ラティハン日記・掲示板

ラティハンに関係したいろいろな事の掲示板です。There are many varieties of bulletin boards related to Latihan.

ジワ(jiwa),ジーヴァ (jīva)の論

ジワ(jiwa),ジーヴァ(jīva)<--リンク

以下、文頭の部分ですが、追記となります。 

まずはジワ(Jiwa)というコトバから始めましょう。

ジワ(Jiwa)というコトバは、 サンスクリット語の jivás( Sanskrit : जीव , jīva)に由来し、語源は「息を吐く」。 <--リンク

それはラテン語のvivusと同じインドヨーロッパ語のルートを持ち、「生きている」という意味です。

ヒンドゥー教ジャイナ教では、 ジバ ( サンスクリット語 :जीव 、 jīva 、別のスペル Jiwa、 ヒンディー語 : जीव 、 jīv 、別のスペル jeev )は生き物であり、または生命力を吹き込まれたどんな存在でもよい。


ジャイナ教のジバ jivaの概念は、ヒンドゥー教アートマンatmanと似ています。

しかし、いくつかのヒンドゥー教の伝統は、ジバ jivaを個々の自己と見なし、アートマンatmanはすべての生き物に存在する普遍的な不変の自己であり、そしてアートマンatmanの存在は形而上学的なブラフマンBrahmanの現れであるとして、2つの概念(ジバ jivaとアートマンatman)を区別します。 

ジャイナ教では、 ジバ jivaは物理的な死では死ぬことがない、生物(人間、動物、魚、植物など)の不滅の本質または魂です。

そして、アジバ(Ajiva )の概念は、「魂ではない」ことを意味し、物質(身体を含む)、時間、空間、非運動および動きを表します。

ジャイナ教では、 ジバjivaはサムサリ samsari (世俗的、生まれ変わりのサイクルで捉えられる)か、またはムクタmukta(解放された)のいずれかとなります。


ジャイナ教の宇宙論によれば、 jīvaまたは魂は感覚の原則であり、宇宙の一部を形成する基本物質の一つである。 <--リンク

そしてジャイナ教は、ジバ jīva(魂)とajiva ( 非魂 )と呼ばれる2つの独立した、永続的な、共存する未創造(作られたものではない)というカテゴリーに宇宙を分けます。

従ってジャイナ教のこの基本的前提は、この教えを二元主義の哲学にする。

ジャイナ教によれば、ジバ jīvaは、 カルマkarmaのプロセス、 転生 、および転生からの解放のプロセスがどのように機能するか(を説明するの)に必要不可欠な部分である。 


さて、南インドからの貿易は、約4世紀頃にヒンズー教を(ジャワに)もたらしました。<--リンク

それ以降、イスラムがジャワにもたらされるまでのおよそ1000年に渡ってヒンズー教と仏教がジャワで受け入れられていました。

そうでありますから、ヒンドゥー教の伝来に伴って「ヴェーダーンタ学派の教え」->「個々の魂:自己( Atman / Jivatman )」という概念が伝わったものと思われます。

そうして、このストーリーが一番可能性が高そうなのですが、JivatmanではなくJiva-->Jiwaとしてインドネシア語、ジャワ語に吸収されと思われます。

但しバリ・ヒンドゥー教ではJivatmanーー>Jiwatmanとして現在でも使われている模様です。<--リンク
(追記終了 2017年6月25日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下、これまで記述していた内容です。

以下、インドネシアWikiのJiwaのページから引用<--リンク

Jiwa atau Jiva berasal dari bahasa Sanskerta yang artinya "benih kehidupan".
魂(Jiwa)や魂(ジヴァ Jiva:Jiwaの別スペル)は「生命の種」を意味するサンスクリット語から来ています。

Dalam berbagai agama dan filsafat , jiwa adalah bagian yang bukan jasmaniah (immaterial) dari seseorang.
様々な宗教や哲学では、魂は人の物理的ではない(物質的ではない)部分です。

Biasanya jiwa dipercaya mencakup pikiran dan kepribadian dan sinonim dengan roh, akal, atau awak diri. [1]
通常、魂( jiwa)が心(pikiran)と人格( kepribadian)を包含することを信じ、精神( roh)、心(akal)、または自分自身(awak diri)と同義です。 [1]

Di dalam teologi , jiwa dipercaya hidup terus setelah seseorang meninggal, dan sebagian agama mengajarkan bahwa Tuhan adalah pencipta jiwa.
神学では、魂は、誰かが死んだ後に生きることを信じて、ほとんどの宗教は、神が魂の作成者であることを教示しています。

Di beberapa budaya, benda-benda mati dikatakan memiliki jiwa, kepercayaan ini disebut animisme . [2]
いくつかの文化では、無生物は、この信念はアニミズムと呼ばれますが、魂を持っていると言われています。 [2]

Penggunaan istilah jiwa dan roh seringkali sama, meskipun kata yang pertama lebih sering berhubungan dengan keduniaan dibandingkan kata yang kedua. [3]
魂(Jiwa)と精神(Roh)という言葉の使用は、しばしば同じですが、最初の言葉は2番目の言葉に比べて日常と関連することが多いです。 [3]

(jiwaとrohはあまり厳密に区別されずに使われている、、、ような。:訳注)

Jiwa dan psyche bisa juga digunakan secara sinonimous, meskipun psyche lebih berkonotasi fisik, sedangkan jiwa berhubungan dekat dengan metafisik dan agama . [4]
魂(Jiwa)と精神(psyche)はまた同じ様に使用することができますが、精神はより物理的な意味合いですが、魂は形而上学と宗教に密接に関連しています。 [4]

Sedangkan menurut Kamus Besar Bahasa Indonesia , kata jiwa memiliki arti roh manusia (yang ada di di tubuh dan menyebabkan seseorang hidup atau nyawa.
一方、インドネシアの辞書によると、「魂」(Jiwa)という言葉は、人間(manusia)の精神(roh)(身体にあり、人の人生(nyawa)や生命(hidup)を引き起こす)を意味します。

Jiwa juga diartikan sebagai seluruh kehidupan batin manusia (yang terjadi dari perasaan, pikiran, angan-angan, dan sebagainya). [5]
魂(Jiwa)はまた、人間の内面の生活(感情、思考、想像などで起こる)全体として解釈されます。 [5]

