ラティハン日記・掲示板

ラティハンに関係したいろいろな事の掲示板です。There are many varieties of bulletin boards related to Latihan.

インドネシアのクバティナン(kebatinan)事情1

 Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

 「ジャワの宗教と社会」福島真人著の記述内容にそって、4大クバティナンの状況を見ていきましょう。

そして、「始まりの物語」の1979年の記述、まずはここから始めましょう。<--リンク

1979年  クバティナン諸派(引用注:含むバパの協会)の管轄が宗教省から教育文化省に変更された。

同時に「唯一なる神への信徒協会」(HPK:注1)がクバティナンの唯一の公認組織体となる。(ジャワの宗教と社会 P380より引用)

但し、インドネシア全国レベルで信者を有するのは以下の4つのもの。

スブド (Subud)・・・徳、善行・・・イスラムと共存する派・・・1万人(全世界合計)
パンゲストゥー (Pangestu)・・・祝福・・・5万人
サプト・ダルモ (Sapta Darma)・・・七つの義務・・・1万人・・・反イスラム意識が高い
スマラー (Sumarah)・・・服従・・・0.6万人

そうしてスマラーのみが「唯一なる神への信徒協会」に参加し、この組織のトップを歴任している。
(注1)
Himpunan Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan YangMaha Esa :HPK 信徒協会
以上、P111、P175、P380、P385、JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS より


1、サプト・ダルモ (Sapta Darma)・・・七つの義務・・・1万人・・・反イスラム意識が高い

P99の記述では「数十万人の信者がいる」とありますが、自分たちのカウントと外部のカウントが合わないのはいつものことであります。

実際「JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS」の記述では<--リンク
「1982年  教育文化省に登録されている「信仰」団体数は93で、中部ジャワ合計でトータル123570名の会員数でした。」とあります。

これが正しいとするならば、サプト・ダルモのみですでにこの人数を上回っていることになってしまいます。


さて、サプト・ダルモは1954年ころに始まったものであるらしい。(Apakah Itu Sapta Dharma?)<--リンク

初代 Sri Gotama 二代目 Sri Pawenang女史。(P385)

このグループの基本的な宗教実践は、クンダリーニ・ヨガそのものであり、生命のエネルギーが背骨を通って徐々に頭頂に向かって上がっていき、そのエネルギーの上下に従って胡坐をかいている信者の体が前屈したり、元に戻ったりする。

そして究極的にはそのエネルギーは頭頂から天に向かって放出され、神との一体化をはかるという。

ただし彼らはそれがクンダリーニ・ヨガの一派であるとは決して認めない。・・・(P107)

・・・他のクバティナン・グループと一線を画したいという気持ちが強く、公的にはクロハニアン(kerohanian つまりrohani精神に関係したことの意)という名称をもちい、「クバティナンとは違う」という姿勢を鮮明にしている。

・・・その意味では特にイスラムに対する敵意をあらわにすることも多かった。(P108)

つまり彼らは「自分たちは独自の宗教である」という「暗黙の主張」をしている。

しかしながらインドネシアでは「宗教(agama)」は公認された6つの「世界宗教」しか使う事ができないコトバなのである。

それゆえに彼らの主張の仕方は「屈折したもの」にならざるを得なくなってしまうのでした。

ちなみにサプト・ダルモ (Sapta Darma)についてのより詳細な説明は『スマルとは何者か? Apa dan Siapakah Semar? 』という資料の10~11ページに書かれてありました。<--リンク

興味のある方はご参照ください。


2、パンゲストゥー (Pangestu)・・・祝福・・・5万人

この協会は、ソロ1949年5月20日に設立されました、神の永遠の教祖真/メッセンジャーの教えを通して高貴な魂(内側の良識を)構築することにより、心、平和と幸福の平和を必要とする人に開かれています。

真のマスターの教えは、最初の2月14日、その後1932年にR. Soenarto Mertowardojoによって受信された、真のマスターの教えは、周りの人に知られ、求められています。

インドネシア内に204支部をもち会員数20万人。

パンゲストゥーは新しい宗教ではなく、神からの啓示による宗教と競合することはない。 <--リンク


このグループは非常に包括的な神学の教義体系を持ち、それに関連した倫理的行為を特に強調している。

彼らは他のクバティナン組織が強調している瞑想や行といったものにそれほど重きをおかず、日常的な実践が大切と考える教団である。

複数の宗教(キリスト教イスラム、仏教)を統合した複雑な神学は、知性主義的な傾向をもち、それゆえ大都市のインテリ層の間で特に信者が多い。(P100,P107)


3、スマラー (Sumarah)・・・服従・・・0.6万人

1935年~37年にかけてのSukinohartono(Pak Kino)の体験を起源とする。

そうして、Pak KinoはスブドヘルパーWignosupartonoによってオープンされた様です。<--リンク

つまり、かれは一時期ラティハンを実習していた、、、訳でありますね。

会員数は1977年で6000名ほどの様です。<--リンク


この教団は一般にパモン(pamong)と呼ばれる瞑想の個別指導者を中心に、彼との対話と共同の瞑想で、ある種の霊的直観力(rasa)を訓練していくもので、やはりドクトリンよりも具体的な瞑想の訓練そのものが活動の中心になる。

また、このグループは外国人の信徒も多い。

それから、信仰協会(HPK)などの政治活動、政治参加に積極的である。(P108)


4、スブド (Subud)・・・徳、善行・・・イスラムと共存する派

1925年のムハンマド・スブー(Muhammad Subuh)の体験に起源をもつ。<--リンク

ムハンマド・スブーは、人々はもはや言葉だけを信じていない、そうして個人的な証拠や宗教的あるいは精神的なリアリティーの証明を要求するものとして、現代を見ました。

彼はスブドは新しい教育や宗教ではなく、latihan kejiwaan自体は人類が探していることの証明のようなものであるということだけを主張しました。 

彼はまた、kebatinan組織としてスブドの分類を拒否しました。 

今スブドグループは約83カ国で約10,000の会員数です。<--リンク


この教団はエクスタシー型の自己催眠のような経験を強調する。

その訓練は基本的に指導者と新人がペアで行い、指導者がエクスタシー状態になるのに応じて、新人もそうなれるように訓練していく。

このエクスタシー状態というのは神との直接的な接触であると考えられており、それによって心身が浄化される。

これを外から見ると、部屋を暗くして例会が始まると同時に参加者の間でうめき声やすすり泣き、あるいは歌声などが一斉に起こり、ある者はうろうろ歩きまわり、またある者は転げまわったりとかなり壮絶な状態になる。

