manusia sehingga dapat dikuasai manusia, artinya dapat dicapai hati dan akal pikiran manusia.
人間の心の中、その心と心を意味し、人間の生命力の下で、三つの生存期間(植物、動物、rewani)。
Tetapi tiga daya hidup lainnya (rohani; rahmani, robani) berada di luar jangkauan hati dan akal pikiran.
しかし、人生の他の3つの力(Robani、Rahmani、rohani)心の心と心の届く範囲外にある。

・・・となります。

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Susila Budhi Dharma ・Chapter of beginning

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

One of the few direct Bapak's works, "Susila Budhi Dharma" is a signpost of the Latihan. <--link

Then it is a representation of the "perception of Bapak about the life world that exists a layer forms " .

By the way the words "Susila Budhi Dharma" Bapak has used is a Sanskrit, Gonda, J says as follows.


The language used is often based on Sanskrit words:. Susila = chaste, ethical; Budhi = Buddhi = intelligence; Dharma = norm, customary observance (J.Gonda) <--link

Gonda, J:. "Sanskrit in Indonesia" (New Delhi 1973)


Well, According to Bapak, we say "life world is made up of seven layers," .<--link

The top three that is beyond the human is beyond the 3-dimensional world of the ordinary, it is not visible to the eye.

In the 3-dimensional space of the normal, the bottom four include a human are visible .

Beginning in substance (Rewani) , it is up to the level of human (jasmani,) through the plant (nabati,), animals (hewani,).

Then, what Bapak had written in detail about the world of these four is the "Susila Budhi Dharma".


Well catch as overlap of multiple layers of the life world , it is common in religion or mysticism.

In Buddhism.

It is also said in Islam and Christianity.


Then it was also true teachings of Islam mysterious 9Walis told to Javanese in the 15-16 century. <--link

Plant, (nabati), animal, (hewani), physical, human body basis, (jasmani),and spiritual, (rohani) will come out already there.

It assumes a nine Roh of Indonesia-specific have been developed in the form of take it over in the "traditional Islam". <--link

Which corresponds to a layer of the above four is Roh Rohani, Roh Jasmani, Roh Nabati, Roh Rewani (spiritual substance, material force) there.

The number is the same four but animal, (hewani,) has been replaced to Roh Rewani (spiritual substance, material force).

So when you say where is animals ,it has been integrated under the jurisdiction of Jasmani (human) apparently.


We are recognized as one level of each substance and animals in the classification of Bapak against it.

So classification will be Roh Rohani, Roh Jasmani, Roh Hewani, Roh Nabati, and Roh Rewani.

By the way Roh from Ruh, Nafsu from the Nafs is a diversion originally.

Both Ruh and Nafs is the words that appear in the Qur'an. <--link

And it seems to have changed in Indonesian when the teachings of Islam is introduced into the Jawa.


PS
It is the literature written about mysterious movement (kebatinan) in Java of 1970s.<--link
Same four Nafsu Bapak is common use will also appeared among this.
As we can be seen, Nafsu of four has been commonly used in the mysticism of Jawa.

PS
Protagonist of history that showed the explosive spread of only thus early Latihan was the JG Bennett's.
This is a his recognition of the Susila Budhi Dharma .<--link
(Concerning Subud  JG Bennett)