Jiwa manusia, sebenarnya berbeda dengan jiwa makhluk yang lain seperti binatang, pohon, dan sebagainya.
人間の魂は、このようなように、動物、植物(木)などの他の生き物の魂とは、実際に異なっています。

(Jiwaは「生命の種」ですから、動物、植物を問わず生命のあるものはこれを持つ、、、というのが大前提の話ですね。:訳注)

Jiwa manusia bagaikan alam semesta, atau alam semesta itu sendiri, yang tersembunyi di dalam tubuh manusia dan terus bergerak dan berotasi.
人間の魂(Jiwa)は、宇宙のようなものであり、宇宙そのものであり、人体に隠されて動いて回転し続けます。


PS
ご参考までに・・・

生まれ変わり<--リンク

・精神の2つの面 エゴ、ジーヴァ、アートマン、ブラフマンの関係<--リンク

PS
バパの言われるジワとは「成長して展開していかなくてはならないもの」の様です。

そしてそれは我々には完成した形では与えられません。

ある意味この世の経験を通じて成長していくものの様です。

しかしながら、まずは眠っているジワをオープンで起こさなくてはなりません。

そうして、その後も継続的にラティハンを実習することでジワの覚醒状態を保っていなくてはならない様です。

そうしないとこの世の経験はジワには伝わりません。

そうしてジワの成長も起こらないようです。

さてそういうわけで、ある意味ジワにとっては「この世は夢のようなもの」なのかもしれませんね。

PS
以下、ジワについてのバパのトークです。<--リンク

(2月25日1963 バパ)
あなたが生まれる前に、あなたの体が人間として形成される前に、あなたの存在が何らかの内容を持つ前に、あなたの魂(ジワ)がそこにありました。
それが中に存在した最初のものです。
あなたの魂(ジワ)があなたの外形より前に来ていたことは明らかです。
あなたの人間としての性質やあなたの「人間の種子」はまだ水に似ていますが、魂はすでにそこにありました。
・・・・・
だから、魂は人間の生活に必要なすべてを持っています。
例えば、それはこの地球上の人間の外的な生活の中で起こっているすべてを聞くこと、見ること、嗅ぐこと、感じること、理解することができます。
さらに、いったん魂が体の形 - 外形 - によって覆われると、これらの機能の力と範囲は限られたものになります。(注6)

いったん魂がそこにあり、「人間の種」となるものに付随するようになると、魂の覆いまたは容器となったこの実体が徐々に発達する。
その発展は生まれてくる時まで続く。
つまり、9ヶ月間です。
そして、それが生まれたとき、人間 - あなた方ひとり一人 - は(注:外観上は)完全な人間(の姿)です。

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク


 

雑記帳23・アブラハムの宗教に従う人たち

イスラムやクリスチャン、そうしてユダヤ教などのアブラハムの宗教に従う人たちがラティハンを修しています。

(ラティハンを修するイスラムの多くはインドネシア人で、クリスチャンは欧州と南北アメリカ大陸各国とオーストラリア、ニュージーランド、そうしてユダヤ教イスラエルとなります。)

バパがイスラムでしたから上記のような方たちはバパのトークの多くの部分に共感をもてたものと思われます。

そうして、バパもそれをよしとされたようです。


さて、上記のような信仰を持っている方たちは「唯一の神を信じなさい」という要求に対しては当然ながら、「わが意を得たり」と反応したのであります。

自分たちが従ってきた宗教はバパによっても認められたと感じたでありましょう。

そうしてバパも「今まで従ってきた宗教にこれからも従って行きなさい」といわれましたから。

ラティハンを受けるようになっても、従来の信仰には何の影響もなかったものと思われます。

そうしてバパがいう「ラティハンは神への礼拝である」というコトバは心地よく彼らの耳には聞こえたでありましょう。

従来通りの自分の信仰をもちながら、従来通りの宗教が教える礼拝を実践しながら、その上にさらにラティハンという「新しい神の礼拝方法」も実行できる、と言うのは何と素晴らしいことであるか!

そのように感じてもおかしくはありません。


さてそれで、ラティハンが到達すべきステージ、ロハニ、あるいは理解のステージにはどれくらいの方が到達できたのでありましょうか?

ラティハンというものはそれ自体で、それぞれの人が進むべき道を示してくれるものであります。

そうして人は其の道を歩くことによってのみ、内部が成長し、自分のジワを認識できるようになるのであります。

そのようにして成長してゆく時に、あるところまではそれまで自分が持っていた宗教はシェルターのようにその人を守ってくれますが、あるところからはそのように「外部にある教え」の頼るのではなく、内部から来る導きに従う必要が出てきます。

そうしてそのように内部から来る導きに従う事ができなければ、ラティハンの進歩というものはそこで足踏み状態になるでありましょう。

そうでありますから単に「ラティハンは神への礼拝である」というコトバを喜び、そうして自分の宗教を信仰している、というステージで満足してしまっては、それではラティハンがもたらしてくれる成長を実現することは、実感することはできないものと思われます。


さて、この話のポイントはなんでしょうか?

「ある特定の宗教のよき信者さんである、と言う態度と、ラティハンでロハニのステージに、あるいは理解というステージに到達する、ということははたして両立する事なのか?」という問いかけであります。

個人的な見解ではありますが、そこには意識して乗り越えなくてはならない壁が存在している様に見えるのです。

単純に素直にある宗教の教えを守って生活しラティハンを続けている、というだけでは、それは悪くはないのですが十分ではないと思われるのですよ。

PS
いくら慣れ親しんだ服であってもそれはやはり既製服であります。

それはけっしてオーダーメイドの服を超える事はないのであります。

しかしながら、「いや俺はこの服が好きなんだ」というならば仕方ありません。

その人は其の服を着続けることでありましょう。

PS
さてそれでバパのトークは、バパが与えてくれたガイドラインは既製服でしょうか?

それともオーダーメイドの服ですか?

まあその判断は読者の方々にお任せすることにいたしましょう。

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。


PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

雑記帳14・宗教的寛容性

世界は宗教的寛容性の欠如の為に苦しんでいる様にみえる。

彼らは我々とは違う、というものだ。

双方がお互いの相違点を上げて差別し、非難しあう。

そこからは何も生まれないし、その先にあるのは暴力沙汰だけである。


さて、他方でラティハンはそのような差別やら非難やら相違点やらという世界とは別物である。

そこにあるのはただ我々は同じものである、という感覚である。

そうしてそこに、ラティハンが人類の中に広まる事による、人類の平和共存の可能性が見えているのであります。


ところで、ラティハンがそうであるのに、何故にラティハンの入り口で、ある特定の人たちにとって困難になるような状況を設定するのか?