スブドはジャカルタでおおきな影響をもつと同時に世界的にもかなりかなり広まっていると彼らは強調している。

・・・スブドにはこれといった教義体系は存在せず、基本的に実践中心である。(P108)


5、まとめ

以上から、クバティナン諸派の「クバティナンは法的には「唯一なる神への信仰の徒」(Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)である。」という政府の方針に対しての反応は以下のようになります。

1、サプト・ダルモ (Sapta Darma)・・・七つの義務・・・1万人・・・反イスラム意識が高い・・・我々はクバティナンではない・・・否定的反応

2、パンゲストゥー (Pangestu)・・・祝福・・・5万人・・・その立場でよい・・・肯定的反応

3、スマラー (Sumarah)・・・服従・・・0.6万人・・・「信仰協会」に積極的に参加・・・積極的反応

4、スブド (Subud)・・・徳、善行・・・イスラムと共存する派・・・1万人(全世界合計)・・・我々はクバティナンではない・・・否定的反応

以下参考。

1973年  国家政策大綱に「宗教」と並んで「唯一なる神への信仰」(Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)という言葉が正式に明記され、これによってクバティナンは「信仰」として正式な認可を受けることになった。(ジャワの宗教と社会 P380より引用)

これによりクバティナン諸派は法的には「唯一なる神への信仰の徒」(Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)ということになった。(同書 P106) 


PS
・・・スブドにはこれといった教義体系は存在せず、基本的に実践中心である。(P108)

まあ外側から観察したら、外部に対してあまり情報を出さない団体についてはそのような結論に至るのも仕方のないことであります。

しかし、4つのナフス(nafsu)をもつ人間7つ+2つのロホ(Roh)からなる生命世界を前提に展開されるバパの話が何の体系もないもの、、、などということはあり得ません。<--リンク

あるいは、たとえば「スシラ ブディ ダルマ」を読まれていたらまた違う記述になったかとも思われます。<--リンク

まあそうではありますが、福島さんの調査にそこまでの詳細さを求めるのも酷というものであります。

追記
以下バパによるクバティナン(kebatinan)の定義です。

『普通、スピリチュアル トレーニングは、インドネシアでクバティナン(kebatinan)と呼ばれるものは、沈黙の中で、静かに思考を集中させることによって行われます。

あるいは、意識を集中し、思考をなくすことで行われます。

事実、それを行う時は、普通食べ物や睡眠をへらし、時には人間社会から遠く離れたさみしい場所にとどまります。・・・』(1963年6月29日)

このバパのクバティナンの定義に従うならば、「ラティハンはクバティナンではない。」という事になります。

従って、上記の様に「我々はクバティナンではない」と主張する事になります。

しかしながら、インドネシアにおいてはこのバパの主張は一般的には認められる事はなかった模様です。
(仮にバパの主張を認めたとしても、宗教団体登録は政府により拒絶されている為、残された唯一の政府公認の団体登録は「信仰団体登録」、つまり一般には「クバティナン登録」として知られているものしかないのが実情です。)

ちなみに「あるいは、意識を集中し、思考をなくすことで行われます。」の例としてはこのようなものになります。<--リンク

PS
インドネシアと日本の宗教選択制について
まずはここから始めましょう。

1965年  バパの協会を含む多くのいわるゆる「新宗教」は厳格なイスラム教徒とキリスト教団体からの圧力の下での大統領決定により「宗教」とはみとめられなかった。

こうしてパンチャシラ及び憲法のいうところの「宗教」とは「イスラム教、キリスト教プロテスタントカトリック)、ヒンドゥー教、仏教、儒教」ということになったのであります。

今までは憲法は「信仰」(Ketuhanan Yang Maha Esa、唯一なる神格)を奨励し、宗教の状態をサポートしていたが、法律がまだ「宗教」を構成するものを明確にしていなかったのでした。

ーーー この部分はSUBUD (Susila Budhi Dharma) (Religious Movement)からの引用です。<--リンク


後日に至りて儒教は仏教の中に吸収され、現在では公認宗教は5つになっている模様です。(「ジャワの宗教と社会」福島真人

こうしてインドネシアでは事実上、すべての国民は政府の要請により、何らかの宗教をもつことになりました。

さて、それでは現在のインドネシアの宗教%はどうかといいますと、

イスラム教・・・87%

キリスト教・・・10%

ヒンドゥー教・・・2%

仏教・・・1%

合計で100%。

皆さん全員、なんらかの宗教に属しておられます。<--リンク


この話を最初に聞いたときは「どこかで聞いた事があるなあ」と思いました。

そう、寺請制度ですね。

江戸時代に施行された、寺請制度、以下Wikiよりの引用です。<--リンク

寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。

寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。

必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれる。・・・


こうして一度民衆とお寺が結び付けられますと、そこから慣習が生まれてきます。

・・・1700年頃には寺院側も檀家に対してその責務を説くようになり、常時の参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌・釈迦の誕生日・釈迦涅槃日・盆・春秋の彼岸の寺参り(墓参り)を挙げている。

以上、「檀家制度の確立」から引用です。<--リンク

こうして現代でも存在する各種の慣習が生まれてきました。

そのような環境に生まれてくれば、家の宗教が自分にとってなじみが深くなるのは当たり前のことであります。

こうして日本の場合は選択宗教制ではなく宗教固定(仏教)宗派選択制ではありますが、宗教に対する統制が行われて来たのでありました。

PS
ご参考までに。
・クバティナン関連の目次です。<--リンク
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

The one and only God (Tuhan Yang Maha Esa)

  Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

 Below is quoted from " · PERKUMPULAN PERSAUDARAAN KEJIWAAN SUSILA BUDHI DHARMA (SUBUD)".<-- link
ーーーーーーーーーーーーーーーー
『Foreword

This brief explanation of SUBUD was cited from the summary created at the request of the Ministry of Education and Culture of the Republic of Indonesia and the Council President of God's Councilor, and the spiritual speech material which is the attachment of the letter of the date It was arranged by Subud Indonesia according to the instructions given as an overview.
  May 1988 May 159 / F.6 / E.2 / 1988
・・・・・

II. UNDERSTANDING BASIC PATTERNS

a. Conception about Tuhan Yang Maha Esa

Subud's understanding and understanding of Tuhan Yang Maha Esa is that Tuhan Yang Maha Esa with His power includes
all of His creations, both glorious and invisible.