PS
Subud Britain said like this.<--link

PS
List of articles<--Link

二代目が語らない事。

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

二代目が黙して語らない事が二つあります。

一つ目は会員数の推移です。<--リンク

二つ目はエンタプライズですね。<--リンク

特にエンタプライズはバパの立てたグランドプランの中核をなすものでありました。

しかしながら、この二つに関してはまるでダルマさんの様に二代目は「黙して語りません」。


さて、実はこの二つには共通項があります。

それはいずれの項目も「生の世間と直接的な関係を持たなくてはならない」ということでありますね。

そうして、両方とも「世間に物事(メリット)を提案し、そうしてその見返りを得る」という行為であります。

見返りというのは、一つは時間、もう一つは金銭ではありますが、いずれも提案を受けた側にとってはとても大切なものであります。

しかしながら、このいずれの組織的活動、世間に対する提案行動も協会はあまり得意とは言えない様です。

そうして、それに輪をかけているのが「二代目が語らない」という状況であります。


バパは「世間との関わり合い」を「協会にとってとても大事なもの」と認識しておられた様です。

それゆえに会員数のことも、エンタプライズのことも、そうして協会が行うべき社会的事業のことも熱心に語られました。

しかし今、二代目はそれらの事はほとんど語りません。

語られることは二代目が言う「リアリティー」、そうしてそれは「霊的なリアリティー」であって、残念ながら「現実世界のリアリティー」ではありません。


こうして二代目はある意味、「現実的な問題から目をそむけている」ように見えてしまうのでありました。

二代目は今現在、協会に所属している人たちの霊的な進歩のみを注目しているかの様であります。

言い方を変えますと「とても内向きに」、「協会の内側のみ」が「関心の対象」であるかの様です。


バパが立てたグランドプランでは、二番目の計画(エンタプライズ)が最初の計画(会員数の増加)を推し進めるという構造になっていました。

「宣伝はしない」がその代わりに「エンタプライズをやって目に見える結果を見てもらう」というのがバパのプランでした。

従いまして、二番目がうまくいかないと当初の目的である「会員数の増加」ということが難しくなります。

このことに対して二代目はあまりにも楽観的すぎるように見えるのですね。

そうして、「協会そのものの継続性」については、なぜかほとんど心配されていない様です。<--リンク


さて、「それぞれの国の協会がそれぞれの国の中で継続的な発展をしていく」ということがバパの願いでありましょう。

しかしながら、現実と正面から向き合う事なしにこの課題をクリアする方法はないものと思われます。

そのような観点から見ますと、残念ながら「二代目が黙して語らない事」がそのまま見事に「今の協会のウイークポイント」になっている事に気が付いてしまうのでありました。

PS

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1 名前:ラティハン :2016/07/07(木)

霊的な進歩のみを語る二代目に率いられた協会は、外見上は普通の宗教団体となんの変りも見出せません。

おまけにこの団体は「勧誘のための宣伝をしない」ということにこだわりをお持ちの様です。

そうして、「勧誘をしない」ということは「組織的な新人の育成システムがない」ということでもあります。

ですので新入会員にとっては「あまり親切な組織構成ではない」という事になりますね。

さて、そのような「宣伝をしない団体の未来の姿」が「大いに発展している」とは通常の感覚ではなかなか想像できない事なのであります。

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  名前:メロンパン :2016/10/19(水)

二代目は本来の4つの諸力の事はあまり語りません。

そのかわり4つのナフスを「低次の諸力」として語っています。

多分その方が理解しやすいだろう、、、というおつもりかもしれませんが、それではバパの言われた事とは別物の説明になってしまいます。

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iPad and the"miracle book".

It was 1925 when Bapak has received the Latihan at the first time.

And after seven years Bapak has received a book in 1932.

In the book Bapak can ask a question by voice,and the book answered Bapak in the video and audio, and sometimes text statement.

Well, it is actually 2010 when Apple has released the iPad .

First Bapak had received the iPad at 78 years ago,next Apple has released the iPad.

This shows that Bapak was very good for the "receiving" .

Then at the same time, also the progress of era was caught up with the received advances of Bapak.

Once when Bapak has received the book, such a thing was not anywhere in the world.

So, such a "great thing" is looked very mysterious.

And, such a mysterious event has been recorded as a "miracle".

But, it does not stop human progress.

You can use the iPad when you want to use now.

Then iPad offers to us the same experience as the most that Bapak has experience .

But no longer anyone does not say it is as "mysterious " or as "a miracle".

Mystical experience of Bapak and the emergence of the iPad, which ends up in everyday things ,
Progress of the era thus it is going subsequently without rest.