宗教的にはとても「寛容である」といえる状況ではない様にするのか?

それはさかのぼってみれば、本来は無色透明なラティハンというものにイスラムの、あるいはアブラハムの宗教の匂いや影をつけてしまったバパのトークゆえの様にみえる。

バパは熱心なイスラムであったがゆえにそのことをあまり責めるつもりはない。

しかしながら、素直にいわせていただくならば、「バパの事実上、宗教的には不寛容に見える態度がそのまま現在の協会に引き継がれている」様にみえる。

そうしてこの事は、「ラティハンが目指すものは、ラティハンが表現しているものは、宗教的な寛容性である」という事実とは明らかに矛盾しているのであります。

PS
オープンの前にイスラム流のあからさまな信仰告白をしなくてはならない、というのはこれはバパが導入したバパ流の「けじめのつけ方」でありましょう。

「今からは誠実にラティハンを実習していきます。」という一つの態度表明かと思われます。

しかしながらいかんせん、インドネシアでは誰にとっても、何の抵抗もなく出来る事が、この日本では人口の1%以下の人にしかそうはなりません。

そのような信仰告白は我々日本人にとっては本当になじみがない作法なのであります。


そうして、その信仰告白のコトバに特別な力があって、それが魔法の呪文のように作用してラティハンが始まる訳ではないのです。

もしそうならば、そのコトバはオープンの必要条件になりますが、そうではない事例がたしかに見られています。

そうであれば、そのコトバをいう事は必要条件ではなく、せいぜいがバパ流の「望ましい条件」という所が相当であると思われます。

PS
さてそれで、宗教的な寛容ということは、日本人にとっては朝飯前、大得意とする所であるはずなのですがねえ。

何故かみなさん、ガッチガチであります。

PS
↓関連記事です。
雑記帳19・人と人とを結びつけるもの<--リンク

PS
バパが生まれたインドネシアという国、そしてその当時の政治的な、宗教的な状況ゆえにバパがあまり宗教的には寛容でないようにふるまわざるを得なかった、そのような外的な状況は確かにあったかと思われます。

それゆえに、バパがあまり寛容でなかったという事に対してはそれを責める、というものではありません。

しかしながら、我々が体験してきているラティハンの広さ、その一体感にてらしてみれば、何も我々が単に「バパがそうであったから」という理由で不寛容な態度を持ち続ける必要性はどこにもないように思われます。

そうしてラティハンも「宗教的には寛容である」という態度を支持している様に見えるのでありました。

PS
・エジプト300人超死亡テロ事件 礼拝中のイスラム教徒標的に衝撃<--リンク

これはもうほとんど「唯一自分たちの理解のみが正しいと考えている教条主義者たち」の末期的症状であります。


PS
・イスラム教徒墓難民 九州土葬用施設なく 偏見や抵抗感…新設に壁<--リンク

この記事からわかる様に、我々日本人のもっている「宗教的寛容性」というのは「あまり宗教の事を意識しない、という寛容性」の様です。

つまり「あなたが何を信仰されていようがそれはあなたの自由だ。しかし、ニッポンの常識やら生活習慣には従ってもらう。」という程度のものです。

従って我々にはもうなじみが無くなってしまった「土葬」という風習には、そのような行為には抵抗感を持つのです。

それでも「宗教が違う」といって暴力沙汰になるよりは随分と「マシ」とは思われます。

まあしかしそれでもかつては我らが国も「土葬の国」でありました。

それからすればこれは「慣れの問題」とも言えそうであります。

PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

バパのカルマ論/下

ベネット(John G. Bennett)さんグルジェフの高弟としてグルジェフの体系での修練にいそしんでおられました。<--リンク

そうしてそこにラティハンがもたらされました。<--リンク

当初はベネットさん、ラティハンに満足されていた様子でしたが、次第に飽き足らなくなり、グルジェフの体系とラティハンとを共用する事を始めます。

要するに「グルジェフの体系を能動的に用いることによりラティハンの進歩を加速することができる」と考えた訳であります。

しかしながら結果はベネットさんの予想に反して「グルジェフの体系はラティハンの進歩に寄与しなかった」模様であります。

そうして、バパによれば「ラティハンの進歩を早めることができるような、いかなる訓練体系も存在しない」のであります。

そのような状況下で我々にできる当面の事は「ラティハンが浄化したものを極力元に戻さない」という「受動的な立場の協力」しかありえません。<--リンク

そうしてプアサ(断食)であれプリハティンであれ、「ラティハンが許容する限度までしか」行えないのであります。

その限度を超えた場合は「ミックスmix」といわれている「ラティハンと他の修練体系を一緒に用いる事の間違い」として指摘される事になります。

ちなみにベネットさんの立場は「アダムが人間の完成形である」というものではなく、「宇宙を作り出した意思の下で霊的にも人間は順次進化していく存在である」というものの様でした。

それゆえにベネットさんの立場というのは上記のようなバパのスタンスとは方向が反対のものであったことになります。(そうしてそれは多分グルジェフからの影響もあったと思われます。)

PS
以下ご参考までに。
・獲得形質は遺伝する?<--リンク
・ミーム(人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報)<--リンク

PS
文明が発生し、社会が発展するのに従って我々の性格、個性、気質もまた変化してきたものと思われる。

たとえば農耕が主な社会では農耕にあった性格、気質を持つものが「すぐれたもの」として認められたでしょう。

そうなるとそのような気質、性格がその社会の中では選択圧となり、最終的にはDNAレベルまでの変化として固定されます。

同様に遊牧を生業とする社会ではその社会に適応した性格、個性が生き残ります。

こうして社会の在り方が人の性格や気質に影響をあたえ、そのなかのある部分はDNAによって固定されます。

そうやって社会が進んでいき、工業化、商業化、情報化、そうしてマネー化した現代社会では、人の持つ性格や気質が前の時代とは異なったものにになっているのは、ある意味「歴史の必然」でありましょう。

人類全体がそのようにして受けてきた影響、変化と言うものは明らかに我々が持っている「内部感覚」にもそれなりの影響を与えてきた事は明らかであります。

そういう部分まで含めての「内部感覚にたまった間違いのすべて」がラティハンでの浄化対象になっているものと思われます。

しかしながらそのような負債、「社会の変化に従って必然的に生じてくるような誤り」というものの責任を単に「両親の行動の誤りの結果である」としてしまう見方というのは、少々人間にとっては厳しすぎる判断基準の様に思われるのであります。

追伸
社会の進展に伴って生じる内部感覚の変化については6月6日1963年のリオデジャネイロ トークにも記述があります。

PS
さて仏教、あるいはヒンドゥー教、そうしてジャイナ教でもカルマによる輪廻(サンサーラ)、それも終わる事のない輪廻を説きます。

そうして、カルマによる輪廻という考え方の本質はなんでありましょうか?