・・・

c. Conception about the Universe

Tuhan Yang Maha Esa created the universe and Tuhan Yang Maha Esa's power encompasses all of His creations.

・・・・・

Ill. BASIC EVENT PATTERNS

a. Spiritual Behavior

The procedure for worshiping Tuhan Yang Maha Esa is done by Subud members through their respective religious procedures. 
Latihan Kejiwaan of Subud is not an appreciation procedure. 
Latihan Kejiwaan of Subud is an acceptance that has no procedure except the complete surrender to the power of Tuhan Yang Maha Esa, which then for Tuhan Yang Maha Esa's mercy will generate a sense of self, free from the influence of lust and mind.
 This motion is a motion that is raised by the power of Tuhan Yang Maha Esa and is only to be followed.

・・・・・

IV. BASIC PATTERNS OF OBSERVATION

b. Practicing in the Life System, and Ceremonies (rites) in the Life Environment.

Subud does not have a specific ritual in the order of life and in the circle of community life. 
The ceremonies of the Subud members in the order of life follow their religious rites and their respective customs.

・・・・・

The events in everyday life seem guided to the good, towards perfecting us as whole human beings,
as the most noble creatures of Tuhan Yang Maha Esa, who are able to receive His love if we only accept it.

Tuhan Yang Maha Esa's power is in us, filling and encompassing the whole self and inseparable. 
Through Latihan Kejiwaan of Subud, we can feel Tuhan Yang Maha Esa's power.

Jakarta, December 22, 1991』


Well Bapak says in the talk "Latihan is a worship service to Tuhan Yang Maha Esa, the one and only God".

However, Sudud Indonesia seems to have officially not made such a statement.

『The procedure for worshiping Tuhan Yang Maha Esa is done by Subud members through their respective religious procedures. 
Latihan Kejiwaan of Subud is not an appreciation procedure. 
・・・・・
This motion - movement caused by Latihan - is a motion that is raised by the power of Tuhan Yang Maha Esa and is only to be followed.』

Thus, in Indonesia, it turns out that Latihan is officially recognized as practice, training, or spiritual training as opposed to worship.


Above is a quotation from Indonesian (original) below.

『PENDAHULUAN

Keterangan singkat tentang SUBUD ini diangkat dari suatu sinopsis yang dibuat atas permintaan Direktur Pembina Penghayat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa, Departemen Pendidikan dan Kebudayaan Republik Indonesia dan disusun sesuai dengan arahan seperti tercantum sebagai Garis Besar Materi Pemaparan Budaya Spiritual yang merupakan lampiran dari surat tertanggal 3 Mei 1988 nomor 159/F.6/E.2/1988 kepada Pengurus PPK Subud Indonesia. 



II.  POLA DASAR PENGERTIAN

a. Konsepsi tentang Ketuhanan Yang Maha Esa

Pemahaman dan pengertian Subud tentang Ketuhanan Yang Maha Esa adalah bahwa Tuhan dengan kekuasaanNya mencakup seturuh ciptaan-Nya baik yang terpandang maupun yang tidak tampak.

・・・

c.  Konsepsi tentang Alam Semesta

Tuhan Yang Maha Esa menciptakan alam semesta dan kekuasaan Tuhan meliputi seluruh ciptaan-Nya.

・・・・・

Ill.  POLA DASAR PENGHAYATAN

a. Perilaku Spiritual

Tata cara ibadah kepada Tuhan Yang Maha Esa dilakukan oleh para anggota Subud melalui tata cara agamanya masing-masing. 
Latihan Kejiwaan Subud bukan merupakan tata cara penghayatan. 
Latihan Kejiwaan Subud merupakan suatu penerimaan yang tidak ada tata caranya kecuali penyerahan diri sepenuhnya kepada kekuasaan Tuhan Yang Maha Esa, yang kemudian atas kemurahan Tuhan akan membangkitkan gerak rasa diri, bebas dari pengaruh nafsu hati dan akal pikiran.  Gerak tersebut merupakan gerak yang dibangkitkan oleh kekuasaan Tuhan dan hanya tinggal diikuti saja.
Gerak tersebut merupakan gerak yang dibangkitkan oleh kekuasaan Tuhan dan hanya tinggal diikuti saja.

・・・・・

IV.  POLA DASAR PENGAMALAN

b. Pengamalan dalam Tata Kehidupan, dan Upacara-upacara (ritus) dalam Lingkungan Kehidupan.

Subud tidak mempunyai ritus khusus dalam tata kehidupan dan dalam lingkaran kehidupan bermasyarakat.  
Upacara-upacara para anggota Subud dalam tata kehidupan mengikuti ritus agamanya dan adat-istiadat yang dianutnya masing-masing.

・・・・・

Kejadian-kejadian dalam kehidupan sehari-hari terasa terbimbing ke arah kebaikan, ke arah penyempurnaan kita sebagai manusia seutuhnya, sebagai makhluk Tuhan yang paling mulia, yang mampu menerima kasih sayang-Nya jika saja kita mau menerimanya.


Kekuasaan Tuhan ada pada diri kita, mengisi dan meliputi seluruh diri serta tidak terpisahkan.  
Melalui Latihan Kejiwaan Subud, kekuasaan Tuhan ini dapat kita rasakan.

Jakarta, 22 Desember 1991 』


PS
In other words, "Indonesian Buddhists are supposed to believe in one God ".