PS
List of articles<--Link

バパの世界観

バパの説明の背景にはバパの世界観、バパ独自の世界のとらえ方、理解の仕方がある。

そうして、その世界観に基づいた説明をされる。

それゆえ、聴衆がその世界観を受け入れることができれば、バパの説明は一貫性のある、理路整然としたものとして聞き手に理解されることになる。


しかしながら、他方で世界にはありとあらゆる世界観が存在している。

そのうちの或るものはバパの世界観に近いであろうし、あるものは遠く離れている。

そうであるのが実情であり、その為にバパの世界観を受け入れられる人たちにしか現状はラティハンが広まっていない。

そうして、その人たちは本当に世界のほんの一部分にしかすぎないのである。


しかるにラティハンというものは、その人がどのような思想、信条、宗教をもっていようとも、その人が本当に希望するならば、受ける事を意図するならば、受け取ることが可能なものである。

そうして、このことはすでに何度も何度も確認されている事実でもある。

さてそうすると本質的にラティハンの方がバパの世界観よりも広い、、、ということになりそうである。


バパの世界観は世界のごく一部の人たちにのみ受け入れられている、、、というのが現状であり、世界のすべての人々に受け入れられる、ということは今までも起きていないし、今後も起こりそうもないことである。

まあこれは、ある一つの特定の世界観が人類すべてに受け入れられる、、、などということは今までもなかったことからも想像できることではある。

全ての人類に受け入れられるだだ一つの世界観などというものは、しょせん夢物語、あり得ないものであるからである。


さてそれゆえにバパの世界観を大事にしたいという思いと、しかしながらその事が引き起こす結果というものを我々は理解しておく必要がある。

そうでないとバパの世界観に固執するあまり、ラティハンの持つ包容力を結果的に限定するような事、阻害するような事が起こりうるからである。

そうしてそのような状況は本末転倒であり、バパの意向にかなうものでない事は明らかなことなのであります。

 

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1 名前:ウーサー :2016/05/26(木)

ラティハンの目的はバパの世界観を我々会員が自分のものとして内在化する、、、という事ではありませんね。

世界にはバパは一人だけで十分であります。

そうして、我々もそれぞれが一人だけで十分なのであります。

バパはバパのユニークさがあり、そうして同じように我々も一人一人がユニークでなければなりません。

バパの真似なぞ到底できるものでもありませんが、いずれにせよ「人まね」というのは本質的にラティハンとは相いれないものでありましょう。

ラティハンというものは我々が他人ではなく自分自身に戻る道であるからです。

そうして世界観のことをいうならば、我々は一人一人がラティハンと自分の人生から作り上げる、それぞれに独自な世界観を持てばそれで十分なのであります。

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2 名前:メロンパン :2016/06/11(金)

我々ラティハンの道を歩くものは、バパの説明を聞く必要はあります。

但し、聞いたうえで何を信頼して自分の道としてラティハンを実習していくのかは、個々人が決めなくてはいけません。

人から聞かれたときに「私はバパを信頼してラティハンを受けます。」というのは一つの答えではあります。

「バパ」という替わりに「唯一神」と答える方がいるかもしれません。

しかしながら、「だからあなたもそうしなさい。」というのは言い過ぎでありましょう。

あなたはあなたが信頼できるものを信頼すればいいのであります。

人は自分が信頼できるものを選んで、そうしてラティハンの道を歩く事が出来るのです。

そういう意味において、ラティハンの道というのは従来の道と比較するならば、とても自由度が高い道なのであります。

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 3 名前:メロンパン :2016/06/19(日)

 地球上に多くの宗教が存在するようになりました。

そうしてそれらの多様な宗教を信仰している多様な人類が現に存在しています。

従って、ただ一つの概念、世界観、アイデア、超越しているものの設定でそれらすべての人々が同時に満足するという事はもはやありえません。

これが現状であり、言い方を変えるならば、「これがコトバによる説明の限界」になっています。

 

他方でラティハンを継続していけるならば、それぞれの人がその多様な世界観に合った形での、それぞれの回答を受け取ることができる様です。

それがどのような形でそれぞれの人に与えられるかは、一概にはいえませんが、そのような体験を得ることができます。

つまりは、それぞれの人にマッチした、オーダーメイドの納得が得られるのであります。

このようにしてラティハンは「コトバによる説明の限界」を超えていきます。

 

ラティハンの性質がそのようでありますので、「ただ一つの世界観で全ての人が納得できるようにラティハンを説明できる」とか、あるいは「このラティハンの説明の仕方のみが唯一正しい」、というような考え方には賛同することはできません。

たとえそれがバパのトークから導き出されたように見える説明であっても、その説明は尊重され傾聴に値するものではありましょうが、それがラティハンを説明できる唯一のものではないのであります。

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