それは「行動の選択ができる主体がいる。」ということであります。

そうでなければ、すべては事前に決定された、単なるお話の再現にしかなりません。

そうではなくて、「舞台の上の主人公の主体的な選択が可能である」、という世界構造でなければ「カルマによる輪廻」という構造は意味を持たないものになります。

さて、人はとりあえず主体的な選択はできそうです。

ところで動物は主体的な選択が可能なのでありましょうか?

動物に輪廻転生することもある、というカルマ論であるならば「YES」と答えるほかに選択はありません。

さて、本当に人間以外の動物に主体的な選択ができるのでしょうか?

このことは動物界を含んだ輪廻を想定している、カルマー輪廻論がもつ、大きな疑問点の一つであります。


ところでバパによりますれば「我々には自分自身の間違いによって動物力の世界に落ち込む可能性もある」とされています。

しかしながら、「動物力の世界に落ち込んだ我々の意識はその世界に適応したものになり、人間であった時の様な認識力や判断力を持たないであろう」とされています。

つまり「自主的に判断を行えるような自由意思は持たなくなる」というように理解されます。

このことをカルマー輪廻論に当てはめると、「動物はカルマを積まない、積めない」ということになります。

つまりそこで固定されていることになり、何らかの外部からの働きかけがない限りその状況はいつまでも継続されていくもの思われます。

さて、その外部からの働きかけというのはなんでありましょうか?

それが実のところ、このラティハンになるのでありました。

PS
バパによる「人の誕生の説明から見たカルマ論」

夫婦が子作りの行為によって子供をさずかる場合にいわゆる受精卵に魂(Jiwa)がやどると説明されています。

さてその場合に、その魂(Jiwa )はどこから来るのでしょうか?

一つの可能性は「転生すべき魂である」というものです。

バパは特定の条件下での魂(Jiwa)の転生を認めておられます。

もう一つの可能性は、「いまだ人と言う存在になったことがない魂(Jiwa)が供給される」というものです。

バパによれば、いずれにせよ「魂(Jiwa)というものは神の手作りのものであって、それは永遠のものである。」ということになります。


さて、人の形になる為には肉体とその人の魂(Jiwa)だけでは不足であります。

そこに追加される必要のあるものは、内部感覚と物質力から人間力に至る4つの諸力のパッケージです。

そうしてこの2種類のパッケージはどうやら両親から伝えられるものの様です。

両親から贈られる内部感覚がなければ人間としての存在になりえませんから、それは必要なのでありますが、その時に両親が犯したであろう間違い、さらにはその先の先祖が犯したであろう間違いの痕跡も引き継ぐ事になります。

こうしてバパがカルマと呼ぶものが親から子供に代々引き継がれてゆくことになる、そのように説明するのが「バパのカルマ論」となります。

ちなみに両親に供給される子供の魂(Jiwa)のレベルは通常は子供が持つ事になる内部感覚のレベルに適合したものになっている模様です。

それから両親から伝えられた4つの諸力のパッケージが内部感覚の中を還流することで、その子供の人生に必要となる4つのナフスが生まれる事になります。<--リンク

PS
個人が背負っているカルマ(間違い)の総量について

バパは7代までの先祖とはリンクがある、という主張をされます。
(何故に7世代なのか、バパは根拠を提示されませんが、俗に日本仏教では「7代たたる」とかいいますね)

両親からはじまってその先祖7世代、7世代目には128人(64夫婦)になります。

それを全て合計しますと両親までで254名となります。

さてそうしますと我々は254名が犯した間違いをすべて背負わないといけないのでしょうか?
(間違いの相続率が100%ですとそうなります。)


いやいや、そいつは少しむごすぎますね。

両親が犯した間違いの総量を2として、そのうちの半分の1が子供に引き継がれるとします。
(間違いの相続率を50%と仮定していることになります。)

そうしますと7世代合計でその間違いの総量は254、、、ではなく7になると思われます。

つまり各世代ごとの間違いの総量は2でそのうちの半分の1が子供に引き継がれるという事になります。

この考え方での計算結果詳細はまた後日にでも追記しておきます。

間違いの相続率を50%にしてもラティハンを始めるまでに我々が犯したであろう間違いの総量1に対して、身に覚えのない間違いが7はある、、、ということになりますので、さて恐るべきはカルマの蓄積であります。

追記
解けない謎!6代でも8代でもなく、なぜ7代なのか?
そうして、本州のみならず沖縄でも、加えてインドネシアのバパまでが「7代」という理由は何?

答え1<--リンク
人間が一度に感知することの出来る数の限界が七つだからです。
つまりその場合の七には「最たるもの」という意味があります。

ちなみにこの七を超えた数である八には「数えきれないほど多い」
という意味があります。

八百万の神、大江戸八百八町、八百屋、嘘八百に
使われている八はそういう意味です。


大辞林 第三版の解説<--リンク
ねこをころせばしちだいたたる【猫を殺せば七代祟る】
猫は執念深い動物なので、殺すと子孫七代までも祟るという俗説。


祖霊<--リンク
家系と祖霊[編集]
祖先の霊から共同体の神へ
沖縄地方では7代で神になるとされていた

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク


ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク


バパのカルマ論/上

「最初の人間はアダムである」という、これはアブラハムの宗教の体系の基礎であります。

そしてムスリムであるバパも当然ながらこの立場をとります。

そうしてイスラムは「人の原罪」を認めませんから、バパにとっては「完全な人」の象徴としては「アダム」ということになります。(7,10,1980)

さてそうではありますが、現在の我々の社会、人間のありようをみますればとても「我々は完全な人である」とはいえないありさまです。

そうなりますと、どこかで人は「堕落した」あるいは「劣化した」とするしかありません。

その原因は何か?