Well I wrote this, but this is "comment from the Japanese view point".

There is a possibility that Buddhists in Indonesia seriously believe "Tuhan Yang Maha Esa".
("The only god" is written as "Tuhan Yang Maha Esa" in Indonesian language.)


That faith in only God is what has been going on since very long ago.
And on top of that history is Buddhism and Hinduism first, followed by Islam and Christianity.
(Buddhism and Hinduism were pushed toward the edge.)

And people in Indonesia think that "These gods of outsiders are all Tuhan Yang Maha Esa's changed shape, and the essence is the same".

As it is so, in our eyes it seemingly reckless, that is Pancasilawhich seems impossible, but it is established.<--Link

First of all in Pancasila
1, "Faith in only God" (Ketuhanan Yang Maha Esa)
It is decided .

People in Indonesia acknowledged this, "Although six religions of Islam, Protestantism, Catholicism, Hinduism, Buddhism, Confucianism are recognized in Indonesia ..."
All these religions admit that it is "Faith in only God" .

And naturally, there is no one saying "NO" because it is asked that the oath at the time of opening also believes "Tuhan Yang Maha Esa".

It is not asked like "The only Almighty God".
This is the situation in Indonesia.


What happened in Japan now?
First of all, "Tuhan Yang Maha Esa" is translated into English.

An English translator of the Christian culture zone translates it into God Almighty or The only almighty God, and Japanese translates it as "The only Almighty God (唯一全能の神)" from English sentence.

Then you are asked like this.
Do you believe in "The only almighty God"?

The talks of Bapak which are transmitted is all written as if the God of Subud is the God of Abraham's religion.
Well then it usually makes us think that "the only almighty God" is that God.

By the way, it was a Buddhist who was in trouble.
(Indonesian Buddhists are not troubled.
However, all Buddhists other than Indonesia were in trouble.)
・・・・・

The translators around the world acknowledged the second source which translated from Indonesian to English in this way.
And they translated them into their own languages from there.
Therefore, when the applicant are opened , the applicant has to say that "I believe The only Almighty God" all over the world.
The situation started like that.

It seems that the concept of "Tuhan Yang Maha Esa" as existence beyond all god's name exists only in Indonesia.
For that reason, such misunderstandings or confusion occurred and spread throughout the world.

PS
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List of articles<--Link

スシラ ブディ ダルマ・7章の2 人の世界から動物の世界に落ち込む事

 Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

第8章 キナンティ 45節~51節(動物力の章:一部要約あり)
『45、なぜなら人生において当然重要だとされるべきことは、単に食物を得ることだけではない。
確かに食物は必要ではあるが、完全な人間の生命(the life of a perfect human being:ロハ二Rohaniと呼ばれる段階の生命)についての洞察を得る事は私たちの取っての本質的な義務であり、その義務を果たそうという願いをもつ事は必要な事である。

46、なぜなら、そのような洞察を得る事によって、私たちはすぐに魚、つまり動物力が自分の内部でどのように働くのかについて確実に気が付く様になる。
そうして、自分の内部にある種々の(低次の)力を区別する事ができるであろう。
(注:ただし実際の所、この状態についての会員からのレポートは見たことがありません。
つまり、いろいろな生命力を見分けること、というのは、我々にとっては通常はそれほど簡単ではない、と言う事であります。)

47、私たちは又それらの力を秩序づけ、正しい方向に流してやることが出来るであろう。
それは、これらの力をそれぞれの伴侶に結びつける事で満足感を抱かせる事になぞらえる事ができる。
(注:我々が食べている食物に付随している生命力は植物力と動物力になります。
それで、生まれた時に親から譲り受けた4つの低次の力、それはこの世で人間が暮らしていく事を可能にする力でありますが、その中に植物力と動物力があります。
我々が食事をする、という事を生命力の相互作用という観点から見ますれば、外にある、食事によって取り込まれた生命力が、元から内にある(親からもらった)生命力と出会う、そうして正しく出合えれば、良い結果、つまりは体は健康になり、精神も良好に健康になるという結果をもたらす訳です。
そうであればその時に我々は「うまい」と感じ、食物に感謝する感情を感じるはずであります。
それは実に動物力と植物力が人間に対して持つ事になるであろう感謝の感情の反映でもありましょうか。
さて、この辺りの事を扱った以下のような記事もありますので、ご参照の程をお願いします。
・バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・3 植物の魂(植物力)-1<--リンク
・バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・4 動物の魂(動物力)-2<--リンク)

48、このようにして動物力を満足させるならば、人はさらに進み、被造物の長(おさ)としての彼の立場をより高める道が開かれる。
(注:動物力レベルの内部感覚Rasa diriや内部自我Diri Pribadi、ジワJiwaというレベルから人間本来のレベルであるジャスマニJasmaniと呼ばれるレベルへの向上が期待出来る様になる。)

49、言いかえれば、人間のこの行為は、もっぱら(他の低次の生命力に:それは植物力と動物力であるが)援助を与えるという性質のものではあるが、だからと言ってそれが人間の内部自我(Diri Pribadi)に利益をもたらさない訳ではない。

50、しかし、今述べた様な仕方でこれらの力を秩序づける事が出来なければ、彼らの道は暗く、闇の中で生きる事になるであろう。
(注:本来の人間としてのあるべきレベル(ジャスマニJasmaniレベル)に到達する事はできない、と言う事。)

51、このような暗闇の中では、人間の内部感覚Rasa Diriは混乱状態におちいり、人間としての(本来あるべき)地位にふさわしい前途はまったく失われてしまうと言う事ができる。
(注:生きている時に動物力の世界に飲み込まれた人は、その人生の最後に至ってはやはり動物力の世界に飲み込まれる、というのは妥当な話となる。)』


第9章 シノム 21節~25節、32節~34節(動物力の章:一部要約あり)
『19、実際には、動物力が私たちの人間的な自我の全てを左右する事は容易にはできない。
人間の性質の多くの部分は、人が注意を払いハート(Hati)の貪欲な要求に従わない限り、まだたやすく動物力によって影響される事はない。
(注:貪欲のナフスNafsu、それはアルアマAluamahスピアSupiahでありますが、その要求にずうっと従い続けてはならない、という警告になります。<--リンク)

20、はっきりいえば、人々が動物力に影響されるのは不注意からであり、それと同時に時折、人間としてあるべき様に行動しない傾向があるからである。
・・・
そして、まさにそのように行動することで、彼らの自我(Pribadi)は動物力によってさらに影響され、ついには本当は間違っている自分の行動をすべて正しいと感じ、(あるいは仕方がないものと感じ)、それが正常な状態であると思うのである。

21、このような誤った行動は動物力に何をしても良いというような活動の場所を与える事になる。
それが長く続くと動物力はますますはびこるが、その人は間違いなく(人間本来のあるべき姿)万物の長(おさ)としての地位を失う事になる。
(注:欲望にただただ従っていく事の結果はこのようなものである、というバパの主張です。)

22、もし人が道を誤り続けるとこのような事が起こります。
さらに(死後において)ひとたび動物力の世界に落ち込むと、人間の名残りをとどめたその存在は動物の生活を経験し、それが幸せと苦しみの両方に満ちた生活である事を見出すであろう。
(注:要するに動物もそのレベルにおいて幸せと苦しみを経験している、それは人の生活がその様であるのと似ているのだとバパは言います。)

23、動物の世界では、かつて人間であったというこのような存在は、もはや動物と人間の世界を区別する事ができないであろう。
なぜなら、そのための能力を(記憶と感覚Rasaを)持たないからである。
動物の世界では、彼等はすでにその世界に属する生き物のように感じ理解するであろう。
(注:このあたりの記述は、人が物質力の世界に落ち込んだ時にどうなるのか、というものと相似的であります。<--リンク)

24、これがもっぱら強欲の情熱(ナフスnafsuアルアマAluamahとナフスnafsuスピアSupiah)に導かれた人が誤った行動をする事で何が起こるかの説明である。
それゆえ、このような行動の仕方をやめ、動物力があなたの感覚(Rasa)を支配しあなたの進歩を妨げない様にする事が必要である。

25、それに失敗すると、単にあなた方は将来(生死を問わずに)道を失うばかりでなく、今ただちにそのように道を失うことになる。
そして、そのことによってあなた方の子孫が低いレベルの魂(ジワJiwa)を持つ事になりかねない。
(注:ここではバパは両親の行動の結果がその子供のジワのレベルを決める、という「バパのカルマ論」に言及しています。<--リンク)
・・・・・
32、このように似ている為に、感情に動かされやすく、その上人間としての自分の個性を意識する訓練(ラティハンの事)を全くした事のない人は、いとも簡単にこの動物力に影響され支配されてしまう。
もしそうなってしまえば、そのような人たちは(人生の)最後が来た時に間違いなく動物力の世界に落ち込む事になる。

33、真実を言えば、まさにその通りなのである。
しかし真実にまだ目が開かれていない人たちは、人間段階(ジャスマニJasmani レベル)よりはるか下に落ちるという可能性に気がつく事ができない。

34、だがそこまで深く落ち込んだ事の結果に苦しむのは、(この世での)最後の瞬間だけではない。
まだ人間のからだを持って生きている間ですら、彼等はもはや人間の様にはふるまわない。
これが転落の結果である。
従って実際は役割が逆転してしまう。
人間(力)は狭い生活の場を見つける事になり、一方で動物(力)はその反対に、例外的な広い活動の場所を見つけます。

35、こうした状況下では、動物力はますます強さを増し、なんでも望む事を行う事ができる。
それゆえ、動物力で満たされた人はハート(Hati)の強欲さ(ナフスnafsuアルアマAluamahとナフスnafsuスピアSupiah)だけに従いたがる、という傾向をもつ事になる。』

PS
動物の世界に落ち込んだジワJiwaのその後の運命、成り行きに関してはスシラ ブディ ダルマの中では何も記述されていません。

但し、関連する記事(63BCL7.8(ブライアクリフ))地球に定められし時、それから雑記帳36・人間力の階層が7つの内部階層を持つ事についてにはこちらから入れます。<--リンク

さて、バパは「ジワは死後も存続する」といいました。
しかしながら各自の「自己 プリバディPribadhi」 やそれに含まれる「内部感覚 ラサディリRasa diri」がどうなるのか、不明確な所が残ります。

それで、この件につきましては今後の検討課題としていきたいと思います。

PS
人間力以下の4つのロホの生命世界、それはバパ流の「輪廻転生の世界」となります。
それは地球上を舞台とし、どうやらこの現世にオーバーラップして存在しているかの様であります。
その世界を支配しているのは、従来の教説によればカルマなのでありますが、バパの説明ではカルマにはそのような働きを認めてはおりません。
たとえば、仏教によれば「人は六道を輪廻し、それぞれの世界で定められたカルマが消失する事でまた人として転生する。」とされています。
そうして「人という存在形式の時のみに解脱という事が、輪廻の輪から離れる、という事が可能になる。」と説かれています。
しかしながら、バパの説明の中のカルマにはそのような働き、機能はない様であります。
(バパのいうカルマは単に「人間が犯した誤りである」という扱いになっています。)

バパが述べている「輪廻転生の世界」からの解脱、あるいは離脱は「ロハ二世界への旅立ち」という形でトークの中に表れています。
それは本来の人間のいるべき場所であり、アダムが地上に降りる前にいた場所でもあります。
そこに到達する為には、当然のことながら普通の人間の段階、ジャスマニJasmaniと呼ばれる段階に到達し、そこからさらに上に行く事が必要になります。
そうしてまた、このロハ二の世界はこの地球上の世界ではない、というのもバパの説明であります。

しかしこの旅立ちの時に邪魔をする者達があり得ます。
それが人間力以下の4つの低次の諸力です。
現世の生活においてこれら4つの諸力との間に、合意、調整、清算、統御が完了していない時には、それぞれの諸力が旅立ちの邪魔をする、とバパは言います。
そうやって、ロハ二ではなくこの地球上のどこかの世界に引き込まれる、そう言う事の次第になるとトークでは述べられています。
・・・・・
以上の事に関連する記事、「バパのリンカネーション論(輪廻転生論)」にはこちらから入れます。<--リンク


連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク

雑記帳13・クバティナン事情(2011年)

 Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

 

 2011年10月現在のインドネシアのクバティナン事情

・ジャワの宗教、信仰、呪術<--リンク

いろいろと変化があるようです。

『・・・インドネシアでは宗教と信仰は別とされていて、前者は宗教省の、後者は観光文化省(認定された時点では教育文化省)の管轄下にある。
普段は略して「信仰」と言っているけれど、正式には「唯一神への信仰」と言う
・・・・・
信仰は各地に土着的なものがたくさんある。
以前は、信仰を表す語はクバティナン(内面的なるものの意)だったけれど、前・信仰局長の話によれば、信仰を表す語はクプルチャヤアンに統一されたので、クバティナンは今は使われていないとのこと。
・・・・・
そういう信仰を実践している人たちは、自分たちのことをプングハヤット・クプルチャヤアン(信仰実践者)と称する。
インドネシアには、似たようなカテゴリの人を指す言葉として、パラノルマル、ドゥクンという語があるが、信仰実践者を自称する人達は、彼らと一緒にされることを喜ばないので、注意が必要だ。

パラノルマル(英語のparanormal)とドゥクンはどちらも超常能力を見につけた人のことを指し、特に、失せ物・失せ人探し、事業の予言、病気治療などを得意とする。
ただし、インドネシアでは、どちらもネガティブな響きを持つ単語だ。
特に、少なくともジャワでは、ドゥクンという語を耳にすることはない。
そこには、呪術師のようないかがわしい感じの響きがある。・・・』

さて、バパの協会も今や観光文化省に登録されている模様です。
そうして他の団体と同様に「唯一神への信仰」を実践する団体と見なされている様です。

注:「唯一神への信仰」(Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)
クプルチャヤアン(Kepercayaan)信仰
トウハン ヤン マハ エサ(Tuhan Yang Maha Esa)唯一神<--リンク
関連記事「唯一神への信仰」へはこちらから入れます。<--リンク

PS
つまり「インドネシア仏教徒は「唯一神を信仰」している事になっている」のです。

さてこう書きましたが、これは「日本人から見た感想」です。

インドネシア仏教徒は「Tuhan Yang Maha Esa」を本気で信仰している可能性があります。
(「唯一神」はインドネシア語では「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれます。)

その「唯一神への信仰」と言うのは、とても古くからあるものでその上にまずは仏教とヒンドゥー教が伝来し、そしてのちにイスラム教とキリスト教が入ってきた、というのが歴史です。
(仏教とヒンドゥー教は端の方に押しやられました。)

そして、インドネシアの人たちは「それらの外来の神はすべてTuhan Yang Maha Esaが形を変えたものであり、本質は同じだ」ととらえている所があります。

そうでありますから、我々の目には一見無謀な、無理筋に見えるパンチャシラ Pancasilaが成立するのでありましょう。<--リンク

その一番目に
1、唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa
と言う事が決められています。

インドネシアの人はこれを認めそうして『インドネシアではイスラム教、プロテスタントカトリックヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが・・・』
これらの宗教は全て「唯一神を信仰するもの」と認めているのであります。

そして当然、オープンの時の宣誓も「Tuhan Yang Maha Esa」を信仰しますね、と聞かれるのですから「NO」と言う人はいないのです。

「唯一全能の神」などとは聞かれないのですよ。
これがインドネシアでの状況です。


さて日本ではどうなったか?
まずは「Tuhan Yang Maha Esa」が英訳されます。
クリスチャン文化圏の英訳者はそれを God Almighty とかThe only almighty godと英訳し、日本人はそうやって英訳された文章から「唯一全能の神」と訳します。

そうしてこう聞かれるのです。
「唯一全能の神」を信じますね?と。
おまけに伝わってくるバパのトークは全て「スブドの神はアブラハムの宗教の神」のように書かれています。
それじゃ「唯一全能の神」とはあれの事か、となりますよね、普通は。

さてそれで困ってしまうのは仏教徒でした。
・・・・・
世界中の翻訳者はこうしてインドネシア語から英語に翻訳されたものを第二原典として、そこから自国語に翻訳していきました。
従って、世界中でオープンの時の宣誓は「唯一全能の神」を信仰します、と言わねばならなくなったと、そういう事の次第であります。

全ての呼び名を超える存在としての「Tuhan Yang Maha Esa」と言う概念はインドネシアにしか存在しない様です。
そのためにこうした誤解、あるいは混乱が発生し、世界中に広まっていったのであります。
2019/1/19

PS
・クバティナン関連の目次です。<--リンク

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スシラ ブディ ダルマ・7章の1 人の世界から物の世界に落ち込む事

Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

第3章 キナンティ 19節~20節、39節~51節(物質力の章:一部要約あり)
『19、あなたが自分にとっての正しい仕事をすることで、自動的にあなたの神への礼拝、これは人間としてのあなたの内部自我Diri Pribadiが要求している事ではあるが、それが減ずるということは無くなるであろう。
まことにこれは最善の道である。
なぜならその時人は世的な目的の為に働くことのみならず、神への礼拝もまた捨てられなくなるからである。

20、ここに述べた事を行う事により、あなたはこの世での生活のみならず、死後においても真の平和と幸福とを味わうであろう。
・・・・・
39、物質的関心が実際に大きな利益を生み出すとなれば、なおさらのことである。
さらに大きな利益を求めて、彼らは身を粉にしてでも働くであろう。

40、すること、なすこと全てがもうけを生むという喜びの為に、財産に対する愛は彼らの中で際限なく深まってゆき、ついには家族や親しい友人を愛する以上に財産を愛するに至る。
・・・・・
42、とりわけそれが当てはまるのは、常に成功し、何をやっても儲かる人たちである。
もしも彼らが自分の内部自我Diri Pribadiを顧みないと、物の世界の深淵に落ち込むであろう。(注:後述 第5章 メガトルフ 29節~45節 参照)
・・・・・
44、物体の内部にある力の作用というものは、このようなものである。
これらの物質力は人をしてもはや死後の生活、死後も続く事になる人間の存在様式を信じさせなくなる程に強い影響を与える。
だからそのことに気が付いていなさい。
(注:リンカネーションをみとめるバパでありますから、死後も続くことになる人間の存在は大前提となります。)

45、別の言い方では、注意していないと物質力の作用によって(この世で生活している間に)、その人の性格が変化してしまうということである。
そのようなってしまうと、自分のジワJiwaの事を認識する事が一段と難しくなってしまう。
・・・・・
48、そのようになってしまうと(この世で生活している時にすでに)人間というレベルから物質というレベルにまでその存在レベルが落ちてしまう事になる。
そうなった人は、(財産を持っていない、というだけで)豊かでない人達を物同然に扱う様になる。
・・・・・
51、しかしながら、ある人達が、物質力を理解していない、統御していない、という事で貧しい生活をしいられているとしたならば、それもまた間違いである。
そのような人たちはこの世の生活でも不幸であり、そうしてまた死後の生活でも不幸である。
(注:だからラティハンをやって自分の運命、天命をしり、人間としての生活が出来るようにしなさい、とバパいうのです。)』


第5章 メガトルフ 25節~28節、物質力の章:仕事に取りつかれる事(雇主に雇われて働く人の例)
『25、そして雇い主に目をかけられている為に、自分が働いている部署では権力者になった様に感じ、同僚に対して横柄にふるまう者も出てくる。

26、こうした状況の中で、彼はいとも簡単に仕事にのめりこみ、ハート(Hati)や頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。(注1

27、昼夜、彼等は自分の仕事のこと以外は考えない。
そしてついには彼らの内部生命(inner life)も同様に影響を受けて、仕事以外の事は何も意識しなくなるのである。

28、それゆえ、外面的にも内面的にも自分の仕事に専念するのだが、その結果、人生の最後になって死を迎えた時に、彼らが引き寄せられるのはその方向に向かってである。
(注:つまり地球上の特定の場所に引き寄せられる。
つまり、生前に彼がこだわりを持って意識していた、常に考えていた場所に引きつけられる、ということです。
そして、それを通常は地縛霊と言います。
あるいは浮遊霊という場合もあります。
そしてバパの言い方ではそれは「物質力の世界に引きこまれたジワJiwa」という事になります。)』


第5章 メガトルフ 29節~45節、物質力の章:物の世界の深淵に落ち込むこと
物には物質力という一番低いレベルではありますが、生命力を認めるのがバパの世界観になります。
そうして、そのような物質力レベルのジワJiwaが集い、生活している世界としてスシラ ブディ ダルマでは以下の様な「物の世界」を記述しています。
しかしながらそのような世界を我々は通常は認識できません。
そうしてスシラ ブディ ダルマからその記述部分を引用してもただ単に我々は空想を刺激されるだけです。
くわえて、そのような世界の事を認識できなくてもラティハンを続けていく上では何の支障もない様です。
それで以下、その部分の記述は概要のみにとどめて、興味のある読者には原典にあたっていただく事にしたいと思います。

以下、第5章 メガトルフ 29節~45節の要約
『29、・・・物の世界の有様は我々の世界の様であり・・・

30、・・・この現世での我々の生活から見れば、そのような物質というものには生命がある様にはみえない。
それは我々が自分たちの生活の為に加工し便利な道具として使用する物としかみえない。・・・

31~32、・・・物のレベルで神との関連をもつ、それを礼拝といってもいいかもしれない・・・

33、このような訳で物は自分の地位を自分と比べてより高い段階である人間のレベルに引き上げてもらおうとして、人の思考に結び付く事を切望している。
(注:このような訳で人は自然を理解でき、それを自分たちの生活に役立てる事が可能となっている、というのがバパの主張です。)

34~35、37・・・このようにして物は人の世界に入り込み、人が生きている間、その人の望みに従い続ける。

36、それが物に定められた生き方である。
人はそのことを理解し、物質力の影響を理解し、それを統御できるようになる必要がある。

38~43、しかし実際には反対の事が起こっている。
つまり人間が物に仕えるのである。
そのために物の段階を引き上げるのではなく、人間が(死後に)物の世界に沈み込んでしまう。

39~42、死後、物の世界に落ち込んだ人はこの世にいた時に持っていた人としての記憶と感覚(Rasa)をもはや維持できない。
そして、物の世界を「当然の事」として受け入れる。

(このような状態は人の本来あるべき死後の生活の状態ではない。
しかし人間自身の行動の間違いによって物の世界に落ち込むならば、そうなってしまう、というバパの主張、警告であります。
そうして、そうであるとすればこの世の生活というのは人間にとっては本当にテストになっている、自分のレベルを改善し向上させるも、低次の諸力の欲望のままに降下させるもその人次第である、という事になります。)

44、(それまでその人に仕えてきた)物にとってみれば、この事(人を物の世界に連れ込む事)は正当な代償に見える。
なぜならば、これらの人々は(彼らが使っていた物に対して)借りがあるからである。・・・

45、しかしながら、その人にとって見ればそのような状況というものは、単に「悪い」というもの以上の事である。
それは人間にとっては「大いなる過ち」である。
人間は物に対して秩序を与えることが出来る存在であるのに、その事に完全に失敗しているからである。』

注1:ハート(Hati)や頭脳
ハートやマインド、あるいは感情心と思考心の様に訳される事もあります。
それで、現代の我々の考え方では「感情も思考も頭脳が作り出すもの」という様に理解しています。
ですから、この部分の訳は我々からすれば、
「ハート(Hati)や頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。」というのは単に
「頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。」とすればよい事になります。
しかしながら、バパの時代では「感情、想像、白日夢を抱く場所というものは肝臓(Hati)である」とされていました。
従って「心、感情、ハートと思考心が具体的に生み出される所」としては「頭脳」というだけでは足らず、「Hati(肝臓)と頭脳」と言わなくてはならなかったのです。
(Hatiについての、このような理解は、1959年5月3日のトークの注釈からの引用となります。)