「それは人の間違った行動の結果である。」というのがバパの答えです。

そうしてそれをバパは「カルマ( karma)である」と呼ぶ場合もあります。(7,10,1980)


アダムが「完全な人」ならば、その行動も完全であって、カルマを積むことはなく、したがってアダムの子供たちも「完全な人」ではなかったのか?

そのような疑問は当然のことながら問われる事になります。

答えは「完全な人であっても、人間である事の制約はまぬがれない。」というものでありましょう。

つまり「カルマは積まれる。」という事になります。

そういう訳で、子孫が増えるに従って、代を重ねるにしたがって「間違いの総量は多くなり、それが子孫に順次伝えられていく」というのが「バパのカルマ論」となります。

この「間違いの総量」、あるいはカルマがまずはラティハンの浄化対象となります。

そうして、この「代々にわたって伝えられてきたものの大小が、多い少ないがラティハンの進歩の状況をも左右しているのだ」とも言われています。(たとえばスシラ ブディ ダルマ など)

これがきれいにならないと、言葉を変えますれば「アダムの状態」にもどらなといけません。

そのためにこの時代にラティハンが現れたのであります。(3,13,1965)、(6,18,1981)、(7,17,1981)


さて、「人が積むことになる間違い」というのは何であるのか、トークから引用しましょう。

「間違っている」とは、他の人々を傷つけたり、他の人々の自由を奪ったり、心の安らぎを奪ったり、などをすることを意味します。
あるいは、他の人に属するものを(自分のものとして)取りあげることです。(6,18,1981)

そのように行動しないことは、現代社会においては非常に難しいことになっています。

時代が進歩するにつけ、社会が複雑になるに従い、我々が自分の利益を優先する程度につれてこのように行動しないことはより一層難しくなるばかりであります。

さて、そうでありますれば、時代の進歩というのは「良くない事」なのでありましょうか?

時代は進歩せず、アダムが誕生して、そのまま「知恵の実」を食べずに、ただただ「イノセントでいた」方がよかったのでありましょうか?


それでは「今の様に宇宙が進展してきたという事実に意味はない」ということと同じでありましょう。

「ビッグバンは不要であった」と主張するようなものであります。

地球が誕生し、人が生まれ、そうして社会が発展することに、したことに意味がある、、、とするならば、ラティハンはただ単に「アダムの時代に帰れ」というものではありますまい。

そうではなくて、我々の社会がこのように発展した、その中にあってなおかつ「アダムのような内的状態である事」に意味があるのでありましょう。

それが「この時代に現れたラティハンの持つ意味」であると思われます。

追記:「人間の初源の状態は高貴でありそこに戻らなくてはならない」という考え方はジャワの伝統の中にも見いだせるものです。
これについては・Gumelaring Jagadの第1節を参照願います。<--リンク

PS
バパはイスラムでありながら転生を認めたり、カルマを認めたりしています。<--リンク

そして転生やカルマというのは極めて仏教的、ヒンドゥー教的な世界観であります。

これはやはり仏教ヒンドゥー教がまずはジャワを席巻し、そのあとでイスラムが広まって現在に至っているという歴史的な経緯によるものでありましょう。<--リンク

そうして「バパのイスラム」はそれほどに包容力が大きいという事ができそうです。<--リンク


ところで、バパが主張するような「親から子供に引き継がれるカルマ」という考え方はもともとの仏教ヒンドゥー教にあるカルマの考え方の中には無いようであります。

これは日本では俗説として「親の因果が子に報い」とも言われているものでありますが、それは誤解の様であります。<--リンク

本来のカルマというものは徹底して個人的なものであって、親のカルマと子供のカルマは独立した存在であるというものの様です。<--リンク


しかしながら、このカルマについてのバパの認識というものは一概に「間違っている」とは言えないと思われます。

その状況というのは、いわゆる遺伝学でいわれている「表現型=遺伝因子(DNA)+環境因子」というものと相似的です。

つまり現実に我々が抱え込んでいる「間違いの総量」というものは、カルマと言われるような「個人的な因果律によるもの」と、暮らしている国や社会、そうして両親が作る家庭環境などの「環境要因」の和になっていると思われるのです。

式で表せば「間違いの総量≒個人的な因果律によるもの+暮らしている環境要因」とまあ、こんな感じでしょうか。

そういう訳で、両親の影響というものは無視できるようなものでは無いことは明らかなのであります。


さてそうではありますがバパが主張している様な「生まれてくる子供は両親からの過ち(カルマ)を引き継いでいる」という考え方は一般的なイスラムの中にもない、という事には注意しておく必要があります。

イスラムでは「生まれてくる子供には何の罪、汚れもない」としているのであります。<--リンク

PS
通常は輪廻転生と対になって使われるカルマというコトバですが、バパがつかう「カルマ」ということばの中にはカルマによって必然的に引き起こされるような仏教、あるいはヒンドゥー教が想定しているような輪廻(サンサーラ)というものは含まれていない様です。(2,3,1974)<--リンク

しかしながらそのことばには「因果応報」という意味合いは含まれているのです。(3,17,1983)、(7,25,1977)

追記(9.21.2017)
上記(2,3,1974)トークの解釈にミスがありました。

基本的にバパは「全ての人は輪廻している」、つまりサンサーラは存在している、という認識の模様です。

但しその原因をバパはカルマとは呼ばずに「その人の間違い」と呼んでいます。

PS
ジャイナ教でのカルマの扱いは「非常に微細な物質であって霊魂に浸透して霊魂の本来の透明で純粋な性質を曇らせるとも考えられている。
カルマは一種の汚染であって、霊魂を様々な色(レーシュヤー leśyā)で汚染するとされる。」<--リンク

つまりはカルマとは「汚染」あるいは「汚れ」であるとしています。

他方でバパがいう所の「内部感覚(inner feeling)に積もり積もった間違いの総量」というのはそのような物質的なイメージではありません。<--リンク

それは当初はちゃんと整理整頓されていた広い場所が乱雑にものがちらかった状態になった、というイメージであります。

すこし固く言うと「エントロピーが増えた状態」ともいえます。

それは何か「汚れ」というものが外から持ち込まれた、、、というのではなく、前はきれいなパターンをしていたものが、ぐちゃぐちゃのパターンに変化してしまった、というようなものであります。


さて、この状態から元の「きれいに整頓された」、あるいは「きれいなパターン」に戻さないといけないのですが、これを人がやるのは無理であろう、、、とバパは言います。

なにせどこからどう手を入れて直していけばいいのか、目の前のものをどこに戻せばいいのか、皆目見当がつかない状態でありますれば。

とうてい人の手におえる代物ではありません。

いや、たとえば「これをこう直すのがよかろう」と人が直したつもりになっても、それは「修正」にはなっておらずかえって「改悪した」という結果になる事が予想できます。

まあそういうわけで、ここはラティハンにまかせるより他に手はないのであります。


そうしてラティハンの出番になるのですが、「ここをこう直しましたよ」と逐次の報告が上がってきます。

そのとき我々は「おおそうか、それでOKだ。」というのであれば、物事は速やかに進行していきます。

しかしながら「いいや、それではだめだ。気に入らない。」とナフス君がでしゃばるとそこでストップがかかりますね。

「これまでやってきたように行動するのが私のポリシーだ」という訳であります。

そして通常の日常行動は基本的に「ナフス君の管理下にある」のでありますから、ラティハンはそこまではでしゃばりません。

こうやってラティハンがせっかく修正したものを我々はまた元に戻すのでありました。

そうしてこの事を我々は「人間には自由意思がある」と表現するのであります。

その結果と言いますれば、結局のところラティハンを受けていようがいまいが、人は自分の認めたところ、意図したところまでにしか到達しない、到達できない、ということになるのであります。<--リンク


そしてカルマですか。

当然ながらそうして残念ながらそのような状況の下では、なかなか減少する、解消するという訳にはいかない様であります。

追伸
多くの人と人が「袖をすり合わせる」様にして暮らしているのが現代社会です。

そうして、そのような状況下では単なる思い違いによってでさえ簡単に社会全体がかかえる悪意、カルマの総量は増えてしまいます。

たとえばそのような例で、かつ身近に起こっているものを一つ紹介します。<--リンク

PS
以下(3,13,1965)トークから、カルマとその解消についての引用になります。
・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。

そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。

それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。

それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
 私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・

さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。

 

PS
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

 

ラティハンを始める人、やめる人

ラティハンを始める人がいれば、やめる人もいる。

引き留めてもなかなか無理な話で、その人なりに出した結論は変わらない。

一生懸命に「お誘い」しても、長続きする可能性は低い。

始めたりやめたり、こればっかりはその人の自由意思にまかされている。


私もオープンする時は「ああでもない、こうでもない」といろいろと悩んだもの。

それで、よくよく考えてオープンした人が、そのあともずっと続いているかというと
そうでもなかったりする。

はた目、かーるい気持ちでオープンしたような人が、やめることなく
続いていたりする。


こればかりは相性の問題で、なかなかどうこうすることはできにくい。

その時のそれぞれの人の状況が、それに輪をかけてくる。

だから、10年20年続いている人は、本当に感謝すべきことなのである。


ラティハンにしろ何にしろ、せっかく生まれてきた世の中ですから、
「物は試し」の気持ちでやってみることは大切だと思う。

考えてばかりいても何も変わらないし。

やってみてだめならほかをあたる、霊的な道だろうと世の中のことだろうと
そうやってしか人間、前には進めないようだ。


たいがいの事は、それなりに考えて「あぶないかな」と思いつつやることは
そんなにひどいことにはならない。

かえって、「これなら大丈夫。」と思い込んだ道の方が危なかったりする。


それにしても、「どれかの道を選ぶ」というのは大変なことだとは思いますよ。

それでも「どれかの道」を選んで歩いていかないと、前にはすすみません。

人生とはやっかいなものですね。

PS
周りのラティハンのヘビーユーザーを見回してみると、やっぱりバパを直接知っている人が多い。

そうしてそれはまあ当然と言えば当然のこと。

あれだけすごい方にはそうそうお目にかかれるものではない。

そうしてまた「そうか、ラティハンを続ければあんな風になれるのか」などと誤解して、熱心にラティハンにいそしむ。

まあそうやって、なんだかんだで続いてきている様子です。


かたやバパを知らない人は、「さて、ラティハンを続けるとどんな風になるのかな」などと考えて先輩方を観察します。

そうすると、まったくいろいろな人がいて、それぞれが自分独自の思いをもって生きておられる様子。

まあ、おおざっぱにいえば皆さん、基本はお人好しでそれ以上でもそれ以下でもない、まあ普通の人にしか見えません。


さてそうであれば意見の食い違いやら何やらでもめることもあります。

そんな様子ですから、まったく普通の人のあつまり、町内会のあつまりと変わりはありません。

そうであれば、気の合う先輩もいるでしょうし、合わない方も出てきます。

まあそういうわけで、周りの先輩諸氏からはどうにもラティハンの効果、あるいは恩恵のようなものが感じられません。

そうしてそのような状況を新たに参加した新人さんは自分の価値基準をもって「ああ、これは大したことがないものだ」と判断します。

そうやって先輩方に対する失望の中で多くの人がラティハンから離れていった様に思われます。


そうやって離れていってしまった方々を批判するつもりはありません。

実際のところ、個人的にはそのような経験もしました。

それでは何故いままでラティハンを続けられたのでしょうか?

実際のところ、パパを知っていた、と言う事は大きな事であったでしょう。

バパを通じてですが、ラティハンと言うものが諸先輩方が表現しているレベルで終わるものではない、という確信がありました。

そうであれば、道の途上にある我々が理想的なありようからいくら離れていたとしても、まあその事で多少は失望はしますが、それでラティハンをあきらめる、見切りをつけると言う事はなかったのであります。(2017。6.24)

PS
ラティハンの魅力は何と言ってもその自由度の高さにあります。

宗教のように、特別に信じなければならない様な教義や信条、特定の儀式もありません。

それぞれの人がそれぞれの性質に従って受けるラティハンがそこにあるだけであります。


特定の宗教をお持ちの方はそれを信条にして生活されればよく、宗教ではなく科学、あるいは思想、一般的な常識などの内から好きなものを選んで自分の信条にされればよいのであります。