PS
物の世界に落ち込んだジワJiwaのその後の運命、成り行きに関してはスシラ ブディ ダルマの中では何も記述されていません。

但し、関連する記事(63BCL7.8(ブライアクリフ))地球に定められし時にはこちらから入れます。<--リンク

連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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雑記帳6・ラティハンからの照明(イルミネーション)

 Hatena - ラティハン日記・掲示板 目次<--リンク

「ラティハンとは何であるのか?」

そういう質問に対して「ラティハンと言うものはこういうものだ」という説明がなされる。

その説明の元になっているものは、コトバは、ボキャブラリーは、情報は、知識は、今まで地球上に存在してきたものである。

まあ当然ですね。

従来のものを、既知の物を使うしか説明、あるいは証明と言う行為はできませんからね。

そうしてそれが説明の限界、証明の限界なのであります。

そういうものを超えてしまったらもはや説明は不可能、証明は不可能になります。

そういうわけで、本当は「ラティハンは説明不可能」なのです。

しかしそうはいっても、それでは「身もふたもない話」になってしまいますので、そういう訳にもいきません。

それでラティハンに対していろいろとバパは説明してくれたのであります。

ジャワ語をつかって、インドネシア伝統の文化をつかって、イスラムを使って、アブラハムの宗教をつかっての説明でありました。

しいて言うならばそれはラティハンのバパバージョンの説明であります。

その意味は「ラティハンはバパの説明を超えている」という事であります。

しかしながらそれは誰が説明してもその人の使うコトバ、その人の暮らす文化、宗教、思想によってしか説明はできないのですから、どのような説明が展開されようとも、その説明をラティハンは超えているのです。

さて、そのような事を前書きとして、逆にラティハンからの照明を、光を、見えてくるものを少々書いておきます。

ラティハンを説明するために使われた宗教的な説明、あるいは宗教そのもの、それに対して今度は逆にラティハンからの照明があたります。

ラティハンによって見えてくる宗教の意味、本体、実体がありそうです。

そのような話をすると既存の宗教権威からは反発がきそうです。

「我々が宗教の実体を知っている者だ。」という訳ですね。

しかしながら我々庶民にしてみればそのような「えらいさん」がどのような実体をつかんでいるのか、などという事はどうでもよい話であります。

要は、生まれてきて、いずれはこの世を離れるであろうこの身に起こる事を知りたい、という話でありますら、それがわかればいいのであります。

そうしてどうやらラティハンはそういう希望に答えてくれそうな、人から人に手渡すことができる、技術、テクニック、方法、礼拝、啓示、天啓、恩沢、ワヒューなのであります。

それは日常生活では人の内省と自覚と努力を要求し、その結果は変容、覚醒、救い、解脱をもたらす可能性があります。


注:「可能性がある」という意味。

上記の「結果」に書かれている内容は、いままではいわゆる「宗教的天才」によってしか達成された事がなかったものです。

したがって、それらの事を達成するのは、どのような道をめぐるにせよ難しい、と言うのが実情です。

しかしながらラティハンの道はそれに比べれば比較的にたやすい道ではありますが、そうかといって無条件にラティハンさえ実習していればそのようなところにたどり着ける、という訳でもなさそうです。

バパがカルマと呼ぶ、先祖から引き継いできた内部感覚にため込んでいる浄化対象のごたごたの多い少ないという違い、会員がどれだけ忍耐と誠実さをもってラティハンに従っていけるのか、という時間軸上の試練、そうして同時に日常生活ではラティハンの注意にどの程度従っていけるのか、という問題、そういう個人個人に帰属する問題があります。

そういう問題がクリアできれば、バパが主張している様なロハニと言われるような状態に達することが出来るかと思われます。

そういうわけで、ラティハンの道はある種の宗教とは異なり、~すれば天国は(あるいは極楽は)保証される、というような道とは違います。

(最終的にはラティハンの道に従う事でどの程度まで内部感覚の浄化が進んだのか、という事がポイントであって、そうならない状況では、そのようにできない状況では、多くを望むことは難しいと思われます。)

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。

追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。

バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。

そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。

そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。

したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。

しかし、本質はごまかす事はできません。

そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。


PS
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雑記帳34・バパの堕落論とベネットの進化論

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さてバパは「人類はアダムに始まってそこからは堕落の歴史が今日まで続いている」と論じます。

他方でベネットさんは「人類の精神は進化の途上にある」と論じます。

この話、一見すると「まるで方向が逆ではないか」と見えるのですが、いずれにせよ今いる場所から出発して上に登らなくてはならない、という意味では、目指す所、やる事は同じ事の様です。


バパの説明はアブラハムの宗教の伝統に沿ったものであります。

他方でベネットさんの説明は、今という時代の精神に沿ったもの、いわゆる「科学的なものの見方、歴史観」に従ったものの様に見えます。

そうしてベネットさんは、まずはグルジェフの体系で人の精神は次のステップに行けるのではないかと試されました。

それで、うまくいかずに次にラティハンを試された、という訳です。


しかしながらラティハンそのものは容易なのですが、ラティハンで進歩し続ける、ということは、変化し続けるということは、実はとても難しい事なのでありました。

それゆえその事に耐え切れなくなって、ベネットさんはグルジェフの体系とラティハンとを融合させようとした模様です。

しかしながらハート、マインドとジワとの融合というのはラティハンによってのみ可能になるものでしたから、結局はその試みはうまくいかなかった模様です。


もし人がラティハンを継続する事によって疑問を持たなくなり、自分を顧みなくなって、「ああこれで安心だ」という状態になったとしたら、現状に満足し、その先を見据えないとしたら、それはあきらかにマンネリに落ち込んでいる事になります。

ラティハンを続ける事で精神的な創造性がなくなるとしたら、それはラティハンのせいではなく、その人のラティハンに対する態度のせいであります。

ラティハンは人をして愚鈍にするようなものではありません。

まさにその反対のものであります。

そうでありますから、「ああ、これで楽になった」ということで満足し、そこに安住するならばそれはバパが目指したもの、そうしてまたベネットさんが希求したものとは全く別のものになる訳であります。


PS
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