つまり現状のありようから何かを強制的に変える必要などはなくラティハンを始められるのであります。

この自由度の高さは特筆すべきものでありましょう。

霊的な道を名乗る他の道にはないものの様に思われます。


「それでは何も変わらず、ラティハンを受ける意味がないのでは?」といわれますか。

そうですね、ラティハンのスタートというものはそのようなものです。

しかしながらあなたがラティハンを継続するにつれて「ここはこうした方が良かろう」という修正項目があなたのラティハンから出てきます。

そのあたりがまずは分かれ目でしょうか。

「いいや、そうはいうものの、そこは変えれない」とあなたが言うならば、それこそ何も変わりません。

「そうだねえ、それでは変える努力をしましょう」ということになって、ようやくあなたのラティハンは次のステップに進む事が可能になるのでありました。


ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

スシラ ブディ ダルマ・3章 植物力の性質と働き

さて次は植物力ですが、ここでの記述も1987年発行の「スシラ ブディ ダルマ」に準拠となります。

73~97ページ・・・植物力の説明、対象となる植物的な存在と食べる事によりそれらが人に与える影響について

         ・・・並行してラティハンがどのように進行、発展していくかについての記述

以下、順不同にて植物力の章で記述されている項目を並べておきます。

体を作る働き
食事の重要性と霊的な意味
植物にとっての「食べられることの意味」
植物力が人に与える影響
稲(お米)、野菜、ココ椰子の実、筍
村人の生活と運命
都会人の生活と運命
成功した人のまねをする人の末路
仕事の意味
同僚をねたむ者
ラティハンによる修正
死後に起こること
思考力は内部感覚に従うべき
物語の内容の真偽を知ること


植物力の説明で、対象となる植物的な存在とそれらを食べる事によりそれらが人に与える影響についてのより詳細な内容については以下の記事を参照願います。
植物力の説明(1)<--リンク
植物力の説明(2)<--リンク


バパはスシラ ブディ ダルマを発表した後も多くのトークで植物力の性質とその働きについて語っています。

以下はそのようなトークから関連していると思われる部分の引用です。

そういう訳で以下のものはスシラ ブディ ダルマの植物力の章を補完するものとなります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

6章アスマランダーラ30~31節 1952年
それゆえ子供たちよ、植物たちの状況は前に述べた物質力の状況と似ている。
違っているのは、物質力は人間の思考のみに影響を与えるのに対して、植物のエッセンス(注:これが植物力の実体)の持つ力は人間の全身の感覚に影響を与えるという点である。
この二つの力はともに人間と密接な結び付きを持ち、人間とまじりあうが、しかしながら人間にとっては単に付随的な力にすぎない。
(注:そのような状況にしなくてはならない。それらの力に支配権を与えるとしたら、それは人間の側の間違いである。)

7月8日1970 - Bapak
第二に、野菜の生命力です。
人間の生活の中に参加している植物の生命力が人間自身の中で働く場合は、それはaluamahと呼ばれるnafsuとして現れます。
・・・・・
これは野菜の生命力に適用され、それがなければ人間がこの世に生きることはできません。
長期的には、肉と血、骨と骨髄、筋肉と腱、そして残りのすべてが植物によって維持されます。
もし野菜や穀物などを食べることがなかったとしたら、あなたは確かにあなたの現在の身体形状を持っていないでしょう。
そして多分あなたの形は影のようなものであったことでしょう。

12月5日 1970 - Bapak
野菜の生命力から生まれるナフスnafsuはアルアマaluamahである。
・・・
あなたがナフス・アルアマnafsu aluamahなしで住んでいたなら、あるいはそれがあなたを離れたならば、あなたは植物や野菜について何も知らない事になります。
他方であなたは地上に住むために植物(野菜や果物)を食べる必要があります。

11月26日 1972 - Bapak
・・・・・
次にあなたはまたナフス・アルアマnafsu aluamahによって満たされるか、または力が供給されています。
これはナバティアnabatiah又は植物の生命力から生じます。
あなたはナフス・アルアマnafsu aluamah、ナバティアnabatiahの生命力を本当に持っている必要があります
ナバティアnabatiahの生命力なしではあなたは食べるという事がことができません。
もしあなたが食べるという事ことができなかった場合は、あなたはあなたの肉と血を維持することができず、今ある様な人間であることはできませんでした。
だから、このナフスnafsuが必要です。

4月24日 1984 - Bapak
これは、ロホ ナバティ(植物力)です。
ご存知のように、多くの人々がこのような禁欲主義を実践しています。
食べ物が彼らの口に来る場合を除き、彼らは食べることを望まないだろうと言う人たちもあります。
そうです、食べ物はそのために仕事に努力する事がなければ、何もせずにただ口に来るということはありません。
・・・・・
なぜでしょうか?
野菜(ナバティ)の生命力を避けるためです。
それ(ナバティ)は怒りの情熱ナフス・アマラnafsu amarahを生じさせます。(引用注1
しかし人は、これら二つの生命力(物質力と植物力)なしでやっていくことはできません。
彼がそれらを持っていなかった場合、彼は人間ではないであろう。
彼は精霊やゴースト(幽霊)として知られているものになるであろう。
・・・・・
引用注1:このトークではバパは植物力にナフス・アマラnafsu amarahを結びつけています。
そうしてこの対応のさせ方はいつもバパが行っている植物力にナフス・アルアマnafsu aluamahを結びつける対応のさせ方とは違います。
それゆえ、これはたぶんバパのトークの時の思い違いであろうと思われます。

6月26日 1984 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、アルアマaluamahとアマラamarahで、貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。
・・・・・
二番目の影響は野菜です。
人間に作用する植物の力は、彼のためにも(物質力と)同様に必要不可欠なものです。
それらの野菜は人間が食べる食べ物を表すのです。
その食べ物がなければ、人間は存在できないし、人間の身体は存在しません。
・・・・・
兄弟姉妹の皆さん、世界には自分が食べる量を減らしたいという多くの人々がおります。
言い換えれば、食物への依存を減らしたいのです。
ここでもふたたび兄弟姉妹の皆さん、それは人間にとっては可能ではない何かがあります。
それが不可能な理由は、人間であるためには、あなたはあなたの存在の中で物質、植物、動物、人間という4つの要素を結合する必要があるからです。
・・・・・
これらの要素の内で一つでも欠けた場合は、もはやあなたは人間であることを意味しません。
したがって実際には、あなたはこれらの4つの要素を利用し、そしてそれに依存するように制約されています。
それにもかかわらず、一部の人々は完全に食べることをやめようとします。
その結果、もし彼らがそれを達成すれば、もはや彼らは人間ではなくなるでしょう。
彼らはデワ dewasのようになるでしょう。
(訳注:デワdewas インドネシアでは多くの神々が信仰されている。そうした神々の事を指す。)
神々は実際には(我々の様な)食事はしません。
彼らはエッセンス、物の中にあるエッセンスを吸収します。

1月19日 1985 - Bapak
兄弟姉妹の皆さん、ロホ ナバティ(植物力)は人間に必要であり、そのナフスは彼らの中にもあることは明らかです。
彼らはそれを取り除きたい、そして彼らがそのようにできた場合には、彼らは食事をしなくなります。
・・・・・
もし彼らがロホ ナバティ(植物力)を捨てることができれば、
それは神が全能ではなかったことを意味します。
神はこれを人間の生命に伴うものとし、人間の生命に必要なものとしたからです。
・・・・・
ロホ ナバティ(植物力)、野菜のロホ、それがそれ自身で自然に成長するとき、それは草や木と呼ばれます。
しかし、人間がそれに近づくと、彼らはそれを必要とし、それらは人間の食べ物と呼ばれます。
それは米、小麦、リンゴと人間の生活のために重要であるその他のすべてのものです。
・・・・・
彼らはそれを必要とし、それらは人間の食べ物と呼ばれます。
それは、ナフス・アマラnafsu amarahを体現します。(引用注2
兄弟姉妹の皆さん、これなしで彼らは人間と呼ばれることはありません。
そうして、彼らは人間ではない場合、彼らはいったい何なのでしょうか?
・・・・・
(以下はこのトークの上記説明よりも前の段落での言及になります。)
この物質生命力、これは人々が最も低い力と呼ぶものであり、それらは脇に置くことができないものです。
物質的な生命力は人間自身の中にナフス・アルアマnafsu aluamahと呼ばれるナフスとして現れ、人々はその絆から自らを解放することができないものです。(引用注2
・・・・・
引用注2:このようにこのトークではバパは物質力にナフス・アルアマnafsu aluamahを結びつけ、植物力にナフス・アマラnafsu amarahを結びつけています。
そうしてこの対応のさせ方もいつもバパが行っている対応のさせ方とは真逆のものになっています。
ですのでここでもたぶんバパのトークの時の思い違いであろうと思われます。
あるいは、2回も思い違いをしたと考えるのが無理なら、他に理由があるものと思われます。
そういう訳で、この件はページを改めて考えたいと思います。<--リンク

5月9日 1985 - Bapak
神は全能であり、また人間にロホ ナバティroh nabati、植物の生命力を与えています。
もちろん、あなたがた全員が植物が何であるかを知っています。
果物を実らせる植物があり、そして米や小麦などの収穫することができる植物があります。
・・・・・
そして植物の生命力からナフス・アルアマnafsu aluamahは人間の存在内に具現化され、あなたがまだ生きている間にあなたはそれを取り除くことはできません。
肉、肌、血液は植物から栄養を取り入れ、それゆえ人間がナフス・アルアマnafsu alwamahを避けたり、捨てたりすることは不可能です。
・・・・・
6月9日 1985 - Bapak
物質力に加えて兄弟姉妹の皆さん、植物の生命力と呼ばれる人間の自己を包む別の力もあります。
それはあなたの肉、血、皮膚、神経、骨などに栄養を与える食品であり、それによってあなたはこの世界で人間として生きることができます。
あなたが食事をしていない場合は、あなたは目に見えるような人間としては存在していませんでした。
あなたがたはある種類の創造された者かもしれませんが、兄弟姉妹の皆さん、あなたがたは目には見えない生き物であったことでしょう。
それがあまりにも極端な断食や禁欲主義が奨励されたり、承認されたりしない理由です。
・・・・・
あなた方はそれを一定の限度内で行うことができます。
つまりあなた方はこの世でのあなた方の人生が繁栄するのを助けるためにそれを行うことができますが、それは正しい方法でなされなくてはなりません。
通常、食べ物や飲み物を控える人たちは、黒魔術のような人類にとって異質で奇妙な習慣に入りたがります。
しかしそれは神によって非難されるような罪にあたります。

6月17日 1985 - Bapak
二番目のものは植物の世界の生命力から生じます。
そして、この生命力は肉体を持っている人間を可能にするものです。
そう人間はこの生命力の助けを借りて、植物質を消費し、それから彼の血液、彼の肉、彼の骨髄、彼の骨と彼の存在を構成するすべてのものを作成することができます。
このすべては、植物質から作成されます。
そういう訳で非常に大きな植物の生命力の影響が人間にあります。
・・・・・
全能の神を十分に満足できるような形で礼拝するために自分自身を浄化しようとして、人間はこの生命力とこのナフスnafsuからも自分自身を解放しようとします。
彼らは禁欲主義によってこれを実行します。
食品を控えることで、飲み物を控えることで、そうしてそれはまるで彼等自身を拷問している様です。
しかしこれは完全に間違っています。
これは彼が求めているものを達成することができる手段ではありません。
確かに彼はそれによって植物の世界の生命力から自身を分離することができます。
しかしその結果は、彼が期待するものとは異なるものになります。
神は人間が求めているものは何でも人間に喜んで与えます。
しかし人間はそのようにすることで、魔法と呼ばれるものや、そのようなあらゆる種類の特異な結果を得るでしょう。
だから人間がそういうことに身を落とすことは神のせいではありません。
それは人間自身の責任であって、間違ったことを追求するため、間違った方向に行くのです。

6月24日 1985 - Bapak
さてこんどはナフス・アルアマnafsu aluamahについてです。
これは、野菜や植物の生命力に由来します。
そして人間はそれが彼らの内なる自己を乱すと言う事を悟るので、やはりこの力も避けようとします。

6月25日 1985 - Bapak
さてそれからナフス・アマラnafsu amarahだけではなく他のnafsuもあります。
これらはナフス・アルアマnafsu aluamahと呼ばれるものであり、それは植物の世界から来ています。
植物は人間の生活のために必要ですか?
これらは重要でありそうしてまた必要なものです。
そうして彼らは重要かつ必要であるだけでなく、この世界における人間の生活は人間が植物を食べるゆえに存在することができるのです。

連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク